吐血男と落涙男(ボーイズラブ風味)
ごぼり、と咳と同時に血を吐き出した。
手で受け止めきれない分が、指の間からシャツと地面に滴った。
やべえ、と思った。これは、今までにない、血の量だ。ごほ、ごほり、吐血が続く。
「お、おい、大丈夫か……?」
いつものことだろうと呆れたように笑っていた春仁の顔が、不安げに揺れて、俺の背をさすろうと手を伸ばしてくる。その手が背中に触れて、じわりと温かさを認識した途端、「ぅごほぁえ――ッ」また盛大に血を吐いた。
「は、え? そんなに嬉しいことあったか今!?」困惑して慌てる春仁に丸めた背中を撫でさすられながら、そう言いたいのは俺の方だと示したくて首を振る。自分でも、なぜ吐血したのか分からないのだと。けど伝わるわけがなく、背中にあった手が口を覆う血塗れの俺の手に重ねられて、そして顔を覗き込まれた。
「おい、ほんとにどうした、和成……」
俺より色素の薄い瞳と目線がかち合うと、あ、と二つの異なる感情が俺の頭を占領した。
――あ、俺、こいつのこと好きだ。
――あ、こいつ、なんて可哀相なんだろう。
まるで全世界の幸福を煮詰めたような感情に、更に俺の口から真っ赤な血液が溢れる。
そして、まるで全世界の同情を凍結させたような感情に、かち合った色素の薄い瞳の縁から透明な雫が流れた。
春仁は流れる涙に目をぱちくりさせて、何も知らずに、困り笑いを浮かべた。
「器用な奴だなあ、お前」
春仁の目から、次から次へと涙が出て、既に地面に染みていた俺の血の上に落ちる。ああ、俺は、俺だけは。
もうお前を泣かせるなんてこと、ないと思っていたのに。
二つの感情がないまぜになって、煮詰まりすぎた幸福が絶望に変わると、吐血は嘘みたいに治まった。
代わりに、蹲る俺の傍で、仕方がないなと笑みながら春仁は静かに泣いていた。
春仁と出会ったのは中学三年、今から二年ほど前の、夏だった。
受験生の自覚を持った俺は、少しやんちゃを控えようと、売られた喧嘩を速やかに終わらして校舎裏から帰ろうとしていたのだ。そこで、声をかけられた。
「殴った奴が、泣くなよ」
その場には、ほっぽり出していた鞄から砂埃を叩き落とす俺しかいないのだから、自然、声の主を振り返る。
離れた場所、見知らぬ男子生徒が立っていて、そして目のいい俺はそいつが顔を顰めて泣いているのが分かってしまった。
気持ちの悪い奴。春仁の第一印象は、今にして思えばそんな最低なものだった。荒んでいた俺には、喧嘩後に知らない男が泣きながら訳の分からないことを言ってくるのが、とてつもなく不愉快だったのだ。
「泣いてんの、お前だろ」
つっけんどんに事実を言い捨て、その場を後にしようとした。涙を流すたぶん同級生である男なんて相手にせず、側を通り過ぎてしまえばいい。けれど、
「血、吐かないのか?」
「は?」
俺は足を止めてしまった。
「お前、ただの暴力野郎かと思ってたんだけど、違ったんだな」
さっきより近くなった数歩先の距離、大粒の雫を零しながら困り顔で笑ってきた男に何か口汚いことを言いたかった俺は。
「――うっ、え……ッ」
胃からせり上がってくる血を吐いた。嬉しかったのか楽しかったのか、頭が理解するより先に反応するこの体が、確かなプラスの感情を持ったのは明らかで、同時になぜ知らない男にそんなことを言い当てられなければならないのかの不快感もあって、どうにもならず嘔吐く俺にそいつは言ったのだ。
「器用な奴だなあ、お前」
泣きながら仕方がないなあというふうに笑っている奴に言われたくない。反論は血となって地面を汚した。
「自分が嬉しかったり、楽しかったり、幸せだったりすると、吐血すんだよ、俺は」
「相手が悲しかったり、怒ったり、不幸だったりすると、涙が出てくるんだ、俺は」
蝉の声を遮断したファーストフード店内の隅で、血の味の残る口にシェイクを流し込む。向かいに座る桑野春仁と名乗った同級生は、涙の痕が残る頬におしぼりを押し当てていた。
「能登は、コントロールとかできないのか?」
「……和成でいいよ。できたら制服汚してねえよ」
