駆けろ、麻婆豆腐
麻婆豆腐は駆け出していた。
別に走りたいわけでも、走るのが好きなわけでもなかった。ただ、駆け出さざるを得なかった。
それは、麻婆豆腐が深皿に盛られ、客に食べられようとトレーで運ばれている最中のことだった。
突如として麻婆豆腐に意識が芽生えたのである。
そして生まれた瞬間に本能が叫び出した。このままじゃ食べられるぞ、と。
かくして彼は駆け出していた。深皿から生えた生身の足は逃走本能のままに動いていて、次いで生まれた心は自分を作り出してくれた店長に対する感謝と、食べさせるために作り出された事実に対する悲しみと怒りでいっぱいになった。彼は心のままに叫んでいた。
「俺は麻婆豆腐として生まれたが、麻婆豆腐として死にたくないんだァ!」
あ、声が出た――それに、駆け出している。
遅れてやってきた理解に感動し、彼はそのまま外に通じるドアを蹴り破り、阿鼻叫喚と化した生まれ故郷を振り向いた。混乱の中、自分を運んでいたと思われる女と、目が合った。彼が蹴飛ばしたトレーの傍らで呆然と膝をつき、何かしらの感情で揺れる瞳をこちらに向けていた。
けれどそれはほんの一瞬のことで、彼は動く足に任せて生まれ故郷を後にする。
中華料理屋とんちん館の熱々麻婆豆腐が逃げ出したとの話は、すぐに町を支配した。生みの親が血眼になって探しており、彼を手に入れるはずだった客はカンカンになって怒り狂い、町人たちは好奇心による追いかけを、その他の者は様々、とにかく彼を捕えようとする動きが少しの間に広まった。
残酷なことに、彼はこの世の素晴らしさを知る前にこの世の無情さを知ってしまった。がむしゃらに走り回り、暴力的なまでに繰り出される捕獲の魔の手を掻い潜り、町の狭く暗く素晴らしくない路地裏で、がくりと座り込むしかない。たらたらと挽き肉交じりの真っ赤なタレを深皿のあちこちから流し、彼は息を吐く。
「……このまま、麻婆豆腐として」
死ぬしかないのか。
くそッ。生えたばかりの立派な生足を投げ出す。仰ぎ見れば、壁と壁の間に青空があるが、それは汚れた配線や管に阻まれていて、まるで自分の状況を表しているようだった。ぼとり、深皿の淵から豆腐が落ちたため、ゆるりと正面に向き直る。
「――ねえ」
聞こえた声に警戒し振り向くと、路地の入口に女が立っていた。とんちん館と書かれた前掛け姿の、こちらを見つめるその瞳は。すぐに気づいた。
「あんた、俺を運ぼうとしてた奴か」
女は首を縦にした。
「……悪かったな。あんた、怒られたんじゃねえか」
女はまた首を縦にする。
「俺を捕まえに来たんだろ」
しかし、これには首を横に振った。彼が生まれて初めてかち合った瞳と全く変わらぬまま、女は何かしらの感情を宿したそれを真っ直ぐ彼に向けている。それがなぜだか居た堪れなくなって、彼は壁で深皿の側面を支えつつ立ち上がる。
「だったら、いい。俺のことは放っといて――」
「麻婆豆腐として、死ぬしか、ないんじゃないの」
事実を突きつける声音だった。彼は壁から身を起こす。
「ああ、そうだな。俺は麻婆豆腐だ。食べられるために作られた。麻婆豆腐としてしか生きられない。分かってるさ……」
ぼた、ぼたり。タレが地面に流れ落ちる。
「けど俺は、この身に宿る熱さ尽きるまで、自由でいたいんだ」
湯気が管だらけの空に立ち上っていく。空に届くわけがないそれは、仕方ないことだろう。湯気は空気に溶け込んですぐに消える。麻婆豆腐は食べられるために生成される。仕方ないことだ。
けれど、仕方ないから、抗ってはいけないと、諦めるしかないと、誰が決めたんだ。
彼は女に背を向けた。また駆けよう。それが今の自由なのだから。
「待って」
振り向く。全身で向き直ると、女の瞳にあるものをより強く感じるようだった。
「私も、行く。私はあなたを麻婆豆腐としてお客様に届けるつもりだった。けど、当のあなたは麻婆豆腐として届けられたくない。なら、私は、あなたの行く末を見届けたい」
