落ちた鼻の話
ぽとり。
と、床に落ちたのは、どうやら鼻であるようだった。
おれは咄嗟に自分の顔を触るが、中央には、しっかりと鼻がついていた。
しかし、だとすると、この転がっている鼻は、いったい誰のものなのか。おれは怖くなって弟に訊きにいった。
「おい、弟よ、鼻が落ちているんだ。あれは、いったい、誰のだろう」
弟はおれを馬鹿にするように笑って、
「なにをいっているんだい、兄さん。鼻が落ちている? それは、なんとも、愉快だね」
「ああ、そうだろうとも。だが確かに、あれは鼻だ。見にきてくれ、鼻なんだ」
「はあ、そこまでいうなら」
「こいつは驚いた。本当に鼻だ」
床にある鼻を見て、弟は驚き、おれは、馬鹿にしたように笑ってやる。
「だから、いっただろう」
「いや、けれど、兄さん、これは誰の鼻なのだろう」
自分の顔の中央を触り、出っ張りがあることを確認した弟は、不思議そうに首を傾げた。
「わからないから、お前に訊いてみたんじゃないか」
「ぼくに訊かれても、わからないものは、わからないよ。そうだな、なにか思い当たることとか、ないのかい?」
ふむ、とおれは考え込み、
「突然、鼻が落ちたとしか。あ、と思ったら、足元に鼻が落ちていたんだ」
「ううん、なるほど。ならば兄さんは、鼻が落ちる瞬間は、見たのかい?」
「いいや」
おれが首を振ると、弟は、かわいそうなものでも見るような目を向けて、いった。
「おかしな話だね。兄さんは、この鼻が落ちるところは見ていないのに、鼻が落ちた、と思った。そして、誰のものなのか、わからず、ぼくに訊きにきたんだ」
弟は、床の鼻を拾い上げて、おれのほうに差し出した。
「ぼくは、これは、兄さんのだと思うよ」
馬鹿なことをいうな、と口を開きたかったが、弟が、無理やりおれの手のひらに鼻をおく。
「諦めて大事にするのが、得策だと、ぼくは思う」
弟にいわれて、おれは、顔の中央の元からある鼻を触って、それから、手のひらの鼻を、恐る恐る触った。
手のひらの鼻が、ふん、と。空気を震わした。そうして、手のひらがじわりと温かくなる。
どうやら鼻は、呼吸をしているらしかった。