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吸血姫は死を嫌う  作者: 天木蘭
二章.疑わしき
8/24

2-1

 教室には、いつもと変わらない光景があった。どこかで誰かが死んでも、直接的でなければ影響はないのだと、再実感する。僕でさえ学校に来ているのだから、そういうものなのだろう。


 昨夜、吸血鬼と非日常を過ごした後に帰宅すると、叔父は心配で気が気ではなかったらしく、あわや警察を呼ぶのではないかというところだった、とのことだ。兄が殺されたのだから、心配も当然のことだと思うのだが、少し行き過ぎな感じもする。


 ただ、事情は曖昧にしながら、またこういうことがあるかもしれないと伝えてみると、渋々ではあるものの理解してくれた。認めてくれた最大の理由は、兄が死んだ原因を調べるためという目的があるからだろう。


 兄が殺されたということは教えた。驚いた様子に見えたが、それが演技かどうかはわからない。あまり、演技が得意そうにも見えないが。


「お、焦斗、元バスケ部のよしみで、お前にもやるよ」


 俯いて見ていた机の上に、なにかが現れる。キーホルダーだった。タダでいいのかというほどの笑顔を浮かべた女性が、こちらを見ている。


「なにこれ」

「トルネードのメンバーのキーホルダーだ。前に焦斗が休んでいて渡せなかったからな」


 重力に逆らって顔を正位置に持ってくると、同学年でバスケ部だった友人がいた。


「ああ、いつもの布教行為か」

「お前も早くトルネードのファンになれって」

「遠慮する。アイドルなんかに散財したくない」

「なんかってなんだよ。ま、いいや。そいつはやるよ」

「ありがと。もらえる物はもらっておく」


 友人は満足そうな顔をして頷くと、またどこかへ行った。


 彼はいわゆるアイドルオタクだ。トルネードという五人組アイドルの大ファン。堂々とクラスメイトに布教しようとするほどだ。しかし、周りに嫌われてはいない。少し鬱陶しがられているけど。活発的で性格がいいし、バスケ部でもあるから運動もできる。


 このキーホルダーだって、もしかしたら、彼なりに僕を励まそうとしてくれたのかもしれない。気遣わせてしまっていたら、なんだか申し訳ない。


「あ、焦斗もそれもらったんだね。そろそろファンになる?」


 悠が薄く口を開いて話し掛けてきた。どうやら、気遣いではなく通常運転だったようだ。だが、腫れ物のように扱われないのは、どことなく嬉しくも思う。


「ならないよ。そういえば、都市伝説の話は助かったよ。おかげで、なんとかなりそうだ」

「それは良かった。あのさ、焦斗。僕も少し考えてみたんだ。もしかしたら、遺書はSNSに残ってたりしないかな?」

「え?」


 確かにその通りだった。だが、悠は本当に推理をしてそこに辿り着いたのだろうか。犯人は兄が残した最後のメッセージを改編していた。つまり、悠が犯人であれば、そのメッセージの存在を知っていても不自然ではない。


 だが、同時に悠が犯人だとも思えない。犯人ならば、わざわざメッセージがあることを示唆したり、自殺判断の都市伝説を教えたり、自分の身が危うくなることをするだろうか? 逆に考えれば、そうすることで容疑者から外れるという手もあるが。いや、そんなのまどろっこし過ぎる。


 一度、考えるのをやめよう。ループしてしまう。じゃんけんで相手がなにを出すか考えて、それが裏目に出るようなものだ。疑いが凝り固まってしまえば、それを解きほぐすのは難しい。


 ただ、悠に兄が殺されたことを言うかどうか迷う。信頼したい。小学校からの幼馴染で、親友で、だから献身的な態度を取ってくれるのだと。だから、僕は言うことにした。


「実は、その通りなんだ。さらに言えば、兄は殺されたらしい」

「幹人さんが? でも、誰が、どうして?」

「わからない。だから、探しているんだ。悠の話のおかげで、探偵が見つかったから、依頼もしてある。能力も信頼できることが確認できたから、心配しないでいいよ」


 リレンは身体能力、推理能力が共に優れている。特に身体能力については、及ぶ者はいない。推理能力では、まだ人間の及ぶ可能性もあるが、僕の兄が殺された理由や犯人は、きっと解いてくれるだろう。


