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吸血姫は死を嫌う  作者: 天木蘭
一章.吸血鬼の都市伝説
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1-4

 コンビニへ向かうことになったのだが、自転車の僕に対してリレンは乗り物を使わずに走っていた。僕が移動する速度と、リレンの走る速度を比べると、自転車の方が早い。しかしそれは、自転車が速いからではなく、リレンが僕に合わせているからだ。


 彼女にとっての道路は屋根の上。信号がないという点においては、確かに便利なのだろう。彼女の身体能力あってのものだが。

 僕は二つ目の信号に引っかかったところで、彼女を呼び寄せた。


「どうかしたの?」


 僕の出した声は囁くくらいの声量だったが、リレンは気づき降りてくれた。彼女の息遣いは全く荒くない。平常時となんら変わらなかった。


 真昼より幾分か気温が落ちているとはいえ、汗一つかいていない彼女は異常だ。二十度は軽く超えているだろうに。


「ゆっくり行くので、下を歩きませんか?」


 上で屋根伝いに走っていることを知ると、どうしても気にかかってしまう。足音がある訳でもないのだが、彼女がいることを知ってしまうと、気配を感じてしまう。


「君がそう言うのなら、その通りにするわ」


 なんとなくリレンは断るんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。自分勝手というか、マイペースというか、そんな印象を抱いていたから意外だった。


 もうそろそろ、住宅街からも抜ける。この位置から先をみる限りでは、車通りはあるものの人通りは少ない。リレンが人目につくこともないだろう。


「ところで、目が黒いのはなぜなんですか?」


 赤い信号を見て、それを訊くつもりだったのを思い出した。信号は人の足を止めさせる。リレンの目と同じく、強い力がある。


「これはカラーコンタクトよ。本当に、人は吸血鬼に便利なものを編み出すわよね」


 感心しきったような声を出す彼女だが、その言葉を聞くと、案外、吸血鬼という存在は人の中に紛れ込んでいるのかもしれないなと思う。


「リレンさん、吸血鬼って他にはいないんですか?」

「いないわ。前にも言わなかったかしら」


 即答だった。

 

「どうしてわかるんですか?」

「理由は必要かしら? 事実さえあれば、それで十分だとは思わない?」

「そうですね」


 これは、遠回しに釘を刺されたのだろう。リレンが言う必要はないと考えたのなら、僕に聞く資格はない。


 それに、吸血鬼は僕の兄が自殺したことに関与していると思えないし、思わない。話題を広げようとしただけで他意はなかったが、その必要性もないか。


「人の寿命は伸びたわね。それでも、八十年くらいかしら。その中でも変化があるのだから、人は不思議ね」


 このまま会話がなくていいと思ったのだが、彼女は周りを見回しながら、そんなことを言った。


 住宅街から抜け、街灯が増えヘッドライトの点灯した車が多く通っていく。


 店や家屋の電気も明るく、さっきまで歩いてきた暗さが残る世界は掻き消えた。


「リレンさんって何歳なんですか?」


 女性に年齢を訊くのは失礼だという一般常識くらいは僕にもあるが、見た目に反して妙に老成したような彼女の言葉が気になった。


「きっと驚くわよ。四百歳だから」

「四百歳ですか」

「もっと驚くかと思ったのだけど?」

「兄を殺した犯人を見つけ出すまでは、感情を抑えるつもりです」


   犯人を殺す決心が、その仇敵を前にして鈍ってはいけない。そのために、感情をナイフのように研ぎ澄まし、必要なときに解放する。そう思い込もうとしているが、感情が麻痺しているのかもわからない。


 ふと、サイレンの音が聞こえた。回転灯を光らせたパトカーが、こちらと反対側の車線を走っている。


「警察にも、他殺だと報せた方がいいですか?」


 リレンの様子を窺ってみると、回転灯に照らされた顔は歪んでいた。


「警察は、このことでは頼りにならないわ」


 表情をまざまざと浮かばせる光は消え、どんな顔をしているのか見えないまま、リレンは溜息交じりにそう言った。


「これっていうのは、自殺のことですか?」

「そう、自殺のことよ。報道されないだけで、事件は多く起きている。警察側からすれば、自殺で扱える事件は自殺にした方がやりやすいのよ。

 私の存在が証明ね。警察がそんな状態だから、私のやってる自殺判断が、噂で広がる程度には話題になってしまう」


 確かにリレンの言う通りだ。自殺判断を頼むときの心理として、僕を例に取ってみれば、まずは、自殺者が本当に自殺したのか疑わしいから調べて欲しいと思う。


 それはつまり、警察が自殺という判断をしても、その結果に納得がいっていないということになる。そして、そういった事例が多いために、リレンのことが都市伝説という形で広まっていった。


