酔い覚まし
「酒飲むとさあ、耳の奥から海の音がするんだよな」
9パーセントのチューハイ片手に赤い顔して笑う彼女は、口調がハッキリしていても酔っているのだろうと思われた。
「海の音なあ」
同じく9パーセントのチューハイを煽りながら、僕も酔った声音で相槌を打つ。彼女はシラフでも不思議なことを言うものだから、特におかしな会話をしているつもりはなかった。
「なんかさあ、耳の奥から、ごぉーって、波の音が」
「それはあれ、血管が広がる感覚じゃない? だってきみすぐ赤くなるし」
「それはそうかもしれんけど、ちゃうんやってえ。波の音だよ、波の音」
「ええー?」
おかしいのはここからだった。
どうにも海の音を信じない僕に、「いいから聞いてみろって」ぐい、と長い髪を耳にかけた横顔を近づけてくる。いや僕にはきみの耳奥の音は聞こえんだろ、内心冷静に突っ込むも、頭がふわふわしていた僕は彼女の右耳に左耳をくっつけた。ぺたり。
ごごぉー……ざざーん、ざん……。
海の音だ。
「うそ、マジで?」
酔った頭でもこれはおかしいことに気づく。信じられない思いで彼女の頭を更に引き寄せ、頬を押しつけ合い、構わず耳たぶを更にくっつけた。
ごーぉ……ざん……。
「海の音だ」
「だから言ったやん」
喋ると頬肉を噛みそうになる。しばらくそのまま、そうか、彼女の耳は酒を飲むと海の音がするんだと興味深く頷く。引き寄せていた頭を解放し、お互いなんでもなかったように缶を傾けた。
「いや、なんでやねん」
たぶん普段ならいつもの彼女の不思議を放っておいていただろう。けれども酒の力は普段隠しているものを顕にしてしまう。この時、僕は、いつも不思議だなあと思って、深くは突っ込まない深淵を、覗きたいと強く感じてしまったのだ。
「なんでや、ちょっとおかしい」
「何がー?」
「海の音。もっかい聞かせて」
おういいよ、得意げに差し出された耳を再びくっつける。彼女の右耳から僕の左耳へと、遠くから、徐々に近く、海がある空間の音が伝わってきた。
「ごめん、見させて」
「耳掃除したっけ……引いても知らんぞ」
拒否しない彼女の小さな耳を指先で摘む。うぶ毛が生えたそこを目を眇めて覗き見た。
暗い穴だ。特に変わりのない。
じゃあやっぱりあれは血管の収縮するか何かの音だったんかも。「いや、全然なんもない、綺麗だよ」拍子抜けして身を離そうとした時。
ざっぱん!
僕の顔を飛沫が襲った。
「は……」
唖然として濡れた顔を触る。ぽたり。髪から雫が滴っていた。ぺろり。唇を舐めてみる。あ、これ酒だ。
酒の海だ。
彼女の耳から酒の海が出てきたんだ。
「ええー……」
混沌を通り越して妙に冴えてきた僕は、彼女の耳から零れ落ちている僅かな液体を見てぴんときた。
彼女は今、僕をけらけら笑いながら酒を飲んでいる。顔色は、赤いが、心なしかさっきよりマシだ。
つまり、これ、酔いを覚ましているのだ。
なーんだ、そういうことか。
僕は一人納得して、顔を拭うと、新たに酒を開けた。深淵は、時たま飛び出してきていた。