「心配はするよ。殺されたってことは、殺人犯を探しているんじゃないの? それなら、焦斗だって危ないと思う」

「大丈夫だよ。探偵の人も強いからさ」

「いや、それだけじゃ駄目だよ。せめて、帰りだけでも僕が送っていく。部活も退部したんだよね?」

「うん。そうだけど」


 悠は帰宅部だが、柔道教室に通っている。下校したあとに向かうため、僕と帰ることもできる。確かに心強くはあるが。


「犯人が襲ってきたら、返り討ちにするよ。だから、久しぶりに一緒に帰ろうよ」


 そういえば、僕が部活動に打ち込むようになると、悠と同じ時間帯で帰ることはなくなっていた。尻尾を振る犬のように、目を輝かせている悠を見ていると、彼の提案を断り切ることができなかった。


「わかった。しばらく一緒に帰ろうか」

「うん。それに、また怪しく思うこともあるから、その話もしよう」


 悠は声を低く落として話す。どうやら、周りに聞かれたくないことのようだ。



  * * *



 考え事をしながら授業を受けていた。僕が兄について得られる情報はもうない。情報源に見当がないからだ。つまり、あとはリレンの調査に期待するしかない。


 閉まっている窓の外を見ていると、雲一つない空がこちらを覗き込んでくる。嫌悪感を抱くほど、青く澄み渡る空だ。昨日のリレンがやったように、窓ごと割ってしまいたい衝動に駆られる。


 しかし、そこに一瞬、青を掻き消すように遮蔽物(しゃへいぶつ)が通った。同時に悲鳴も聞こえた。僕の場合は、聞こえたというよりも、見えてしまった。開いた口。人体だ。紛れもなく、僕の視界を通過したのは、人だった。


 落下した人の悲鳴が聞こえたからか、先生の授業が退屈だったからなのか、それを見ていたのは僕だけではなかったらしい。


 悲鳴や椅子の鳴らす音が騒々しい。朝に聞こえる鳥の鳴き声などとは比べ物にならない。


「お、落ち着け! 今、確認するから!」


 言うまでもなく、先生だって冷静ではない。しかし、判断は冷静で、急いで教室を飛び出して行った。それとも、マニュアルでもあるのだろうか。


 教室で、誰も動きを制限されてはいない。しかし、とても、窓から地上を見下ろす気にはならない。拙い想像力でも、どうなっているかはわかる。


 脳裏から剥がれない場面。落下したと思われる人は女性だった。彼女が浮かべていたのは、こちらに迫ってくるような恐怖。抗えない重力によって、落下していく恐怖だ。


 黒髪はまるで箒だった。バラバラと広がり、見えない手に引っ張られていた。目は驚きで見開き、確実に僕の目を捉えていた。口も、動かない体をどうにかしようという意思と、それができない様を表す悲鳴を上げるため、精一杯に開かれていた。


 この高さから落ちれば、きっと死んでいるだろう。


 死に慣れた僕だけは、その事実を無理矢理に受け入れ、死という現象に対してなにも感じない。周りから見れば、冷たく非情な人間に見えるのかもしれない。


 人が落下したという事実よりも、僕の頭の中はそんな考えが大きな割合を占めていて、それがどうしようもなく悲しかった。兄さんなら、自分のことなど考えずに、すぐに飛び出して行っただろう。僕には、それができない。自分のことしか、考えられない。

 

「焦斗、大丈夫?」

「ああ、うん。大丈夫だよ」


 不自然なくらい落ち着いている悠の言葉に、僕は頷いて答える。視線は外に向けて縫いとめられていて、悠の方には振り返られない。


 落下した人物がここの窓を通っていったということは、この階下に位置する教室以外では、落下する誰かを確認できていないということになる。とはいえ、悲鳴を上げる女子もいたから、他クラスでもなにかが起こったとは察知しているだろう。蜂騒ぎとは異質の騒ぎなのだから。


「自殺……なのかな」


 未だ荒れている環境音に紛れた悠の言葉は、状況を考えればそうとしか思えないのに、波があった。


「屋上から飛び降りたんだ。そうなんじゃないか?」


 授業中に自殺をした理由はわからない。だが、授業中に殺人を犯せば、容疑者は絞り込まれてしまう。


「ここから屋上への階段前が見えるよね。だけど、これだけの騒ぎが起きていれば、ずっと見ていたって人はいないと思うんだ」


 それには同意だ。僕は窓の外を見続けていたし、クラスメイトの多くは外へ意識が向くだろう。


 僕らのクラスは一年四組。校舎四階の右側だ。教室の扉の外には、階段の踊り場と合流し広くなった廊下がある。誰かが歩けば、そこを通るはずだ。また、屋上へ行くには、その踊り場から通じる階段を上るしかない。


