どっかいった背中の話(お題:後悔)
「どうしよう。背中がどっかいった」
朝一番の姉の発言に、私はテレビから視線を移しもせず、ふうんと息を吐いた。大して面白くない番組をぼうっと見つめて、シリアルを口に運ぶ。じゃりじゃりと噛み砕いた。
「どこいったんだろう……」
沈んだ声で呟いた姉は、そのまま居間を後にする。そこでようやく私はちらりと姉に目をやった。瞬間、口からシリアルがだばだばと零れていく。無意識のうちに腕で口元を拭うが、たぶん間に合っていない。
姉の背中には、ぽっかりと穴が開いていたのだ。
「お姉ちゃん、それ、どうしたの」
とりあえず口の中に残っていたシリアルを飲み下して、背中に黒いへこみが広がっている姉を呼び止める。振り返ったその顔は明らかに困り果てていた。
「朝起きたら、背中がどっかいっちゃってたの」
それはそんなテンションで告げていい事態なのだろうか。私は恐怖や不安を通り越して困惑した。
「ねえ、それ、本当に背中がないの」
正面から見る姉は至って普通に見える。けれど、くるりと回ってくれたその背中には、やはり穴が開いていた。背中と言われる部分が、服ごと、ないのだ。錯覚でも何でもなく、そこだけが黒々とへこんでいた。
「触ったら分かるよ」
触りたくない。身を引いた私に、姉は自分で背中を触る。手はへこみに突っ込まれていた。ああ、じゃあ、本当に背中がないんだと馬鹿みたいに納得してしまう。
「どこいったんだろう……」
悲しげに、本来あるはずの背中を撫でる姉。私は床に零れていたシリアルの残骸をティッシュで拭き取りつつ、その様子を凝視した。何ておかしな状況なんだろう。あらん限りに姉の背中がないと叫び回りたかったが、当の本人が取り乱していないのだから、妙に頭が冷めてしまう。私はティッシュをゴミ箱に放り入れた。
「……どっかいったって、何」
冷静になってしまった頭は、姉の言葉の奇妙さに気づいた。背中がなくなった、ではなく、どこかへいったと姉は言っているのだ。
姉は悲しそうに目を伏せる。
「私が悪いの。つい思ってもいないことを口走ってしまって。馬鹿だよね。背中がないと後ろがどっちなのかも分からないのに」
何を言っているのかサッパリ理解できなかった。私は押し黙って頬の内側を噛んだ。
「後悔したって、遅いんだよね」
悲しそうに諦めたように笑う姉は、「探してくる」と私に『どっかいった背中』を向ける。そして、起き出してきたらしい母と姉の会話が台所から聞こえてきた。
「お母さん、私……」
「まあ……。大丈夫、ふとしたことで背中ってどこかへいっちゃうものなの。誰だって一度は経験するわ。でもね、どっかいったままにしちゃ、駄目よ……」
続いていく会話に、そういうものなのかと不安になって、そろりと首を巡らして背中を見た。私の背中には、ちゃんと背中がついていて、咄嗟にどっかいってしまわないように手で押さえていた。
……一体、姉の背中は、どこにいったんだろう。