彼と鮪と私
「きみのためなら鮪より速く泳ぐよ」
彼が気怠そうに尻尾を持ち上げて、地面にお腹をくっつけたまま言った。
彼は、猫である。しかも、誰にも支配されない野良猫だ。くすんだ白い毛並みに、額と尻尾の一部分だけが黒い模様の、ぽてっとした野良猫。ふてぶてしい琥珀色の目は半分閉じられていて、反対に私は瞼を持ち上げた。
「鮪、見たことあるの?」
この場にしっかり者の友人がいたら、確実に他にもっと言うことがあるだろうと突っ込まれそうな気がした。例えば、猫って泳げるの? とか、きみのためってどういうこと? とか、鮪より速くなんて無理に決まってるでしょ? とか。けれど友人とは先程別れたばかりだし、下校中に彼とよく会うこの道路脇は人通りが少ないし、そもそも彼は私の返答がおかしくったって気にしない性分だった。
「ああ、あるぜ。所狭しと並べ置かれた鮪を。ありゃ一生かかっても食い切れねぇな……」
相変わらず気怠げで、最後だけちょっと羨ましそうな声音に、ここから約一時間かかる鮪市場を思い浮かべた。確かにあの量は、彼の一生じゃ足りないかもしれない。
しゃがんでいた足が痛くなってきて、私は地面に座り込んだ。
「でもそれって、死んでるよね」
黒い模様の額辺りを見ながら言ってやる。
「当たり前だろ……魚は陸上じゃ生きられねぇんだから」
「そうだね」
呆れたように言われて、自分が何を伝えたかったのか分からなくなる。適当に頷くと、彼はゆらりと尻尾を揺らした。
「奴らが泳いでいる姿は、見たことがない」
「私も、テレビでしか見たことないな」
テレビの画面では、青く濁った海の中、筋肉質な巨体で高速で回遊していた。それを思い出して、何を伝えたかったのかハッキリ分かった。
泳いでいる姿を見たことないのに、それより速く泳ぐって、難しいんじゃない? ということだった。
「猫って泳げるの?」
友人が言いそうなことを聞いた。だって、猫は水が苦手だってよく誰かが言ってる。
「ずっと昔、いや、少し前かな……一度浅瀬に落ちたことがある」
「つまり?」
「あん時は死ぬかと思った」
つまり、彼は泳げないのだ。その時のことがよっぽど嫌だったのだろう。彼はもぞもぞと身を動かした。私はリュックサックから常備している煮干しを取り出し、彼の鼻先に置く。「死ななくて良かった」
彼は煮干しをじっと見つめているらしく、私は首を傾げた。食べないのかな。
「……これじゃ足りねぇんだよなぁ」
しみじみ、と呟かれて、私がもう二、三匹袋から出そうとすると、彼は首を振る。細い髭がふわふわ揺れた。
「……猫缶の方が良かった?」
これにもまた首を振って、彼はぱくりと煮干しを咥える。はぐはぐと食べる控えめな様子は、正直彼の見た目と合っていない。
咀嚼を終えると、彼は欠伸を一つして、ちらりとふてぶてしい琥珀色を私に向けた。
「やっぱり、鮪だなぁ」
すぐに逸らされた視線は、再び車一台通らない道路に向けられる。私もそれに倣って向かいに建つ塀の汚れなんかを見るともなしに眺める。うーん、今度は鮪の猫缶を持ってくるべきだろうか。
「……俺は、泳げねぇし」
そよそよと吹く風が潮のにおいを僅かばかりに運んでくる。薄汚れた毛をそよがせながら、調子も変えずに彼が言う。
「たぶん、美味しくもねぇ」
「うん。絶対美味しくないよ」
「素早さには自信があったが、それでも鮪には劣るだろう」
「漁師さん言ってた。時速九十キロだって」
「……それって、どのくらいだ?」
「んーと、植木さん家の車くらいの速さ」
「ああ、あれにも死にかけたことがある……」
あとで植木さんに注意をしてみよう。あのおじいちゃんには困ったものだ。
「それに、俺は毛むくじゃらだし」
「毛はあった方がいいよ。私は毛のある動物の方が好きだもん」
ヘビとか、サンショウウオとか、ああいう生き物は苦手だ。ぬらぬらしていて可愛くないし、あの目を見ると自分が捕食されそうな気持ちになる。
「……鮪は?」
「鮪は好きだよ。魚は美味しいから」
普通に美味しく食べられるものは、毛があろうがなかろうが関係ないのだ。人間ってそういうところがある。
続いていた会話は、そこで一旦途切れ、彼は尻尾も地面にくっつけた。心なしか、元気がないように見える。私は地面に手をついて、彼の顔を覗き込む。縦に裂けた瞳孔の、眠たそうな目が、私の顔をぼやっと映す。半分の目が、更に細められた。
「じゃあ、やっぱり鮪だな」
「そうなんだ?」
「煮干しじゃ足りねぇ……」
「まあ、大きさも高級さも味も、そりゃ鮪の方があるもんね」
そんなに食べたいのか。次は絶対お刺身を持ってきてあげよう。お母さんに頼んで、こっそり――
「だからこそ、だな」
――計画を立てていた脳に、眠そうで気怠げな、ちっとも熱を感じさせない声が、
「うん?」
「きみのためなら、鮪より速く泳いでやるって、思うよ」
言って、欠伸をし、彼は目を閉じる。眠りの体勢に入った彼の毛と、私の髪を、風が優しく撫でていく。私はしばらく彼をみつめて、ねえ、それって、つまり、と言葉の意味の答え合わせをしようと声をかけようか考えたけれど、黙って彼の額の模様を撫でておくことにした。指先が触れた瞬間、彼の耳がぴくりと動いたが、それだけだった。
ふああ、と私の口から欠伸が漏れる。この居心地のいい眠気が覚めたら、隣の彼に私も言ってやろうかなと、じんわり思う。
きみのためなら、鳥より高く飛べるよ――こんな感じでどうだろう。ちょっと捻りがないかな。私はくふ、と笑って、どんな質問がきても答えられるよう、彼が言いそうなことを予想しながら目を閉じた。
潮のにおいが、私たちをほのかに包み込んでいた。