「だから、もし屋上で人を突き落としても、簡単に逃げることができたってわけだよ。先生も、屋上へは行かなかったみたいだしね」


 確かに、万一の可能性を考えて、先生は屋上へ行くべきだったのかもしれない。だが、そこまでの対応を求めるのは、誰が相手でも酷なことだろう。


 学校の屋上から人が落ちた。誰かが落としたに違いない。その二つを即連結させるのは困難だ。状況を鑑みれば、自殺だと思うのが妥当な判断だ。僕も自殺だと考えた。


 ただ、僕はまだそこに重きを置いてはいない。重要なのは、違う点だ。


「悠、これからが問題だ。学校が口止めに向かうか、事情の追求をするか、それが大切なんだよ」


 昨日起きた、介護施設での一件。朝のニュースでは報道されていなかったが、ネットの地方版ニュースサイトには、既にそれらしきものが出ていた。


 死にまつわるリレンの価値観は、僕の中にそれ相応の傷は残した。死の意味を変えてはいけない。真実が伝わらなければいけない。


 空はやはり晴れていて、窓に映った僕の顔は苦々しい。自分のこんな顔を見たのは、初めてだった。

 

「ね、ねえ、なにかあったの?」


 窓に女子の姿が映った。僕は、ようやく呪縛から解け、首を巡らせる。


「そういえば、海美(みみ)は保健室に行ってたんだっけ?」

「えっと、具合が悪くて。先生に寝不足だと思うって言われて、少し仮眠して戻ってきたら、こんな騒ぎで」


 最近、コンビニで会ったばかりだが、学校で会う彼女とコンビニの彼女とでは、違った雰囲気がある。なにより違うのは様子だ。


 瞳は得体の知れぬことへの不安からか、揺らいで見える。思えば、彼女は出会った時から、極度の心配性の持ち主であった。


 杞憂という漢文を授業で扱ったとき、まさに彼女と僕との関係性がそれに当てはまると思った。いや、僕だけでなく、周りとのだ。いつだって、彼女は心配してしまう。そんなはずないのに、それを憂慮する。ただ、彼女はその心配性のお陰か、周囲に気を遣うのがうまい。


 わざわざ、彼女の不安を増長させる必要はないという思いと、どうせ後から知るのだから同じかという思いがぶつかり、結局説明をすることにした。


「人が落ちたんだ。多分、女子だね」


 オブラートは持ち合わせていなかったのと、死という言葉への希薄さからか、随分と飾り気のない文が口から出てきた。


「そんな……一体誰が?」


 どうやら、彼女は悲鳴を上げるタイプではなく、怖がるタイプの人間らしい。冷静になった悠とは対照的だ。それとも、心配性の彼女は、常日頃から飛び降りに遭遇する可能性を考慮していて、本当に起こってしまったことに恐怖を感じたのか。いや、それはないか。


「わからない。僕は顔を見たけど、逆さだったし覚えはなかったよ。知り合いでなければいいね」

「……うん」


 海美の唇は震えていた。今日も気温は高めだが、彼女の周りだけ温度が下がっているかに見える。

 僕の言葉の通りであればいいと思った。海美はきっと、落ちた人が知り合いである可能性を考えている。僕の兄だけでなく、更に知り合いを亡くしたとあれば、彼女は僕より深い傷を負うだろう。


 ピンポンパンポーン。緊迫感のない音が、虚しく響いた。


『皆さん、そのまましばらく教室で待機していてください。チャイムが鳴っても、教室の中にいるよう、先生方は注意を払ってください。繰り返します』


 その後は同じ文が繰り返された。日常から切り離された学校は、このあと、どうなるのだろうか。


「全てがうまく解決すればいいね」

「そうなるといいけど」


 悠の言葉に、漠然とした不安を感じながら同意する。視界に入った黒板を見ると、解答のないまま放置された数学の問題が書かれていた。



 * * *



「ねえ、焦斗は自殺判断ができる人に会ったんだよね?」

「そうだけど、それがどうかした?」


 僕と悠は下校していた。救急車が到着したあと、学校が取った措置は総下校だった。

 下校時には警察も訪れていた。落下した彼女が死んだのかはわからないが、硬いコンクリートに引かれた白線は生々しく、ネズミ色は血塗られていた。


 落下場所が玄関前でなかったのは、せめてもの救いだろう。僕の教室の階下は、二年四組、三年四組、保健室の各教室があった。保健室と玄関は、少し離れている。


 ある生徒は目を背け、ある生徒は好奇心を持ち、だが、ほとんどの生徒は気分が悪かったようだ。想像してしまったのだろう。(おびただ)しい血液を流している肉体か、球体関節人形のように手足が捻れ曲がった体を。