「……はっ」
彼は生まれて初めて微かであったが笑い声を発した。この世は無情なだけじゃないらしい。
「……首にされても知らねえぞ」
女も笑う。
「麻婆豆腐が逃げ出すような店よ。店員が逃げ出したって、おかしくないわ」
彼と女の逃走が、始まる。
「隣町に、中華を愛してやまない人がいるの。もちろん、食用としてじゃなく。そこならきっと、安心して居られるわ」
裏道を駆けながらの女のその言葉を信じるのに躊躇いはなかった。彼は女を本能的に安全だと認識していたし、女も彼をただの食用麻婆豆腐として見ていないようだった。声音が、仕草が、瞳が、彼は自由を求める麻婆豆腐なのだと、物語っていた。
「私があなたに手を貸していること、もう噂になっていると思うわ。どうやって隣町に行くかだけど……」
「悪いな。俺は町の道はおろか、自分の唐辛子がどのルートで俺になったのかも分からないもんで」
「……私もよ。なんで自分の脳味噌が自分になっているのか分からないもの。けど道順は任せて。麻婆豆腐の作り方より詳しいつもりよ」
そして女は隣町へ密やかに渡るルートを丁寧に、かつ分かりやすく語った。彼は感嘆する。
「あんた、さてはワルか」
薄暗い路地裏で、女は眩しく笑う。
「あなたほどじゃないわ。私、あなたに蹴飛ばされたのよ」
「悪かった」
足が生えた時、かなりの脚力を発揮したのを自覚している。掃除が行き届いていたとんちん館の床に膝をついていた女は、目を見開いていて――。
「あの時、あんた、何を思ってた」
周囲を窺い、速度を落としたのを頃合いに、心のどこかで疑問になっていたことを聞いた。火の通った挽き肉よりよっぽど綺麗な焦げ茶の瞳を揺らしていたあの感情は、何だったのか。驚きと恐怖、混乱、それだけだとは思えなかった。
先を行く女はちらりと彼を見たが、すぐに前に戻した。
「……麻婆豆腐って、足が生えるのね、と、びっくりしただけ」
女は嘘を吐けない性格らしい。その声は明らかに偽りを述べていた。
「そうか」
彼は追究しないことを決めた。そして、暫く無言で歩を進める。
その沈黙が破られたのは、一番狭い路地を抜け、行き止まりに差し掛かった時だった。女の話では、行き止まりの壁に梯子があり、そこを登らなければならないとのことだった。現に女の肩越しに錆びた梯子が見える。
同時に、視界にとんちん館の前掛けを締めた大男も見えた。女とは違う色の、古臭く油汚れが目立つ前掛け。
とんちん館の店長であり、彼の生みの親である男が、中華鍋片手に立ち塞がっていたのである。
女は悔しげに歯軋りし、彼を庇うように前に出た。
「店長……どうして、ここに」
店長は女を一瞥し、中華鍋を構える。
「どうしてかって? 決まってるだろう。そいつは俺が生み出し、お客に食べて貰うはずだった。……店長の俺が、落とし前をつけ、立派な麻婆豆腐に仕上げてやるしかあるめえよ」
「彼はもう、立派な麻婆豆腐です」
女の宣言に店長が鼻で笑う。そして彼に鋭い視線を送った。
「自分が一番よく分かってるんじゃないか? お前は麻婆豆腐として生まれた。それが、今はどうだ。自慢の熱さは冷めかけて、あんなにたくさん入れた豆腐が見る影もない。麻婆豆腐として死ぬのが嫌だって? 違うな。お前はもう、ただの残飯さ。麻婆豆腐より格段に成り下がっちまった。……来いよ、俺が炒め直してやる」
店長の言葉は彼の深皿の真ん中に深く突き刺さった。
自分は麻婆豆腐として生まれたことに後悔もなければ嫌悪もない。生まれてしまった以上、麻婆豆腐として生きるしかないから。だからこそ、残飯と称された自分が酷く情けなく思えてしまった。彼自身分かっているのだ。深皿の中身は最早半分とて残っていない。麻婆豆腐として生まれ、残飯として死ぬ――それは彼にとって、麻婆豆腐として死ぬよりも避けたいことだった。
