新米看護師、悩む
N市立総合病院、南病棟7階。今月からこの小児科病棟が、新米看護師である私の居場所。
幼い頃から憧れていた職場……のはずだったんだけど。
「もう~どうなってんのよこれ」
お昼3時の病棟回診が直前に迫った忙しい時に、私は未就学の男児と密着していた。いや、その言い方だと私が変態みたいになっちゃう!
「タチバナさん、密ですよ! ていうかなにやってんの」
ひえぇ。師長のヤマモトさんからお叱りが飛んだ。反射で背筋が伸びる。
「ち、違うんです! ワイヤーが絡まっちゃって」
「なに?」
私はヤマモト師長に状況を説明した。密着していた(不可抗力だからね?)相手は、我らが小児科に入院中のダイチ君。彼の着ていたジャンパーの金具に、私のネームプレートの紐が引っかかっていたのだ。
うちの看護師はみんな名札を首から提げずに、服の右横のポケットにリール付きネームホルダーを付けて、びよ~んと伸ばせるようにしている。私ですら最初は遊んだのだ、入院生活に退屈している子供が食いつかないはずもなく……ちょっと目を離した隙にリールのワイヤーが、ファスナーの金具に引っかかっていたというわけ。
「どれ、見せてみなさい。――本当、ちっとも外れないわ」
「そうなんですよ」
ワイヤーには必死で取り出そうとした跡が付いているが、一向に抜ける気配はない。ファスナーの金具はよくあるタイプのもので、一端が開いたC字の形だ。この隙間から入り込んだはずなんだけど、なぜかワイヤーの方が微妙に太いので引っかかって取れないのだ。(図1参照)
図1
おまけに、C字の中は十分に余裕があるから、ワイヤーを上手く隙間に固定できなくて、非常に力を伝えづらい。だんだん苛ついてくるわ。
ワイヤーを輪に対して横向きに動かすことは簡単だけど、片側はリールの巻き取り部分、もう片側はネームホルダーの金具になっているので、そこから抜くこともできない。じゃあどうやって入ったんだ? という話だけど、ダイチ君いわく
「いじっているあいだにはいったの」
らしい。まあ、実際こうなっているわけだからどうしようもないけど。
「この入り口に引っかかるのね……ファスナーの持ち手を強く引っ張って、隙間をちょっと広げるのは?」
「やろうとしたんですけど、上手く力をかけられないんです。それに、ファスナーを壊しちゃいそうで」
このご時世、なかなか面会の許可は下りない。ダイチ君は年齢の割にはしっかりしている子だけれど、お気に入りのジャンパーを入院着の上に羽織ることで不安を紛らわせていた。まだまだ親に甘えたい年齢なのだ。
私の邪魔をしてしまったと思ったのか、今は泣きそうな表情ですっかりしょげている。ああ、そんな顔しないで。こっちまで悲しくなっちゃう。
「仕方ないわね。ワイヤーを切ってしまいなさい」
ヤマモト師長はバッサリ言い切ると、回診の準備に向かってしまった。うぅ、ですよねー。
周りには医師の先生方も集まってきた。部長先生までやってきたら、ドヤされてしまう。回診の時刻に患児がちゃんと病室にいるよう調整するのは、私たちの仕事の一つだ。かと言って、このまま私がダイチ君と一緒にベッドに寝そべるわけにもいくまい。
しゃあない、新しいネームホルダーは自腹だ。
泣く泣く収納ポケットからはさみを取り出そうとした、その時。
「あれれ。幼児を泣かせる悪いナースさんがいるねえ」
「その声は……クロダさん!」
背後から近付いてきたのは、一年先輩の看護師だった。高い身長に、すらりと伸びた手足。短く切られた黒髪は艶やかで、そして中性的な顔立ちは恐ろしいほどに整っている。たった一つ違いとは思えないほどオーラのある、頼れる先輩だ。
「暗い顔してどうしたの、タチバナっち。部長先生たちもすぐ来ちゃうよ」
「先輩~! 助けてください」
私はワイヤーを切るのを手伝ってもらおうと思って、軽く事情を説明した。いやあ、ありがてえ。正直、携帯している医療用のはさみで、ちゃんとワイヤーを切れるかどうか不安だったのだ。万が一そばにいるダイチ君に怪我をさせたら大変。まさに地獄で仏とはこのことだ(「地獄」とか言ったら鬼の師長に睨まれそうだな。でもある意味本当だもんね!)。
すると、黙って話を聞いていた先輩はふんふんと頷くと、いきなり私に顔を近付けてきた。
へ?
唐突に迫り来る美形に、私は硬直してしまう。実際には、先輩は絡まっている部分を近くで見ようとしただけのようだった。頭で隠れて見えないけれど、なにやらごそごそとファスナーをいじっている。
だけど私はほんの少しの間、まともな思考力を失っていた。うほぉお、髪きれー! なんか良い匂いするっ!
「ほら、終わったよ」
「え?」
先輩はこともなげに言って、伸ばしたネームホルダーを手放した。ワイヤーはするすると縮んで、私のポケットにパチンと納まった。
うお!?
え、どうして。あれだけ苦労したというのに、あっさりとワイヤーをファスナーの金具から外してしまった。ダイチ君も驚いた顔をしている。
「すげー。てじなみたい!」
「ふふん、すごいでしょう」
鼻高々な先輩を見つめながら、私の頭は疑問符で埋め尽くされていった。腕力は私や師長とたいして変わらないはずだから、力技ではないだろう。じゃあどうやって外したんだろう。まさか本当にマジック……?
その後やって来た部長先生に叱られながら、私は慌ててダイチ君を病室まで連れて行ったのだけれど――回診の最中も、頭の片隅ではこの謎めいた出来事が燻り続けていた。