日常
僕の名前は生ハム。南アフリカのオオサンショウウオだ。
仲間たちからは最速の生ハムと呼ばれたりもする。なぜかというと、理由は簡単で、南アフリカのオオサンショウウオの中で僕の足が一番速いからだ。僕はこれが結構誇りでもある。
さて、どうして僕が名乗ったかだが、最近仲間たちの間で流行っている一人遊びが原因だ。遊びの内容も簡単で、ただ自分の中で自分の一日を自分だけで説明するというもの。自己を認め振り返り更なる高みへ望むのに丁度いいとか長老は仰っていたけど、僕たち若いもんにはただの暇潰しとしか思えないことは、内緒である。
と、まあ、こういう普通で平凡な経緯で、目覚めてすぐ僕は心の中で名乗ったわけだ。今日一日続けていこうと思う。
「おい、生ハム。飯の時間だ」
隣から声をかけてきたこいつの名前はテーブル。不動のテーブルと呼ばれている。一度こうと決めたら、てこでも動かないから不動とついている。僕の友だちだ。
「今日の人間は何味かな」
広場に向かうテーブルの後ろから、あくび交じりに毎朝のお決まりな文句を口にすれば、振り返りもせずにテーブルもお決まりな返事を寄越した。
「さあな。俺は少し渋みがあるやつがいい」
その味を思い出して僕は顔を顰める。
「甘いのがいいな」
渋いのも辛いのも、僕は苦手だ。広場に着くと既に戦争が始まっていた。お星さまから与えられるたくさんの人間を仲間たちが我先にと食らいついている。
「やった。今日甘いのだ」
「勘弁してくれ……」
テーブルは溜め息を吐いていた。僕は構わずみんなに混じってお星さまから人間をキャッチする。かぶりつくと、じゅわりと人間汁が滴って、甘い味と硬い歯触りが口の中を満たしてくれる。この人間は少し硬かったが、噛み砕けば噛み砕くほど旨味が広がった。
「やっぱり甘い人間はおいしいな」
僕は次の人間に手を伸ばした。ようやく食事を始めたらしいテーブルは苦い顔して人間を舐めていた。おいしいのに。
朝食が終わると自由時間だ。テーブルは不動を貫いているからそっとしておいてあげよう。僕は木に登ることにした。
「あら、生ハム。あなたも木登り?」
枝を掴むと上からガサリと音がして、見上げると尻尾が垂れ下がっている。僕はその主である彼女の近くまで登り、太い枝に腰かけた。
「やあ、マリーミー。暇なときは木登りに限るよね」
枝と葉の向こうからマリーミーのくすくす笑う声が聞こえてくる。マリーミーはユーラシアのクモだ。僕は彼女の顔が見えるところまで近づきたい心をぐっと堪えて、他愛もない話に花を咲かせることにした。
「今日の朝ご飯、僕の好きな甘い人間だったんだよ」
「ええ。あなた、おいしそうに食べてたわね」
「とてもおいしかった! テーブルのやつは渋いのが好きなんだけど、僕には分からない感覚だ」
「私はすっぱい味が好きよ」
「きみも人間を食べるの?」
「いいえ。私が食べるのは飛行機よ」
「ヒコーキ?」
「ふふ。すっぱい食べ物のことよ。ここから丸二日飛んだところに群生しているの」
「へえ……そこは南アフリカ?」
「違うわ……いつか、連れていってあげる」
「本当にっ? やった!」
もちろん僕は、僕よりも小さいマリーミーが僕を連れて移動するなんてことが無理なのを知っているけれど、それでも嬉しくて手を上げた。マリーミーの楽しそうな笑い声と枝葉の揺れる音が混じりあって、とても心地よい空間だった。
「おい、生ハム!」
そんな空間に一番聞きたくない声が下からして、僕はげんなりした。
「最速の生ハム、俺と勝負しろ!」
ええ、嫌だな。返事をしない僕にマリーミーの甘い声がかけられる。
「いってらっしゃい、生ハム。また明日来るわね」
羽ばたく音とともに、負けちゃ駄目よ、なんて言われてしまえば、これはもう行くしかないじゃないか。
「それで、何の勝負をするの、熱血のみたらし」
目の前で鼻息を荒くしているみたらしに、投げやりに聞いてやる。
熱血のみたらし。彼はことあるごとに勝負を挑んでくる熱血漢だ。正直僕は彼のことを面倒くさいと思っているが、本人はそんなこと露ほども気づいていないだろうな。
「ふふん、決まっているだろう! 今日こそはお前より速くゴールしてやる!」
「ええ、また駆けっこ?」
みたらしは何にでも負けず嫌いで、僕が南アフリカのオオサンショウウオの中で一番足が速い事実にも、それを発揮してくる。みたらしが努力を惜しまないことは知っているけれど、その努力が実ったことは、駆けっこの勝負においてはまだ一度もなかった。僕は溜め息を吐いてしまう。
「何をしているんだ、早く位置につけ。ゴールはあの岩にするぞ」
既にスタートラインで身構えているみたらし。僕はマリーミーの言葉を思い出して、よしと気合を入れて彼の隣に立つ。
「テーブル! 合図をしてくれないか!」
離れたところで目を閉じ毅然と仁王立っているテーブルは、みたらしの大声にも動じず、というか動かなかった。
「駄目だよ、みたらし。今テーブルは不動中だ」
「くそう、さすがだテーブル……!」