「自殺判断ができる人の実力を、焦斗は認めているんだよね?」

「うん。おかげで僕は兄が殺されたことも知った」


 悠は何度か頷くと、目に鈍い光を湛えながら、ある提案をしてきた。


「それなら、その人に依頼しようよ。この飛び降りが、自殺なのかどうかの判断をさ」

「なんで?」


 同じ学校に所属する人間とはいえ、見知らぬ他人が自殺したのか殺されたのか、興味が湧くものなのか? いや、気にはなるか。ただ、目に浮かんだ光が気になった。


「僕が小学生のとき、いじめに遭っていたのを、焦斗は助けてくれたよね」

「うん」


 小学生のいじめは独創的ではない。フィクションから得た知識を利用していたし、クラスぐるみではなく規模もまだ小さかったし、同じ小学生だった僕でもなんとかできた。


 それ以来、僕と悠は仲良くなり、親友にまで発展した。その上、悠は強ければいじめに遭わないだろうという結論を出し、柔道教室へ通うまでに至った。


 純粋な力比べでは、同じクラスで悠に敵う者はいない。また、力がついて自信や余裕が生まれたのか、暗かった性格も大分明るくなって、友達は多く増えていた。


  「僕は、他人を虐げる人が嫌いなんだ。昔、被害者だったから。もし、あの人が自殺なら、原因となった人に少しでも痛い目に遭ってもらわないと、気が済まない」


 ああ、さっきの鈍い光の正体はこれか。多分、これは歪んだ正義感だ。

 しかし、被害者が加害者になった途端、周りは手の平を返す。被害者には散々同情するのに、反撃するとお前も悪いとなる。それが不条理なことだと、僕は思う。


 そう思うが、それは傍らで見ている人にとっては当然の視点になってしまう。僕は、他人からそういう風に、悠のことを見てもらいたくない。


「悠が復讐をしたいと思っているなら、僕は悠を止めるよ。正しいとは思うんだ。加害者だけ攻撃して、被害者は損を受けるだけなんて不公平だし。

 でも、だからって周りは正当性を認めない。攻撃したら、それは悪。多くの価値観はそうなんだから」


 僕と悠はいつの間にか、どちらともなく自転車を停めていた。通り過ぎる車を見ていると、僕らだけが時間から隔てられた気分になる。


「焦斗がそう言うなら、やらないよ。僕が今ここにいるのは、焦斗のおかげだからね。でも、もし他殺だったら、犯人が気にならない?」


  その気持ちはわかる。心情でいけば、殺人犯がいるかもしれない学校に通ってなんていられない。正しいことだ。


 だが、僕の心理は違う。昨日の夜、リレンが老婆の死因を解き明かしたとき、不謹慎にも興奮したのだ。わからないものがわかっていく興奮。身近なもので例えれば、勉強と同じだ。そして、真相を知りたい動機として不適切だ。


 これは、事件に関わった当事者でないからこそ湧き上がる感情。野次馬と変わらないし、事件を一過性の話題として話す子ども達とも、なんら変わりがない。


 答えを知りたい。それも、世間よりも早く。被害者や遺族に関係なく、全ての雑多な感情を単一化したものがそれになる。同時に、その思いが嫌いでもある。


 自己中心的。別に、自分が周りより先に知ったところで、どうにかなるわけでもないのに。だから、やはり、事件への興味は切り捨てるべきだ。自分のことを嫌いになりたくない。兄が好きになってくれた僕のことを、嫌いには。