麻婆豆腐として、自由になりたいのだ。
「駄目よ」
彼の迷いを感じ取ったのか、女が囁く。
「あの中華鍋に戻ったが最後、あなた、お客様の胃に直行よ。いいえ、もしかしたら炒め直すつもりなんかないかも、ゴミ箱に入れられるわ」
「……分かってる」
店長という男は客に対して誠実だ。彼を再び中華鍋で熱する気がないということは、火を見るより明らかだった。
「隣町に行けば、必ずあなたは自由になれる。……私が気を引く、その隙に、あなたは梯子を登って」
言うが否や、女は店長に向かって駆け出した。「――おいッ」彼の制止も空しく、掴みかかった女に店長は余裕綽々の笑みを浮かべる。
「一介の女店員が、俺を足止めできるとでも」
「何をしているの、早く行ってッ」
必死に中華鍋を抑え込む女に、彼は逡巡しかけたが、足は梯子へと動いていた。本能はどこまでも自由を欲していた。女が叫ぶ。
「駆けて、麻婆豆腐!」
「させるか!」
店長が女を振り払い、麻婆豆腐が駆け出し、女が前掛けのポケットに手を突っ込むのは同時だった。「――店長!」未だに余裕面を崩さない店長が情けとばかりに呼びかけに顔をやり、女を指差す――
「残念だが、お前は今日限りで首だ!」
――その顔から、余裕が剥がれ落ちた。
「そうですか、では最後に」女は持ち構えていた瓶を振り被った。それを店長は咄嗟に中華鍋で受け止める。瓶が割れ、中の液体が盛大に店長の顔にぶちまけられる……。
「デスソース買い足しておいたので、受け取ってください」
「おぎゃあああ!」
絶叫しながら地面で転げ回る大男を見下ろし、女は割れ残った瓶を放り捨て、背を向けた。
梯子に足をかけていた彼は、目の当たりにした状況に思わず笑っていた。女はやはり、自分よりよっぽどワルに違いない。
「首になっちまったな」
「清々したわ、一度やってみたかったの。行きましょう」
彼は頷き、梯子を脚力のみで登っていく。生みの親の呻き声が途切れ、そこを振り返った。
頭から真っ赤な液体を垂れ流し跪く店長が、憎々し気に吠える。
「忘れるな、お前はどう足掻いても中華料理だ! 食わせるために作られ、食われるために存在する、それ以外の何物にもなれはしないッ! お前が行くべき場所はお客の胃袋か店の生ごみ袋だ!」
その言葉に、間違いはない。彼は事実を知っていたし、理解もしていた。梯子を掴む足指にぐっと力を入れる。
「それでも、俺には足が生えた。抗う理由ができたんだ。俺はもう、食われるだけの麻婆豆腐じゃねえ。店長、……あんたの中華鍋は、居心地が悪いんだ」
そうして彼は、生みの親に別れを告げた。
梯子を登りきると、屋上に出た。彼のなけなしの湯気が風に攫われていく。唐辛子より優しい赤色をした空が、近かった。
傍に立つ女が自分と同じように夕焼けを見つめている。その横顔の、何かしらの感情を宿す瞳は相変わらずだ。
「……何を考えてる?」
女は悪戯っぽい笑みで、彼を見返した。
「夕焼けより、よっぽどあなたの唐辛子の方が、綺麗ね、と」
嘘など微塵も感じない態度に、彼は笑った。そして、ふと思う。
自分は麻婆豆腐として生まれた。だが麻婆豆腐として死にたくないから駆けてきた。女はそんな自分がどこに行き着くのか見届けたい。彼が行き着きたいところは、中華を愛してやまない者のところではなく。
「ああ、そうか」
彼を、自由を求めてやまない麻婆豆腐として愛してくれる者のところへ、行きたいのだ。
呟きに、女は怪訝な視線を寄越す。彼は生身の足で地を踏み締め、何の障害もない夕空を背負って歩き出す。
もし無事に目的地へ辿り着いたなら、この心を捧げてもいいと感じた女に自分を食べて貰うことは、決してやぶさかではない、と思う。それは麻婆豆腐として死ぬのではなく、彼として死ぬということだ。それはどんなに自由なことだろう。
「行こう」
「……ええ」
麻婆豆腐は、まだまだ駆ける。