第五章 レオ帝国剣客拾遺譚 19話
ムサシが負けた記憶は三度ある。きっとそれ以外では彼は負けていないだろう。
一つはムサシが王を退くきっかけになったヤクモ=オフィックスとの闘いだ。これが笑い話である。硬貨の裏表で勝負を仕掛けてくるなんて思ってもいなかったし、それに乗ったムサシは今思い出しても傑作であった。あれで絶対に勝てると思っていたヤクモの度胸にムサシは負けたのだ。
優秀な長男もいたこともあり、ムサシはヤクモに敗北したのをきっかけに王の座をホムラに譲った。
二つ目は奥さんであったソラノであった。
剣の腕を極めるためだけに生きてきていたムサシにとって、父の元で後を継ぐために修行の毎日をしていたムサシの強き心を簡単に開いてみせたのは城下町の娘ソラノだけであった。
ムサシの父はよく町へ出てゆく人であった。故にムサシもそれに同行し、よく城下町を探索していた。その時に出会った団子屋の娘がソラノであった。
ムサシは父に内緒で変装し、足しげくその団子屋に通った。覚えてもらえるために、元々の厳格な性格を偽り、飄々とした態度を取り作って彼女に話しかけていた。
勝者は追われる者だ。父の教えであった。勝者は常に寝首を狙われている追われている。故に逃げ切るか、迎え撃たねばならない。そのために強くなれと。ムサシに語っていたのだ。
もし、父の教えが正しいのであれば、ムサシはソラノに既に敗北していた。
ムサシはソラノを追っていたのだ。その手にしたくて、もっと知りたくて、彼女は美しく気品があり、何事も許さぬ強き心があった。
偽りの飄々とした性格が板についてきた頃に、父に隠れて町へ赴いていることがバレた。
ムサシは腹をくくり、正直に話した。
物にしたい女がいる。その女の顔を見に、身分を偽り赴いていたと――。
ムサシの父は激怒した。次期王となる者が、一介の女に篭絡され、身分も忘れ町へ通っている現実を嘆いたのだ。ムサシはそんな父に腹を立て、勝負を仕掛けた。
そしてムサシは父に勝利した。この国では勝敗が全てだ。父を力でねじ伏せたのだ。
「私、貴方とは結婚できません」
父を倒し、王の座についたムサシにソラノはそう言い捨てた。
ムサシは落胆した。彼が人生で初めて敗北を実感した瞬間であった。
それでも彼は食い下がった。どうすれば君を妻に迎えることが出来ると――。
「私は優しい人が好きなのです。貴方にそのような王が務まりますか?」
ムサシはやけくそで頷いた。彼女の言う優しいと言う意味はよくわかっていない。
力を以って、力を制するのがレオ帝国の王の在り方である。そこに彼女は優しさがないと言う。
彼の努力は王としての在り方を変えるところから変わった。
しかし、彼の王としての市政はとても上手とは言えなかった。町民の中でも彼に不満を溢すものが多かった。そんな者たちにムサシは言った。
「わかった。その文句を俺に全部ぶつけろ!」
優しさがわからなかったムサシは文句を言ってくるもの達全員と向かい合い、負けないように、折れないように彼らと相対するしかなかった。
どれだけ襲われようと、彼らをいなして倒した。彼らを返り討ちにしたが、彼らの言い分を参考に市政を行った。しかし、それに答えると新たな問題が発生し、新たな苦情が現れる。その者たちの攻撃もムサシは全て対応した。
そんな日々を送っているうちにムサシは毎日誰かに喧嘩を挑まれているレオ帝国きっての無能な王としての箔がついてしまった。
その様子を見守っていたソラノはえらく上機嫌に笑った。
そんな小さな問題全てに目を向けていればこうなるのも当然だと。
ムサシは優しさもよくわからないから向かってきたものに答えるしかできないと言った。
ソラノはその様子でさらに微笑み、それも優しさの一つとした。
「いいでしょう。私のような町民に務まるかわかりませんが、貴方の妻となりましょう。歴史上もっとも無能な王の妻になろうとする優しい女は私くらいでしょうし」