 それに、優先事項もある。


「確かに、答えは知りたいよ。でも、まずは警察に任せるべきだ」


 介護施設ではリレンが先に真相を明かしてしまったが、警察にだって解けたのかもしれない。たまたま、リレンが先に事件を見つけてしまっただけで。


「それに、僕はまず自分を優先するよ。兄さんを殺した犯人は、必ず見つけないといけない」


 それが終わりと始まりであり、現時点でなによりも優先すべきことだ。僕は兄が死んでから、リレンと出会い、殺意を抱いたり、他人の死に触れたりと、様々なものに遭遇した。


 そのせいか、自分でも僕はどこかおかしいような気がしている。そして、そんなことを考える原因となった契機は兄の死だ。だから、犯人を見つければ、自身の異常が正常になるのではと、淡い期待もあった。


 振り返った道が、途切れている可能性はある。途切れた道を見つけられるか、元に戻れるかは、僕という人間を構成するものに掛かっているだろう。


「僕は積極的に死に関わる気はないよ。死神がまとわりついているみたいに、周りの人が死んでいくけどね」


 身近な人の死を、僕は望んでいない。両親が死んで、兄が死んで、死に慣れてしまったのだ。両親も兄も健在であれば、僕がこんなにも悩むことはない。


 普通の生活ができたはずだ。


「悠は死なないでね。僕より先には、絶対に」

「もちろん」


 悠の目には僕が映っていた。その姿は鎌を持った死神に見えたが、瞬くと昏い目をした僕がいる。


 これ以上、誰も失いたくない。失うくらいなら、僕が死のう。

 そう思ったところで、リレンが言っていたことを思い出した。


 死は死を引き起こす。


 こういうことか。僕も彼女と同じく、死が嫌いになりそうだ。


「悠、この話はもうやめよう。そういえば、なにか話すことがあるんじゃなかったっけ?」


 朝に、悠がそんなことを言っていた気がする。


「そうだった。これは重要なことだと思うんだけど」


 悠は言い淀んだが、スタンドを掛けた自転車を思い切り漕いでから、口を開いた。


「僕は、幹人さんを殺したのが、僕の兄さんじゃないかと疑っているんだ」


 僕は、周りのコンクリート塀が音を立てて崩れ去るのを見た。しかし、目を擦り見回すと、塀は灰色の強固なコンクリートに戻っている。幻覚だ。強い力でも加わらない限り、壊れようがない。


