競争相手(お題:三角関係)
ヴィーナスの石膏像を砕き回りたい衝動に駆られた。
窓から射し込む夕陽に照らされた、工芸室の壁際に整然と並べられている石膏像たち。そのうちの愛と性を司る二つの女神像を、後藤は、先日の出来事を思い出しながら、砕き回る代わりに睨みつけるしかなかった。耳の奥で、顧問の、林の言葉が反響する――あと三票で、入選だったよ――。
「はい、お疲れ様。これで南勢展は終了です」
搬出作業を終え、あとは高校に戻るだけとなった時、林がパチンと手を叩いた。お疲れ様です、部員それぞれが応じ、後藤も言いながら肩を回す。南勢展は、南勢地区にある高校の美術部の、いわば大会だった。入選すれば全国に出展できるそれに、今年も我が校からは一人も選ばれなかったけれど、それでも半日以上会場に縛られなければならないのは非常に疲れる。
「いやあ、今年も駄目だったね。俺はいけると思ったんだけどな」
いけると思った、というのは、きっと彼のことなんやろうな。後藤はちらりと隣に佇む伊藤を盗み見た。
彼は、とてもいい絵を描く。
それは、入選された作品に引けを取らないと思う。そして、そんな彼に部長である自分よりも、林が期待し、評価していることを置いても、選ばれなかったことは不思議だった。
「ほんと惜しかった。伊藤くん、あと一票で入選やったんやけどな」
さらりと言われた発言に、一瞬場が固まるが、「えっ?」誰よりも頓狂な声を出した後藤に、林が更にのんびりと言う。
「後藤ちゃんも、あと三票で、入選やったよ」
言われた瞬間、何かを思う前に頬の内側を噛んでいた。隣の伊藤が、こちらを見ている気がしたが、今見返してしまえば思考の蓋が開いてとても良くないものを吐き出してしまいそうだったのだ。
あの時の感情をまざまざと思い出した後藤は、睨みつけていたヴィーナスから視線を逸らし、落ち着こうと溜め息を吐く。全身が強張り動くのも億劫なのに、胸の内はうるさく活発だった。
「うわ。何しとんの」
開けられた扉から驚いた声音。振り向かなくとも分かる。伊藤その人だ。
「今日、部活ないんと違ったっけ」
「……ないよ。私はあれ、ちょっと黄昏れとるだけやから」
「そう」斜め前の椅子がガタリと鳴る。座る伊藤に、内心なんでやねんと顔を歪めてやった。部活ないって言っとんのやけども。
「俺、今日バイトやから。それまで暇潰し」
しまった顔に出とったか。それとなく引き締めようとした表情筋は、
「何考えとった?」
見事に音もなく引きつった。斜め前の、「お前らは苗字も世界観も似ている」と部員たちに言われるわりに、真反対の感情の読めない黒目が、後藤の視界を揺らせた。「なん……何が?」
「我らが部長が、珍しく三日以上思い悩んどるような雰囲気やって、みんなが。南勢展のことやろ」
顧問といいこの同級生といい、何故こうも事もなげに人を揺さぶってくるのだろう。なんやそれ、別になんもないよ。言いたかった口は無意味に数回、開閉しただけだった。
「何を考えとるんか知らんけど、俺は、あのヴィーナス結構好きやった」
「は、」
「あと三票、惜しかったな」
目の前が赤く明滅を始めていた。あの時の必死に抑えていた蓋が、あっけなく外れる音がして、「私が考えとったことは、あのヴィーナスの石膏像を、壊してやろうかなっていう、そういうことで」
「……どういうこと?」もう駄目だった。後藤は溢れ出てきたものをそのまま口に出した。
「私は、あれをモデルに、今回の絵を描いた。描いとる時はヴィーナスの名に恥じんよう愛と美しさとエロスを表現しようと頑張って、完成した時はそれだけで満足やった。林先生が私のこと部長として頼ってくれとって、でも期待しとるんは伊藤くんにだけでも、それでも構わんかった。だって、だって伊藤くんは凄い。あんたの描く絵、ほんとに好きや。いつか追いついて、同じとこに立ちたいくらい、憧れとる。でも、そんでも……一票と三票じゃ全然違う。そりゃ、少しも勝てやんのは分かっとるけど、私は、悔しかった。あん時、あと三票で入選やって言われた時、伊藤くんに追いつきたいって欲と、追いつけるわけないって絶望と、林先生に認められたかったっていう悔しさがぐちゃぐちゃして、それで」
いつの間にか肩で息をしていた後藤は、一旦呼吸を整え、何を考えているか分からない伊藤を泣きそうになりながら見返す。
「それで、そんな私がヴィーナスを描いたこと自体、なんか汚いことみたいに思えて。破壊衝動に、黄昏れとった」
全て言い切ってしまった。閉じた口の中がからからに渇いていく。赤く明滅していた視界は今や透明にぼやけていた。今まで誰にも言えなかった本音を、よりによって言えない原因の一人に。とことん情けない。
「なるほど。後藤ちゃんの考えとることが分かった。じゃあ次は俺の番やな」
「は?」
これといって特に感情の窺えない落ち着いた様子で、彼は後藤を見上げてくるものだから、あまりにもいつも通りなものだから、
「俺は、正直、足すくわれるかと思った」
涙の膜が瞬く間になくなった。
「……何って?」
「足すくわれるかと思った。お前に。確かに俺は林センセに期待されとる。我が物顔の運動部を打ち負かせるように、美術部の快挙を望まれとる。でも俺はそれに対して頑張りますっつっても、内心どうでも良かった。後藤ちゃんが密かに変な対抗心燃やしとんのも、大体は気づいてはおったけど、正直なんでも良かった。俺は自分の作りたいもん作れて、何かしらの評価が貰えればそれで良かったんや。でも、あと一票やって言われた時、心底悔しかったし、あと三票で後藤ちゃんに追い越されると考えた時は、ちょっと、ゾッとした。お前は三票と一票はでかい差やと思ったみたいやけど。三人の人間が、小さい投票用紙に、たったの三枚に、後藤ちゃんの名前書いとったら……。俺は、恐ろしかったなあ」
全身の血圧が急激に上げ下げを繰り返しているようだった。斜め前の、同級生で友達で部活仲間で尊敬と羨望の的で、後藤が一生かけても追いつけないと思う相手が、何か言っている。
「それと、絵描いとる時の後藤ちゃん、ちゃんとヴィーナスやったよ」
ようやく逸らされた視線は、石膏像に向けられていて、後藤も壊れた機械の如く壁際を見た。ヴィーナスではない。その隣の、苦悶の象徴。喉から震える声が絞り出た。
「ふざけやんといてよ……なんでそういうこと言うの。私が伊藤くんの足をすくう? 足元にも及ばんのに? やめてよ、そんな嘘っぱち、その口から言われるんが一番残酷や。それに、それに、私は愛の女神像より、ラオコーンの方が合っとる!」
まさしく蛇に締め付けられるような苦しさに襲われ、何にも構うことなく工芸室を飛び出した。ちくしょう、悔しい――廊下を駆けながら呟かずにはいられないそれに、ああ、やはり間違いだったと後悔する。
ヴィーナスは絶対、ちくしょう、なんて言わないのだ。
開け放たれた扉を眺め、伊藤は、ぽつりと漏らした。
「……ラオコーンは俺だよ。追いつかれて堪るか」
競争心に歪むその顔を見た者は、いない。