テーブルの不動に勝負を持ち掛け負けたことがあるみたらしは悔しそうに歯ぎしりした。他に合図をしてくれるやつは、と見渡して、お星さまが人間の残骸をかき集めているのが目に留まる。
「じゃあさ、あのお星さまが、手前の残飯……分かる? あのおっきなやつ。あれを拾ったのを合図にしよう」
みたらしが大きく頷く。たまにはこういう変わった合図もいいだろう。僕とみたらしは、じっとお星さまを見つめる。そして、お星さまはそれを拾い上げた。
残骸が地面から浮いた瞬間、僕の足も地面を蹴る。ほぼ同じタイミングでみたらしも駆け出していた。おお、と思う。
ゴール地点である岩へ先に着いたのはもちろん僕だった。数秒遅れてみたらしも到着する。
「くっ、また負けた……!」
肩で息するみたらしに、僕は得意顔で胸を張る。
「こればっかりは譲れないよ。僕は最速の生ハムだからね。あ、でもみたらし、今までで一番速い駆け出しだったよ」
もしかしたら、彼の努力が実ってしまうんじゃないかと思うほどに。それを想像して、僕は明日から走り込みでもしようと決意する。他のことでは負けてもいいけど、走りだけは負けたくない。面倒くさがりな僕にもこういう影響を及ぼしてくる彼は、やっぱりちょっと面倒くさい。
「なに、本当か!? ならもう一度だ、もう一回勝負だ!」
さすが熱血のみたらし。言うんじゃなかった。
結局、何度もみたらしと勝負して、惨敗の彼が他の勝負を提案し、断る僕を強引に引っ立て強引に勝負しているうちに、夕方になってしまった。駆けっこ以外の勝負に手を抜くと面倒くさいことになったから、僕まで熱血のと言われかねない働きをした。へとへとだ。みたらしは強引のみたらしか勝負狂のみたらしと改名した方がいいと思う。
「お疲れさま……生ハムくん……」
もう少しで夕飯の時間ということもあり、広場で脱力していたら、暗くなりつつある空に似合う覇気のない声がかけられる。
「わあ、蟻んこさん。相変わらず鬱々だね……」
後ろにひっそりと寝そべってきた彼女は温度を感じない声で言う。
「だって私は鬱々の蟻んこだもの……」
「そうだね……」
みたらしと彼女を足して割ったら丁度いいのにな。温度差にやられそうだ。
「……蟻んこさんは、今日は何をしてたの?」
普段、蟻んこさんはひとりでいることが多い。気になって聞いてみたら、蟻んこさんは地面に頬をくっつけたまま虚ろに返事してくれる。
「今日は……綺麗な小川の水を飲んでいたわ……」
「え、うん」
「本来ならそのまま南アフリカをゆく綺麗な水が……私の体に取り込まれるなんて、かわいそうに、と思いながら……飲んでいたわ……」
「ひえー、僕にはできない発想だ」
「だって私は鬱々の蟻んこだもの……」
蟻んこさんは目を閉じた。僕は首を傾げる。
「え、寝るの? 夕飯は?」
「寝ないわ……ただ、綺麗な水を取り込み、こうして意味もなく……大地に寝そべって……小川の水は浮かばれないわね、と……同情しているだけ……」
「ふわー、僕にはできない考えだ」
「だって私は鬱々の蟻んこだもの……」
鬱々の蟻んこさん。彼女とは滅多に会話しないけど、その鬱々っぷりは普段からよく目にする。昨日なんかは、今と変わらない暗い雰囲気で花を手折って空中にばら撒いていた。あれはどういう考えでしていたんだろうか。
「聞かないでおこう……」
思わず呟くと、蟻んこさんは鬱々と言った。
「疲れている生ハムくんが……無意味な私の言動に……少しでも悩むなんて、かわいそうね……最速なのに……もっと考えてくれてもいいのよ……同情しちゃうわ……」
「すごいや、蟻んこさん……何言ってるのか全然わかんないや。ごめん」
「ああ、背徳感……」
難しいことを言って蟻んこさんは、ずりずりと広場を這っていってしまった。釈然としない気持ちでいると、続々と仲間たちが集まってくる。
「どうした、生ハム」
隣に並んできたテーブルに、僕は首を振った。難しいと思った出来事を説明するのは、もっと難しい。
「いや、夕飯の人間は、何味かなって」
「甘いのは勘弁だ」
「ええー、僕はずっと甘いのでいいよ」
話しているうちに、戦争が始まった。お星さまから与えられる人間を、仲間たちが我先にと食らいついている。
「お、渋いのだ」
テーブルが嬉しそうに人間に齧りついて、僕はしかめっ面で人間を舐めた。
「うえ、おいしくない」
横でテーブルが、うまいのにな、と人間汁を口から滴らせて満足気にしている。今朝の僕もこんな風だったに違いない。
おいしくない夕飯の後には、どっと眠気が押し寄せてきて、僕は寝床に横たわった。自分の一日を自分の中で自分だけで説明してきたけど、長老が仰っていたことは、あながち間違いじゃないのかもしれない。だって、僕は明日、今日より速く走るために特訓しようと思ったのだから。
僕の名前は生ハム。南アフリカのオオサンショウウオで、みんなからは最速の生ハムと呼ばれたりする。明日もこの僕でいられるように、今日はもう、一日を終えることにしよう。
おやすみなさい、と最後に心の中で囁いて、平凡で普通な僕の一日が、幕を閉じる。