「大丈夫? ごめん、突然こんな話で」


 漕いでも走り出さない自転車のブレーキを押して、悠はこちらの様子を窺ってきた。


「少し疲れているみたいだ。もう問題ないよ。どうして、(れい)さんが犯人だと思うの?」


 悠の兄さんは、名前を玲という。僕の兄と幼馴染で、悠のイジメがなんとかなったあと、兄弟同士で付き合うようになっていたから、僕もよく知っている。


「実は、兄さんがいなくなったんだ」

「それって、行方不明ってこと?」

「違う。今は帰ってきているんだ。けど、幹人さんが死んだ日、いつもは部屋で勉強をしている兄さんが、珍しく外出していた。タイミングが良過ぎるとは思わない?」


 僕の感想としては、言われればそうかと思うくらいだ。兄に関わる人は、誰でも平等に疑っているつもりだが、逆に、誰も疑うことができないと言ってもいい。

 動機という点から見れば、誰もが疑わしいのに、動機を持つのに妥当な人物が見当たらないのだ。


「だから、このあと僕の家に来てくれないかな? 僕が見るのと、焦斗が見るのとで、違う印象を抱くのかもしれないしね」


 僕は最初に玲さんと会ったとき、聡明そうな人だなという印象を抱いた。それは、しばらく接していても変わることはなかった。


 奔放な僕の兄を制したり、冷静な対処で助けてくれた。僕の兄と悠の兄の関係性は、喩えるなら馬とその騎手といったところだ。


「それに、動機もあるしさ」

「動機が?」


 商品のお得さを幾度となく宣伝する店員の如く、悠は玲さんの不審点を述べる。

 その様子は焦っているようにも見え、話を聞きながらなにを焦っているのかも考えてみた。


「僕の兄さんと幹人さんは、同じ大学を受験したじゃないか。だけど、幹人さんだけ合格して、兄さんは浪人生になった。それを妬んでいたのかもしれない」


 自転車の上で器用にバランスを取りつつ、身振り手振りを混じえて、悠は必死だ。考えていると、悠のその必死さや、焦りの原因に予想がついた。


「悠、大丈夫だよ。きっと、玲さんは犯人じゃないから。安心して。僕も玲さんが犯人だって疑っていないし、きっと偶然が重なっただけだよ」


 悠は心配しているのだろう。玲さんが犯人なのではないかと。だからこそ、焦っている。早くこれが誤解だったと、そう信じたいのだと思う。

 僕だって、もしも兄が加害者側なのだと疑うことがあれば、不安で仕方がなくなる。誰かにそれを払拭して欲しくなるに違いない。


「もし悠が本当に不安なら、言うとおりについていくよ。そして、犯人じゃないって証明する」

「うん。……ありがとうね。昔も焦斗に守ってもらってばかりだったのに、また迷惑掛けちゃってごめん。今度は僕が守るから」

「力じゃ全然敵わないし、もう悠の方が僕より強いよ。それに、僕は悠がいるだけで、悠が思っているよりも助けられているしね」


 悠や叔父がいるからこそ、僕はまだここにいられている気がする。もし兄が死んだ翌朝、叔父が来てくれていなかったら、僕もまた首を括っていたかもしれないし、どうなっていたかわからない。


 悠が都市伝説を教えてくれなかったら、僕は兄が自殺だったと今も思い続けて、立ち直れていなかったと思う。


「とりあえず、悠の家に行こうか。このまま行く?」

「うん。焦斗の都合が悪くないなら。昨日のうちに、焦斗が来るかもしれないとは言っておいたから」

「そっか」


 僕らは自転車のスタンドを外して、ペダルを踏み始める。前を向けば先が見えるのに、僕はまだなにも見えていないような気がした。



 * * *



 悠の家は、僕の家がある方向とはずれている。僕の家を北と見たて、リレンの家を東と見ると、悠の家は西にある。

 自転車を漕いできた南には学校があるから、この四箇所は丁度よく四方へ別れているらしい。

 場所の把握は楽になるのだが、なにぶん、移動は大変である。


 自転車の心地よい速さに身を委ねていると、どこか物足りない。リレンに抱えられたときの方が速かったからだろう。しかし、悠がいるのに速度を上げるわけにもいかない。それに、屋根の上と違って信号や他の通行者がいるのも問題だ。


 なんとなく、玲さんの疑いが晴れるまでは、悠との会話もしづらくて、ペダルに専念していると、いつの間にか悠の家に着いていた。

 僕の家がある場所よりも閑静な住宅街。人の気配が少ない。時間帯からして、勤め人が多いのかもしれない。


「お邪魔します」


 自転車を停めて、悠に促されるまま家の中へ入っていく。


「あ、焦斗くん、久しぶりね。元気にしていた?」


 僕の挨拶に反応して、リビングから女性が顔を覗かせた。


 顔はシャープで、整っている。悠の中性的な顔でわかるが、やはり母親は美人だ。父親については見たことがない。僕が初めてこの家に来たとき、既に悠の父親はいなかった。


「あ、お久しぶりです。はい。元気です」


 悠に目で訊ねると、首を振られた。意味はおそらく伝わったはずだ。つまり、悠が首を振ったということは、彼女は兄の死を知らないということか。


「あとでお菓子を持っていくから。二階でいいんでしょ?」

「うん。お願い」


 親子間の仲も良さそうで、安心した。僕には両親がいない。そのことで、小さい頃は他の人に嫉妬もしたが、兄も失った今では、安心を覚えてしまう。

 別れは突然やってくる。心に残る人なのなら、良好な関係をすべきだ。いざという時、後悔しても死人は戻らないのだから。


「じゃあ、二階に行こうか」

 

   足を掛けても階段は音を立てない。これは、単純に悠の家にある階段が、僕の家よりも丈夫というだけだろう。


 登り切るとすぐそこにある部屋を、悠はノックした。前に来たときと変わらず、扉には装飾がない。一年以上経っているだろうに。


「悠か?」

「うん。焦斗もいるよ」

「わかった。入っていいぞ」


 焦げ茶色で木製のドアを開くと、生活感の乏しい部屋が現れた。


「焦斗、久しぶりだな」


 脚がタイヤになっている椅子に、玲さんは座っていた。


 黒いフレームのレンズが薄い眼鏡。格好はワイシャツにジーンズだ。そういえば、玲さんの半袖姿や短パン姿を見たことがない。それでいて、いつも涼しそうにしているのだから不思議だ。