ソラノは笑いながら、数年前のムサシのプロポーズに答えた。
そしてムサシとソラノは4人の子どもを産むことになる。
「さア! ヤマト! どうしたもっと来い!」
ムサシの怒声が響き渡る。ヤマトは苦しい顔をしながら構えるムサシを見つめる。
ムサシに一撃も当てることが出来ない。父が国民と闘っている時をヤマトはよく見ていた。しかし、その時のムサシはどこか楽しそうに笑っていた。
けれど今は違う。冷たい目をしている。その目はホムラそっくりであった。
ヤマトは地面を蹴る。ムサシが迎え撃つ体勢を取ると同時に、右足を軸に半回転して、ムサシの背後を取る。キドウに学んだ技の応用である。ヤマトはムサシの背中に突きを放つ。
ムサシは二本の竹刀を背後に伸ばし、クロスしてヤマトの突きを防ぐ。
「そうだ! もっと他国に行って学んだ技を俺にぶつけてこい」
ムサシは叫ぶ。ヤマトは騎士時代の剣のように大振りでムサシの頭上を狙う。ムサシはがら空きになったヤマトの胴体に竹刀を思いっきり叩きつける。ヤマトは呻き声を上げて、膝をつく。
「そんなことじゃあホムラに勝てないぞ。あいつは刀を使ってくる。もし俺がホムラなら、お前は今ごろ胴体を真っ二つだ」
「くっ」
「ほら、立ちな! ヤマト」
ムサシは二、三歩ヤマトから離れて再び二本の竹刀を構える。
ヤマトは痛みに身体を震わせながらなんとか立ち上がる。
ヤマトは考える。正攻法では父に一撃も当てることは出来ない。
しかし、そのような絡め手で父から一撃を当てることが出来てもそれは勝利と言えるのか。
それでムサシから一撃を当てることが出来てもそれがホムラに通用するのかわからない。
ヤマトの脳裏にホムラへの恐怖心が広がってゆく。
「ヤマト!」
「は、はい!」
突然ムサシに怒鳴られてヤマトは身体をビクつかせて咄嗟に返事をする。
「考えすぎて何も言えなくなるのは小さい頃からのお前の悪い癖だ」
「も、申し訳ございません」
「まぁ、真面目なやつなんだろうさ」
父の怒鳴り声で頭の中でモヤモヤしていたものが消える。
ヤマトは大きく深呼吸をして、再び刀を構える。
「お前はこれから多くの者と闘うことになる。昔見捨てた幼馴染。自分の友を付け狙うこの国最強の剣術を操る男。王に付き従い、あんたを捕らえようとする弟。そしてお前がもっとも恐れているこの国の帝王。全てお前が過去、ここから逃げた時の身から出た錆だ。その全てをお前はどうしようとしている」
ムサシが真剣な表情でヤマトに問いかける。ヤマトはその言葉をしっかりと脳に刻みこみ、じっくりと考える。この闘いで自分が成したいこと。これから自分がしたいこと。コブラやキヨ、アステリオスやロロンと共に歩むために自分がやるべきこと。
ムサシは何かに気付きそうな表情をしているヤマトを見て安堵の息を漏らした後、言葉を続ける。
「ヤマトを言ったことはなかったが、お前は兄弟の中でもっとも母さんに似ている」
「俺が……母上にですか?」
ヤマトの母、ソラノ=ヘラクロスはハヤテを生んで数年で命を落とした。
元々血色のいい方ではなかった母が子を4人も成したことが奇跡だと産婆が言っていた。
その時からヤマトは内気な子どもになり、その後、タケルと言う少年と出会うことになる。
内気になる前。自分が兄たちには勝てないと思いこむ前のヤマトはよく母の膝の上でムサシが国民と闘っている姿を見るのが好きだった。
ムサシは国民と闘っている時、本当に楽しそうだった。ヤマトはその光景を見ているのが大好きだったのだ。ヤマトはきっと、兄弟の誰よりも、父を尊敬していた。
そして母を愛していた。
母が死んだ日。ムサシは平然としていた。否、平然を装っていた。
ホムラは何かを悟ったように静かな目で母の遺体を見つめていた。
