視えている
――あぁ、またか。と、桜子は思っていた。
カーテンからは暖かな朝日が射し込んでいて、鳥の囀りまでも聞こえてくる、麗らかな目覚め。
これは早いとこ起き出して、爽やかな気分で学校に行きたい、のだけれど。
「きみたちも諦め悪いね……」
僅かに動く首を巡らせ、自分の体を見やった。
無数の生白い手が、自分の体を掴み、押さえつけていた。
もう、やだな。溜め息を吐いて天井に目を戻す。……天井からぶら下がる血だらけの女性と目が合い、仕方なしに瞼を閉じる。
『桜子って、ほんとドジだよね』――十六年の人生で散々言われ続けている言葉が脳内でリピートされる。
『お前さぁ、そうやって転けたり、ぶつかったりすんの、ワザとだろ?』――これは、昨日クラスの男子から言われた言葉。確かに自分は病人かと思われるぐらいに毎日転けたり、ぶつかったり、悪い時には死にかけたりしている。でもワザとじゃない、決して違う。だって、私には、視えちゃってるんだ。
「おい桜子、いい加減起きねぇと朝飯なくなんぞ」
ガラリ、部屋の襖が開けられた。
「お兄ちゃん」
躊躇いなく部屋に入ってきたのは、桜子の兄、雪成である。
「お前も懲りないよなぁ。毎日俺に起こされるまで寝てやがって」
そんなにこの兄上が好きか。軽口を叩きながら、ほれ、と手を伸ばされる。
その瞬間、桜子に纏わりついていた手が消えた。自由になった体で、桜子は兄の手を握り起き上がった。
「いやぁ、申し訳ない」
「そう思ってんならな……」
雪成の小言を聞きながら、桜子は自室を後にする。ちらりと振り返れば、血まみれの女性もいなくなっていた。
……私には、ずっと、あれらが視えている。
這い回る手首や、首吊り死体、黒い影――奇怪な、ものたちが。
階段を下りていく雪成の背中を見つめ、この人が自分の兄で良かったと、毎朝思うことをまた心底思う。
桜子は幼い頃から奇怪なものたちに好かれていた。好意的な意味ではないそれに呑まれそうになった時、助けてくれるのが雪成だった。だが妹に視えるそれは、兄には視えていない。桜子と同じものを、雪成は視えないのだ。本人は妹を助けているという自覚はないだろうが、桜子と真逆で、雪成はそういうものを寄せつけない性質らしかった。
「今日の朝ご飯、何かなぁ」桜子にとって十六年間も兄をつとめている雪成に、内心感謝でいっぱいにして、普通の兄妹が口にしそうなセリフを発した。
毎日社会人の兄と一緒に登校する。門前まで来た時、雪成はお決まりの文句「今日も頑張ってこいよ」を残して近場の会社へと歩いていく。
「…………はー……」
途端に視え出したものたちに、本日二度目の溜め息を吐き、校内に足を踏み入れた。
屋上から何度も何度も飛び降りている男子生徒を無視して授業を受ける。
廊下を上半身だけの女子生徒が駆けずり回っている中、移動教室へと向かう。
地面から手が伸び足首を掴まれながら体育をする。転けた。
「桜子って、ほんと不運だよね」
「その怪我大丈夫?」
「今、ぼーっとしてたでしょ」
毎日言われている言葉に、ははっと笑う。
学校生活は、いつも通り不運だドジだと言われ続けて終わった。
そう、運がないのだ。下校しながら考える。
きっと私の運は、十二年も早くに生まれてきた兄が全て吸い取っていったに違いない。どうして私ばかりこんな目に。
「いや、いや」
そう考えてはいけない。私の面倒を見てくれる兄がいるから、今私が生きているんじゃないか。朝、目が覚めて息が出来るのも、登校中奇怪なものに足を引っ張られないのも、お兄ちゃんのおかげで――
――下校中は違うけど。
ぴたり、踏切の前で足を止め、線路の真ん中を見た。
猫がいた。
背中を丸めて、弱々しく鳴いている猫に、桜子は分からなくなる。
あれは、本物の猫か、そうでないのか。
目玉が飛び出しているわけでもないし、普通の猫なのかもしれない。
いや、そうやって油断させておいてからの――かもしれない。
十六年間そういうものに危険な目に遭わせられているが、こうやって分からなくなる時も少なくはない。
「……猫ちゃん」
みゃあ、みゃあ、と鳴く猫。その時、踏切が下がり始めた。
カンカンカン、とけたたましい音に猫の鳴き声がかき消されるのが、どっちつかずの迷いを追い払った。
鞄を放り出し、踏切を潜って膝をつく。