「お久しぶりです」


 部屋の中を、それとなく見回してみる。ほとんど物がない。兄の部屋は片付いていたから、物がなかった。それに対して、玲さんの部屋は物自体がないのだ。


 本棚には参考書がギッシリと詰まっている。他にはベットと壁掛け時計。押入れもあるが、この様子だとその中も空だろうか。


「幹人は元気か?」


 口振りに違和感はなく、ごく自然な、さりげない日常会話のように言う。

 悠の母親だけでなく、玲さんも兄が死んだことを知らないのか。


 ニュースや新聞を見ていないから、兄の訃報が、どこまで広がっているのかわからない。兄の友人にはSNSでメッセージを送ったが、その中に玲さんはいなかったか。ということは、二人はしばらく、やり取りをしていなかったのだろう。


「実は、兄さんが自殺したんです」

「なんだって?」


 玲さんは、青い椅子から立ち上がる。デザインが、学校のパソコン室にあるものと似ているなと、ふと思った。


「だから、玲さんのところに来たんです。兄が死んだ理由に、心当たりはありませんか?」

「少し待ってくれ。幹人は本当に死んだのか? それはいつのことだ?」

「三日前です。夕方頃に、首を吊っているところを僕が見つけました」


 玲さんは椅子に崩れこんだ。両手を組んで、顔の前に当てる。


「それは、大変だったな。……すまない。今頃知ってしまって。なにしろ、ここ一年近くは幹人と連絡を取り合っていなかったんだ。気を遣われていたのかもな」

「そうでしたか」


 SNSのやり取りだけではなく、直接会うこともなかったようだ。


「それにしても、信じられないな。あいつが自殺なんてするのか? しかも、焦斗を残して」

「僕も不思議なんです。でも、事実、兄は死んでしまった。今は、その理由を探しているところです」


 実際は殺されてしまった。犯人を探さないといけない。


「そうか。……意外と落ち着いているんだな。隠れんぼをしていた昔とは違うか」

「懐かしいですね。でも、僕はもう、そのときより成長していますから」

「そうだな」


 頭は組んだ両手に預けたまま、玲さんは静かに笑った。

 その穏やかな笑みを見て、玲さんの言った隠れんぼを思い出した。


 小学生の頃、僕と兄、悠と玲さんの四人で隠れんぼをしていたときのことだ。


 隠れるのは苦手だが、見つけるのは得意な玲さんは、最初に兄を見つけた。最初に見つかった人が鬼をやるルールだったため、兄は次に鬼役となった。


 玲さんと悠が見つかり、兄は僕だけを見つけられないでいた。隠れんぼに範囲は用意されていなかったので、僕は遠い場所に隠れることだけを考えていたからだ。


 兄たちは無意識に捜索範囲を絞っていて、僕を発見できなかった。

 一方、僕は、ウトウトしてしまい、眠ってしまっていた。これが良くなかった。


 起きたら、夕焼けだった空は、焦げたように真っ黒になっていた。

 明るいうちは、あまり来ないところとはいえ、隠れんぼの楽しさもあって、感情は表立たない。だが、暗くなってしまえば話は別だ。


 自分が、いてはいけない場所に訪れてしまったような不安感、更に窓から漏れ聞こえる光や家族団欒の声は、僕を孤独にさせた。


 彷徨うように、道を歩いていた。海月のようにゆらゆらと。道がわからず、見たことのない景色の中、それでも僕は家に向かおうとしていた。


 しばらく歩いた。すると、一つ目みたいなヘッドライトが照らしてきた。


「焦斗、やっと見つけた!」


 兄だった。彼は自転車で、失月町の中を走り回ってくれていた。


「お兄ちゃん!」


 兄を呼んで、僕は泣いた。怖かったのか、嬉しかったのか、今となっては定かでない。


 それから僕は、自転車を押して歩く兄の袖を掴みながら、道を辿っていた。もう二度と見失わないように、そして、見失われないように。

   帰る途中、悠の家に寄った。その際に玲さんに見られたのだ。涙目で兄の袖を強く握っていた僕の姿を。


「僕の中には、まだ兄さんの記憶が残っています。そのうちに、この謎は解いてしまいたいんです。笑って、悠や玲さんと、思い出話ができるように」


 僕と兄が一緒にいた記憶を共有できる人物は少ない。叔父、悠、玲さん。この三人くらいだ。海美は、兄との記憶はあるだろうが、そこに僕も一緒にいた記憶はあまりない。