シュンスイは平然としている父やまるで道端の石でも見るような目で母の遺体を見つめるホムラに怒りを露わにしていた。小さいハヤテは何が起こったがわからず辺りをきょろきょろとしながらヤマトの膝を掴み、ヤマトは部屋で響き渡るほどに、一生分の涙を使い果たすのではないかと言うほどに涙を流し、状況を理解していないハヤテを抱きしめた。
ムサシは思ったのだ。ここで自身の強さを誇示してしまう自分やホムラ、怒りに飲み込まれてしまったシュンスイには、彼女の言う優しさを持ち合わせてはいない。
涙を流し、一番弱い存在であるハヤテをそっと抱きしめてやれるヤマトこそ、もっともソラノが持っていた優しさを受け継いでいる存在なのだと。
「ヤマト。お前は優しい奴だ。その優しさは、俺が必死に掴もうとしていたものだ。ソラノが一番大事だと言っていたものをお前が持っている。そしてそれがお前のやりたいことに繋がっていると、俺は思っているぞ」
「俺が……やりたいこと」
ヤマトは竹刀を握った自分の手をじっと見つめる。
この竹刀で俺はどうしたいのだろう。
目の前のムサシを叩くことだろうか。全ての敵を薙ぎ払うことだろうか。
ホムラにタケルの復讐をするためであろうか。
色々なことを思案しているうちに、ヤマトの脳裏にはコブラたち4人と旅をしている自分の姿。彼ら4人を、自分はどうしたいのだろう。
ヤマトはそっと竹刀を腰の方までおろして、膝を曲げ、腰もぐっと下ろす。
その構えは居合い切りの構えであった。
ムサシは気づく。これはこちらにとびかかって刀を抜く居合切りの構えではない。その構えにしては足をしっかりと地面に踏み込みすぎている。
「父上。私はあなたが闘っている時の姿が好きでした。それは母上も同じだと思います。故に、私はこの構えでいかせていただきます」
しっかりと踏み込んだ居合切りの構えは、そちらが来ない限り、攻撃するつもりはないと言う意思をムサシに示していた。ムサシはヤマトが自分の成したいことに気付いたと同時に、自分が小さいヤマトを見て抱いていた希望を見いだし、思わず微笑んでしまう。
「まっすぐとしたいい構えだ。まさに「地」の名にふさわしい」
ムサシとソラノが子を成したときに、それぞれの子どもたちにソラノが思う強さをそれぞれに与えた。
ヤマトと言う名は、山のようにどっしりと構え、全てを受け入れ、大地に新たな道を描くように、兄二人とは違う視点を持てる子になってほしいと名付けたのだ。
ソラノは元々子を4人成したかったのだ。王の子がそんなに多くては王位などが面倒になるのではないかと、それにソラノの身体が心配でムサシは苦言を呈したが、ソラノはそれでも首を振った。
「この国は王一人に全てを任せすぎなのです。だから、より多くの子を成して、みんなで力を合わせて、この国を導く。ほら、昔話の守護霊とかって大体四体でしょう? だから四人。この子たち4人に自然の名を与えて、レオ帝国を守ってもらうの」
ソラノが生まれたホムラを抱きかかえながら言っていた言葉をムサシは思い出す。そして今の兄弟の在り方に少し寂しさを感じる。
「私の剣は、コブラたちを守るため、そしてこの闘いにおいて、ミコトや、兄弟たちを受け止めるために使うものです。自分から相手を潰すようなことをしては意味がありませんので」
「いいねぇ。じゃあまずは父親の餞別を受け止めてみな!」
ムサシは構えるヤマトに向かって竹刀を構えながら、ヤマトに向かって走る。
ムサシの記憶に残っている敗北の最後の一つ。
それは、国民たちに売られた喧嘩を返り討ちにした時、その様子を見ていたヤマトに歩みより、彼の隣に座ったときだった。
「どうだ。ヤマト。父さんは強いか?」
「うん。強い!」
「ホムラにはいつも弱いってバカにされるんだがなぁ」
「どうして?」
「弱いから相手が勝てるかもって思われちゃうんだ。本当に強いんだったら相手はそもそも喧嘩なんか挑んでこない。だとさ」
ムサシはホムラの真似をしながらヤマトに語り聞かせる。ヤマトはその言葉を聞いて首を捻らせた。