「だよなあ。俺もだ」
「桑野の……相手が悲しいとって何、話してる相手がってことか」
「春仁でいいよ。いや、俺が意識を向けた相手が、そうだな、マイナスの感情を強く持ったら、こう、強制的に泣かされるんだ」
「それは、つまり……」
「さっき、和成は泣きながら笑ってたってことだな」
「……」
喧嘩の倦怠感、こいつに対する不審感、それらが涙を。そして、非常に認めたくはないが、落ち着いた今では俺が吐血した理由を分かってしまった。
嬉しかったんだ。
ただの暴力野郎じゃないと言われたことが。
ごくたまに、誰かに暴力を振るう時、吐血してしまうことがあった。楽しいとか嬉しいとか、そんな一言で片付けられないプラスな感情を抱いて、吐血する。決して暴力が好きなわけじゃない、人が傷つくのを見て幸福と感じるような異常者でもない。でも、お互い痛いはずなのに殴り合うとか、相手も俺も馬鹿なんじゃねえのって可笑しくなるんだ。そして俺の体質を知っている人間は騒ぐ。不良が過ぎると。
「お前、俺のこと知ってたの」
訊くと、春仁は「ぶっちゃけだな」と前置きし、おしぼりを丸めた。
「まあ、お前有名だったし、そりゃ知ってた。一回も同じクラスにならなかったけど、廊下ですれ違う時とか、さっきみたいに喧嘩してる時とか、……多かったんだよ。泣いてる頻度が」
「ちょっと待って」
「でもさ、能登和成って人間は、噂じゃしょっちゅう吐血してるんだ。素行の悪さは目立つけど、笑顔は素敵だって女子も言ってた。笑顔と同時に血を吐くけど、って」
「ちょっと待って」
「確かに俺が見てても吐血しまくりで大変そうだなって思ったけど、でも俺の目からは涙流れんだもん。とうとう声かけちゃったよな」
制止も空しく折角バニラ味になっていた口内に血の味とにおいが充満して口を押さえた。春仁は自慢げに笑っていて、もう涙の痕も残っていなかった。
それから分かったことが、春仁はしょっちゅう泣くということ。自分の感情からではなく、周囲の感情から、ただ涙を流す。目の前にいなければ、泣いていることに気付かないほど、ただ静かに。
第一印象なんてすぐに覆った。春仁は優しく、一緒にいると安心する。俺が吐血しても、本当は吐血したいだけじゃないことを唯一知っていてくれたから。だから、ある時、思ったのだ。
俺だけは、もう、こいつを泣かせることはないんだ、って。
だって、俺はこいつと一緒にいると、とてつもなく気を緩めてしまうから。心の底からの温かい感情しかない血を吐けるから。誰とも知らない奴の涙を流させるくらいなら、俺の隣で、吐血する俺を見て笑っていて欲しい。そう、思っていた、はずなのに。
「ごめん……」
俺の隣で春仁が泣いている。しゃがんだまま顔を上げることもできずにいる俺の背を、一定のリズムで、あやすように叩いている手がどこまでも優しい。
「いいよ。でも久しぶりだな」
「……ごめん」
好きだ、と思ったのは、別段おかしなことじゃなかった。
俺は春仁のことが好きだったし、春仁も俺のことを好いていてくれた。友だちとして、人間として。
けど、夕暮れの陽射しが春仁の色素の薄い髪と瞳を照らした瞬間、その全ての安心を具現したような笑顔を向けられた瞬間、感じるより先に血を吐いてしまった。
おかしなことに、俺はこいつが好きなんだ。何よりも、誰よりも。自覚した途端の同情と絶望は、吐血を出させてはくれない。
なんて可哀相なんだろう。お前、依然、やっと自分だけの涙を流せる場所ができたって、言ってくれたのに。
「ごめん、……ごめん、ほんと」
それでも俺は、背中にあるお前の手から逃れることも、俺からその涙の理由を切り出すことも、できそうにない。
ごめん、とひたすら呟いて、何も知らずに溢れて落ちゆく涙に、今だけだ、と強く念じる。
すぐに、今まで通りの血を吐けるようにするから。
だから、どうか今だけ、たくさん泣いてくれ。
春仁の涙が止まり「帰ろっか、和成」「……ああ」腫れぼったい穏やかな目で覗き込まれたのは、無意識に遮断していた蝉の声が寝静まり、夕陽が春仁を照らし終わった頃だった。