「そうだな。俺もなんとかしたいが、受験勉強もある。 薄情というかもしれないが、これは俺の人生にも関わることだからな。だが、できる限りの協力はする」

「わかりました。なにかわかったら、教えてください」

「ああ、もちろんだ」


 組んだ両手から顔を離すと、玲さんは金槌を振り下ろすように、力強く頷いた。


「僕も手伝うからね、焦斗。お菓子とか準備できてるかもしれないし、僕は一度下に行くよ」

「ありがとう、悠。でも、お菓子なんて、気にしてなくていいのに」

「お客様はもてなさないとね。兄さん、座布団ってこの中にある?」


 悠は部屋の押入れに手を伸ばした。


「触るな!」


 しかし、落雷のように(とどろ)いた玲さんの声で、その手は行き場を失った。


「座布団はその中にない。下にあるだろうから、悠についていって俺も取ってこようか」

「いや、いいよ。座布団も持ってくるから。兄さんは焦斗と一緒に待っていて」


 膝を伸ばし立ち上がった悠は、縮こまった鼠のように素早く部屋を出て行った。細い尻尾が震えるのさえ見えた気がする。


「玲さん、押入れの中に、なにか変なものでも入っているんですか?」


 悠は僕のために座布団を用意しようとして怒られた。そのことに罪悪感が生じて、おずおずと僕は訊ねた。


「気にしないでいい。なにも入っていないさ」


 誤魔化すというよりも、これ以上は聞いて欲しくないように見えた。


「それよりも、今日は来てくれて嬉しかったよ。幹人が死んだというのは、本当に残念だったが……。

 受験勉強が忙しくて、最近はあまり悠に構っていられなくてな。同じ家にいるのに、疎遠な状態だった。それが、今日、焦斗が来てくれて変わった気がする。ありがとう」


 椅子に座ったまま腰を折り、玲さんはお辞儀をした。


「僕はなにもしていませんよ。ただ、仲良くはしてください。いつまでも一緒にいられるとは、限りませんからね」


 顔を上げ、眼鏡を軽く動かした玲さんは、神妙に頷いた。

 悠は玲さんを疑っていた。今、玲さんと会話していた限りでは、彼が兄を殺したようには思えない。


 不自然な点と言えば、押入れの中を見せることに反感することくらいだ。しかし、それだって、人には見られたくないものの一つや二つあるのだから、おかしくはないだろう。


 それに、兄を殺した犯人に、隠すようなものはないはずだ。


 兄はロープで首を括られて死んでいたのだから、凶器は置いてあるし……。と、そこで気づいた。


 ロープを僕は触っていない。降ろすこともできずに、警察へ通報した。


 もし、警察があのロープの指紋を調べて検出されていなければ、犯人はなにかで手を包んでいたことになる。


 そして、それは同時に他殺の証拠にもなるのではないか? 兄の死体は手袋など、指紋を付着させないものをつけてはいなかった。犯人がロープで兄を括ったのなら、そのロープから検出される可能性があるのは、犯人の指紋のみだ。


 ロープに誰の指紋もなければ、警察も疑心は抱くはず。


 そして、玲さんが犯人だとすれば、押入れの中には使った軍手や手袋があるのかもしれない。手元を離れて、誰かに見つかることを恐れて。

 考え過ぎだろうか。あまり疑いたくないのに、妙に疑いを抱いてしまう。


「はい、お菓子と麦茶。座布団はもう一回降りてから取ってくるよ」

「いや、いいよ。このまま床で」


 玲さんの部屋には絨毯が敷かれている。毛のある絨毯で、柔らかい繊維が座りやすい。悠に何度も行ったり来たりさせるのは申し訳ないし、これで十分過ぎるくらいだ。


「玲さんの邪魔をしたら悪いし、もうそろそろ帰るかな」

「気にするな。久々に会ったんだし、俺だってお前の兄気分だ。菓子だけでも食べて帰るといい」


 右手を伸ばして、例さんはお菓子の袋を指した。

 丸いピンクのお盆に、麦茶が入った三つのグラスと、ポテトスナックの袋。コンソメ味だ。


 円筒状のグラスは結露している。麦茶は冷たそうだ。


「では、ご厚意に甘えさせてもらいます」


 僕がそう言うと、悠が袋を開けた。至れり尽くせりだ。なんでもしてもらって、悪い気がする。


 その後の僕らは、この場にはいない兄がいるかのように、思い出話を重ねた。うまく笑うことはできなかったと思う。


 飲んだ麦茶は冷たいのに、心はとても温かくなった気がした。

 

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