「んー、それは父上が弱いからじゃなくて優しいからだと思うよ?」
ヤマトの言葉を聞いて、彼を膝に乗せていたソラノはクスクスと笑っている。
ムサシはその言葉に思わず目を丸くした。
「父上が毎日闘っているのは国民をわかろうとしているからだもん。誰かをわかろうとすることが優しさだって、母上が言っていました!」
ヤマトの言葉を聞いて、ムサシは思わず目頭が熱くなった。
ソラノと結婚した時に芽生えた優しさという感情が、しっかりと己の身に刻まれているんだと、ヤマトの言葉で気づいたからだ。自分が目指した強さに辿りつけたのだと、自分の子供の言葉に気づかされ、涙が流れるのを隠すことができなかった。
「ははは。こりゃ、一本取られたな」
ムサシが涙を流したのは、生まれた時と、ソラノと結ばれた日、そして、ヤマトにこの言葉を言われた時であった――。
竹刀が響く。ムサシの動きをじっと観察していたヤマトが放った居合切りが、ムサシがヤマトの肩に竹刀を届かせるよりも前に、彼の胴体に当たっていた。
「見事だ。相手の動きをしっかりと観察し、相手の攻撃に対して的確な対応だ」
「ありがたきお言葉です」
ムサシとヤマトは試合を始める前の位置に戻り、お互いに正座をしてゆっくりと頭を下げる。
「良き試合でありました」
「ご指南ありがとうございました」
互いの礼の言葉を述べて顏を上げる。
「私は、仲間を守り、相手を受け入れる剣を信条として、この旅を続けようと思います」
「あぁ。それでいい。もちろん。守るためには、相手を倒さないといけない時もある」
「その覚悟も出来ております」
「あぁ、さっきの一振りでそれはわかっているよ」
ムサシはゆっくりと立ち上がり、ヤマトのほうに歩み寄る。ヤマトも立ち上がり、ムサシの目を見つめる。
「さて、とりあえず父親からの稽古はここまでだ。この後はどうする?」
「……ミコトのところへ。彼女への贖罪をしてきます」
「そうか。死ぬことは贖罪になんねぇぞ。今のお前では」
「はい。誰かが死ぬ悲しみの連鎖は私で立たねばなりません」
ヤマトはそう答えてムサシに背を向けて道場を出る。
道場から出てきたヤマトに待たされていたアステリオスが歩みよってくる。
「ヤマト! 稽古とやらは終わったの?」
「あぁ。これからキヨを迎えにいく」
「だったら僕も行くよ」
「いや、君はここに残っていてくれ。ロロンのこともあるし、君も身体がボロボロだろう」
アステリオスはそういうヤマトに食い下がることは出来なかった。
ヤマト自身もボロボロなのに、これからミコトのところへ行こうとする彼を止めたかったが、彼の覚悟を孕んだ目を見ると、アステリオスも覚悟を決めるしかなかった。
「わかった。僕もロロンさんも今は身体を休めておくよ。いつでもこの国を出れるように準備しておかないとね」
「それにコブラの奴も戻ってくるかもしれない。戻ってきたら事情を代わりに説明してやってくれ」
ヤマトは外へ出るための身支度を始める。
「おい」
ムサシに声に振り返ると、ヤマトの胸に鞘に収められた刀が押し付けられた。
「父上。これは?」
「普通の刀だよ。相手を殺す気がないからって武器無しってわけにもいかねえだろう。今のお前だったらそのよく斬れる刀でもミコトちゃんの命を奪うことはねぇ」
ムサシはそういうとヤマトの頭をわしわしと撫でまわす。
ヤマトは恥ずかしそうにしながらも受け取った刀を腰に携えた。
「アステリオスとロロンのことは任せな。客人はしっかりと守ってやんねえとな」
「ありがとうございます。キヨも必ずここに連れて帰ってきます」
ヤマトは一言礼を言ってムサシの家から出て戸を閉めた。
「さて、行こう」
目的地はこの国でも珍しい桃色の花びらが舞う綺麗な木のある森林。ツクヨミ邸の敷地内にある。特別な木。
なぜだかわからないが、あそこにミコトがいると言う確信がヤマトにはあった。
ヤマトはゆっくりと深呼吸をしながら歩き始める。