全米を泣かしたい男女の話
嫌な音がした。何かが軋み、今にも崩壊しそう、といった感じの。
俺は、誘われるようにして振り返った。彼女の後ろ姿が遠ざかってゆく上に、音の正体があった。
「――あッ」
咄嗟に何事かを叫ぶ前に、辺りに轟音が響いた。
そうして、彼女は、俺の目の前で、鉄骨の下敷きになっていた。
「どうして……」
鉄骨の下から覗く傷ついた彼女の手に縋って、呆然とする。あまりにも突然すぎて、頭は真っ白だった。だというのに、口は勝手に喋り出す。
「ずっと、ずっと言いたいことが、あって……」
彼女の手は、酷く冷たい。それは、もう、こんなことを言うのは無駄だと感じさせるには充分だった。それでも――
「あのさ……結婚、して、ほしくて」
――今、言わなければ、駄目なような気がした。俺は、ずっと渡せていなかった指輪を、動かない彼女の薬指にはめた。
返事なんてなくて、視界はどんどん滲んで、俺は堪らず彼女の手を強く握り締める。唇が頼むよ神様と囁く。一生の愛を誓うから、どうか、彼女の一生を神じゃなく俺に譲ってくれ。
「お願いだから――」
「――いいわよ」
凛とした声とともに彼女の指が一瞬、俺の指に絡みつく。目を見張った。
ぎぎぎ、と軋みを発しながら鉄骨が押し上げられていく。そうしているのは、傷ついた白い細腕だった。
彼女だった。
「しましょう、結婚!」
ゆらりと立ち上がった彼女は、血塗られた満面の笑みを浮かべて、俺に指輪をはめられた左手を差し出した。
「……ッ」
俺は、一度、唇を強く噛み締め。
彼女に向かって中指を突き立てる。
「しねぇよクソが」
彼女が死に損なったのは、これでもう四十七回目のことだった。
「お前は一体いつになったら死んでくれる? なあ、もう本当に勘弁してくれよ」
男が忌々し気に吐き捨てると、女は不敵な笑みで鉄骨を放り投げ、男を指差した。
「ふふん、何度私を死なせようったって無駄よ。だってハッピーエンドじゃないもの」
男は舌打ちして、鉄骨を蹴る。
もう少しだと思った。もう少しで、誰もが涙する物語の完成だった。男の思い描くお話では、あのまま『彼女』は死んでいた。そういう悲劇だったのだ。決して『俺』の『彼女』は鉄骨を素手で押し上げ生還し血塗れで結婚を承諾するなんていうトチ狂ったことは、しない。
「大体あなた、何か勘違いしているんじゃないの? 死ぬことが感動ものだと、そう思っているんじゃないかしら?」
流れる血をそのままに尚も言い募ろうとするのを、鼻で笑ってやる。
「ハッ。愛する者の死以上に涙が流れることがあるか?」
「あるわ――、愛する者の生よ」
「それはその一時だけだ。死んだと思った者が実は生きていた……さぞ幸せなことだろう。涙も止まらねぇさ。だがな、それで物語が終わることに納得ができるか? 後々めんどうになるだけだ」
「その後々を描かないから幸福でいられるのよ。『私』が死んだって、同じことが言えるでしょう?」
「いいや、言えない。悲劇こそが涙だ。何故なら悲しみは長い間つきまとうし、仮に癒えたとしても涙なしの葛藤は有り得ないからな」
女は眉間に皺を寄せる。
「同じことよ。生きていても、涙は流れる。悲しいだけじゃなく、嬉しいっていう涙も。そう考えるとやっぱり生還するべきね」
「ふざけんな。お前のあれは感動する余地がねぇ。喜劇だ、あんなん」
「あなたが私にバッドエンドを強いるからああなるのよ。ハッピーエンドしか許さないわ」
もう何度も聞いた言い分は、今回もやはり納得できるものではない。全米を泣かしたいという目的は一致しているのに、何故こうも手段は異なるのか。愛する者が死んで終わり。これだけは譲れない。男は溜め息を吐き、事故死も他殺も病死も自殺も躱してきた女を睨みつけた。妥協案を叩きつける。
「メリーバッドエンドを知っているか?」
「知っているわ。その物事が幸福か不幸かは、受け取り手次第というやつでしょう」
「そうだ。今回はそれを狙っていたんだが。分かるだろ、話の流れが」
「ちっとも分からないわ。大団円では駄目なの?」
「クソが」
堪らず吐き捨てた。
「何度このやりとりをすりゃいいんだ!」
頭を掻きむしり、今回『彼女』を死なせるはずだった鉄骨を再度蹴りつける。女は乾き始めていた額の血を腕で拭い、そして口角を上げた。
「仕方ないわよ。『私』は奇跡の塊なんだから」
「絶望に染まれよ……」
「嫌よ! それで、どうするの? 諦めるの?」
「馬鹿言ってんじゃねぇアバズレ」
お互い諦めるつもりがないのは百も承知。だったら続けるしかない。設定を変えて、話を変えて、結末を変える。
男は悲しみの涙を、女は嬉しい涙を……全米に届けるために!
そしてまた、このやりとりをするのだ。