「ほら、怖くないよ。大丈夫」
猫に手を差し伸べ、その毛に触れようした。
――みゃあ。
こっちを見上げた猫は、瞬きをする間もなく、肉が削げ落ち骨となって消えた。
「こっちが怖いよ」
騙された! 後悔の念にかられ、馬鹿らしくなって立ち上がった。
さっさと、さっさと帰ろう。
急ぐ心とは裏腹に、足が動かなかった。
嫌な予感と感触に、そろり、足元を見下ろしてみる。
骨張った、生白い手が、自分の足を掴んでいた。
「私が大丈夫じゃないッ」
さすがに血の気が引き、慌ててその手首を蹴り払おうとするが、足がもつれ、すっ転んだ。
ぶわりっ、と線路から生える手首が増え、桜子の足を、手を、ここに留まらせようと掴んでいく。
「嘘、嫌だッ」
――電車が来る。体中の血液が底冷えした。轢かれるかも、死ぬかもしれない。
何よりも恐ろしい、鉄のお化けが視界に入った。
「…………ッ!」
そんなこと、意味はないだろうが歯を食い縛ってかたく目を瞑る。と、「――桜子ッ」切羽詰まった兄の声が聞こえた気がした。
刹那。
首が絞まり、体が凄い勢いで後方に引きずられた。
「ぐへっ」
喉から奇声が飛び出る。あまりのことに目を開けると、眼前を、電車が通り過ぎて行った。
呆然とする。後頭部をパシンッと叩かれる。
「お前、何やってんだ」
振り返れば、怒った様子の兄がいた。
「お、お兄ちゃん……」
「ぼけっとすんのも大概にしろよ。お前今、死ぬとこだったんだぞ」
助けられた。助けてくれた。
それを理解したら、心の底から安堵し力が抜けた。
「お兄ちゃあん」
思わず泣きそうになる。雪成は呆れた顔をして、桜子を立たせてくれる。
「また線路で転けたのか。ほんと馬鹿な」
違う、とは言えない。また別の意味で泣きそうになった。
「怪我は?」
「ううん……」
……しいて言うなら、引っ張られた時の首が痛い。ありゃ襟首しか掴むとこなかったんだよ。髪とか掴んでほしかったか? 禿げるぞ。……襟首で良かった。
話しているうちに、段々と冷静さが戻ってくる。それと同時に疑問を持った。
「お兄ちゃん、今日早いね?」
もう太陽が沈んではいるが、それでもこの兄の帰宅時間はもう少し後のはずである。
雪成は真顔で答えた。
「今日の夕飯、オムレツだって母さん言ってたろ」
「……それだけのために、仕事を早く終わらせたの?」
「それだけとは何だ。おかげでお前、助かったんだろーが」
俺とオムレツに感謝しろ! ドヤ顔で言ってくる兄に、桜子は思った。この人自体が幸運で出来ている、と。
悟ったような気分でいると、放っぽり出してあった鞄を桜子に持たせ雪成は言う。「桜子、走って帰んぞ」
「は?」
「オムレツが待ってる。競争だ」
腕まくりを始めた兄に、桜子は反射的に、「そんなの私が負けるに決まってるじゃん」と反論してしまう。言ってからしまったと思った。
兄はニヤリと笑った。「十五秒」
「ちょっ、待っ」
「はい、いーち、にーい」
あー、もう! 桜子は自棄になって走り出した。雪成のカウントダウンが「三」を言い切った時、無事に、ようやく線路を渡り切ることができる。
線路には、何もいなかった。
「ふふっ」
自然と笑みが零れる。
お兄ちゃんがいるから、今思いっきり走れてる。私に運がなくて良かった。じゃなかったら、あんな兄には出会えていなかった。
桜子は転かされることなく、雪成が追いかけて来るまで走り続けた。きっとすぐに、オムレツのためとか言って、駆けて来るのだから。
兄妹揃って、呑気なところは一緒なんだ。桜子は嬉しくなって、声を上げて笑った。
「じゅーう、じゅーいち」
雪成は走り続ける妹の背中から、線路へと視線を移した。
「じゅーに、じゅーさん」
カウントダウンをしながらも、その瞳はしっかりとそれを視ている。
たった今、妹を死へと誘った手首だ。
「じゅーよん」
ぐしゃり、と。
雪成はその手首を踏みつけた。
「じゅうご」
何事もなかったように雪成は線路を歩き去ろうとする。しかし、別の手に足首を掴まれる。
立ち止まり、それを見下ろした。
その、目が。
怒りと、殺気に満ちていた。
手首を踏みつけ蹴り飛ばし、雪成は明るい声で叫ぶ。
「よっしゃ、行くぞー!!」
このことは、決して妹には気取られることなく。
雪成はいつも通りの、桜子の兄として駆けだした。