第一次領空大戦
子供たちが無邪気に笑い合う。学校で、帰り道で、家の中で、友人と、道行く人と、家族と。
そして言う。
将来の夢は飛行兵になることなんだ。
屈託のない笑顔で、子供たちはそう夢を語る。
――夫が負傷した。
その知らせを聞いたのは一か月ほど前のことで、戦地から帰還しそのまま私のもとへ伝言を届けに来てくれた方を家へ上げもせず、私は酷く詰め寄った。
〝夫は無事なんですか〟
〝怪我をしたって、帰って来られないほどのものなんですか〟
〝いつ、帰ってくるのです〟
取り乱し涙が張る目を、その方はただ真っ直ぐ見つめて、それから夫の言葉を言った。
〝待っててくれ〟
〝そう、言っていました〟
だから私は待って、待って、空が赤く燃え上がったって、町が黒く崩れたって、夫と私の家で待つことにした。
それから、一か月ほど経った、今朝のこと。
送られてきた電報に、『キチ、キカン』と短く歪む字が乗っていて、私は財布だけを引っ掴んで着の身着のまま玄関から飛び出して行った。
キチ、キカン。基地、帰還!
送り主には夫の名前があった。夫が帰って来た。基地から電報を送れるくらいの元気はあるということで、ああ、ああ、良かった!
汽車に乗って、歩いて、走って、路線バスに揺られて、やっと辿り着いた時には、太陽が真上で燦々と輝いていた。
事情を話して、戦闘機の飛行場に入れて貰う。滑走路からは鉄の翼を持つそれが、青い空に飛び立っていっている。エンジンの音が耳鳴りのように響き渡っていた。私は必死に夫の姿を探す。
「――あなた!」
見つけた! 後ろ姿に向かって叫ぶ。
深く、くすんだ緑色の飛行士服を着ている夫に走り寄ると、この騒音の中私の声が届いたのか、くるりと振り返った。
私は泣き出しそうなのに、そんな私を認めると、ぱっと顔に喜色を浮かべて駆けてくる。お互いぶつかりそうな勢いで、伸ばした手を握り合った。
「来てくれたんだね」
肩で息をする私を落ち着かせるように、手を取り合ったまま額にこつんと、夫の額が当てられる。息を吸う度、火と、油と、汗と……鉄のにおいがした。
「本当は呼ぶつもりじゃなかったんだけど、今から、すぐにでもまた飛ばなくちゃいけなくて。でも」
名残惜し気に額が離れてゆく。今度こそ涙が零れそうな私の顔に、ふ、と笑った。
「お前に会いたいな、って思ってしまった」
待っててくれなんて言った癖に、わざわざ、ごめんな。困ったように謝られて、私はぐっと堪えて、謝らないで、嬉しいと笑って見せる。ありがとう、そう言った夫の顔は照れた笑顔だった。
「怪我をしたと、聞きました」
握る指先に力を込める。手袋越しの、大きな手。
「右の肩を、少しね」
何でもないふうに笑って言う夫。私が口を開く前に、右肩を回して見せてくれる。
「大したことないんだ。腕のいい奴に、なおして貰った。まあ、多少傷は残るけど……ああ、ほら、あいつだよ」
逸れてゆく視線と話がもどかしくて、夫の顔を挟んでこちらに向き直させる。もう、嫌だった。
「戦わなくても、空は飛べるのでしょう?」
あの空が夕焼けじゃない赤に染まる度、町が焼けた臭いが風に乗って運ばれてくる度、家にあなたの部下や仲間の方が来る度、もう、何度。
あの空が、憎いと。遠い異国にも繋がっている、あの広くて美しい空が、恐ろしいと。
思ったか、あなただって、分かっているんでしょう?
「戦闘機じゃなくなれば、怪我をする可能性は減るのでしょう? こうして、怖い思いもせずに済む……私はあなたが心配なんです」
言いながら、どんどん顔が俯いてしまう。泣いてしまいそうだった。だって、次に夫が何て言うか、大体予想はできている。
「ごめん……御国の、ためだよ」
ああ、そんなに、明るく、強く、宣言されてしまっては。
「――っ、待って、ますから」
分かっていたことだけれど、これしか、言えなくなるじゃないですか。
一つ落ちた雫に気づかれたくなくて、夫の右肩に顔を埋める。私の頭に添えられた手が、どこまでも優しい。
どうか、この手が、肩が、もう何も傷つけなくて済みますよう、傷つけられませんよう、祈る。
その時、遠くから夫の名前を呼ぶ声が聞こえた。顔を上げると、夫は私の顔を覗き込んで微笑む。
「もう行かなくちゃ」
囁かれたそれに、私は涙を流すまいと、精一杯、微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
夫のように上手く笑えていたかなんて分からない。それでもいい。夫の気持ちは、私が誰より分かっているから。
夫は自分の左胸に私の手を当てさせると、
「お前の気持ちは、ぜんぶ、この胸に。行ってきます。……危ないから、もう、帰って……待ってて欲しい」
手袋越しに、ぎこちなく私の頬を撫でて、離れてゆく。私はこくりと頷いた。それだけで良かった。それだけで、この不安も、心配も、恐怖も、寂しさも、ぜんぶ、伝わる。
飛行場の出口まで歩いて行く。唇を噛み締めて、私は頭上を睨んだ。あそこが憎くて、涙が、重力に従って落ちて行ってしまいそうで。
ぶわりと、夫に撫でられた頬を風が擦ってゆく。誘われるようにして振り向けば、滑走路で夫が走り出して行くのが見えた。
――やがて、夫の背中がぼこりと膨らむ。
そこからは瞬く間だ。
皮膚と服を突き破って、ばきりと、大きく白く、硬い両翼が広がっていった。
機械的で、無機質で、傷がついた、酷く美しい、冷たい翼。
戦闘機となった夫が地面を蹴る。翼に複雑につけられたエンジンから火の粉が弾ける。風が、強く吹き抜けた。
目を開けられなくなって、でもそれは一瞬で、次に開けた時には。
夫は、青く澄み渡っている空中を、飛んでいた。
風がやむ。私は暫くの間、そこに佇んで、ただひたすら、空に向かって祈っていた。
子供たちが無邪気に夢を語る。
将来は、飛行兵に、お空を守るために戦う、特別な飛行機になりたいんだ。
それを聞いた大人たちは、笑って言うしかないのだ。
立派ね、あなたなら、きっとなれるわ。
そうしてこの空は、守られてゆく……。