 世の中には様々な自殺の仕方があるのだと思う。普通に生きているだけでも、死ぬ方法は多く身につくのだから。


 人が死ぬのは簡単だ。僕がここから車道に飛び出すだけでもできる。


 重々しい死の印象に対して、死の訪れがあまりにも呆気ないから、人は不審がるのかもしれない。


「あそこのコンビニかしら?」


 リレンの声で我に返り目線を辿ると、少し離れたところにそれがあった。


「はい。あれです」


 駐車場には車が何台か止まっている。僕は、客のいないコンビニというのを見たことがない。


 自動ドアが開く。店員の挨拶とチャイムの音が鳴る。いつも通りだ。そう、自分に言い聞かせる。なにも変わっていない。僕は、目を逸らそうとしていた。


 決心は、まだ強く固まってはいなかったらしい 。


「店長はいますか?って、海美(みみ)か」


 ちょうどレジにいたのは、幼馴染の海美だった。中学からの幼馴染で、悠と同じような関係だ。海美は演劇部に所属していて、長い髪を黒い髪留めで束ねている。化粧っ気はないが、容姿は綺麗より可愛いというのに当てはまるだろう。


「お客様、どうかされましたか?」


 学校でも会えば話す程度だが、彼女は僕を知らないというような雰囲気で、「お客様」と呼んだ。


「え? 海美? 焦斗だけど」

「お客様、御用があればお申し付けください」


 周りに客は少なく、まだ目立つようなことにはなっていないが、海美はふざけているのかとでも思った。似た姉妹がいるんけでもないから、彼女は海美本人でしかあり得ない。


「もしかして……」

「どうかしたの? 知り合いみたいだけど」


 ふと理由が思いついて呟くと、リレンがそれを聞きつけた。


「海美は、兄のことが好きだったんです。ここでバイトを始めたのもそれが理由で。もし、兄のことが耳に入ったのなら」

「気が狂ってしまったってわけね」

「そこまで言わないでください」


 好きな人を喪ったというのは、僕には想像できない。兄のことは好きだが、海美が抱いていたものは、その感情とはまた別だ。


「お客様、なにか御用があるわけでは?」

「なら、私が聞くわ。市崎幹人について聞きたいのだけど」

「……幹人、さん?」


 リレンの言葉が届くと、海美はそのまま固まった。しかし、全てが固まったわけではない。目だけが揺れ、そして涙が伝う。


「……焦斗?」

「ああ、そうだよ。気づいたのか」


 海美はハッとすると、目元を指で撫でたが止まらず、慌てて服の袖で拭った。バイトの制服だったが染みは目立たない。


「ごめんね。わたし、幹人さんに言われて。そうだ、幹人さん! 幹人さん、死んじゃったの……?」

「……ああ、死んだ」

「……本当、なんだ。そっか。そう、なんだ。あ……焦斗は、大丈夫なの?」

「僕は大丈夫。今日は、店長さんに挨拶しようと思って」

「……うん、わかった。店長さんに伝えてくるね。すみません、レジお願いします」


 海美はレジにいた大学生くらいの男性に頼むと、反応も待たずに奥へ向かった。男性はこちらの様子を窺っていたようで、やれやれといった態度でこちらへ近づいて来た。


「初めまして。幹人さんの弟くん?」

「はい。あなたは?」

「見ての通りバイトさ。幹人さんには、お世話になったんだ。僕だけじゃなくて、皆ね。幹人さんは君のことも、よく話していたよ。お悔やみ申し上げます」

「ありがとうございます。兄は僕のことをなんと?」

「可愛い弟だってさ。目に入れても痛くない、なんてのが冗談だとは思えないくらいにね」


 兄は、僕のことをそこまで。いや、わかってはいた。信じられないのは兄ではなく、兄に愛されていた僕だ。


「話したいのは山々なんだけど、仕事中だから悪いね」


 僕らの側にあるカウンター上に停止中の看板を置き、彼は反対側のレジへ戻っていった。


「あなたのお兄さんは人望があるのね」

「当然ですよ。僕は兄より優しい人を知りません」


 家族として誇らしい。そんな兄だから、僕は両親がいなくても生きてこれたんだ。


「兄弟とはいえ、他人にそこまで言わせるような人、一度会ってみたかったわね。吸血鬼に会ったらどうなるのか、興味がある。あら、戻ってきたみたいね」


 奥の方から海美が戻ってきた。ちょっと早足だ。


「店長、時間とってくれるって。仕事があるから、あまり長くはできないらしいけど」

「充分だよ。事前になんの連絡もしてなかったし、話せるだけで」

「そう、なら良かった。ところで、後ろの綺麗な人はお客様ですか?」

「いいえ。私も幹人さんの知り合いで、安心して、交際はしてないから」

「いえっ、そんなことは考えてません! 焦斗と一緒にいるなら安心ですね。奥にどうぞ」


 導かれるまま、レジの裏側へと向かう。ふと気配を感じて男性バイトの方を見ると、彼は小さく手を振ってくれていた。軽く礼をして、そのまま進む。


「ああ、君が弟くんだね」


 少しして、声が掛けられる。前に四十代くらいの男性が立っていた。肉付きがよく、BMI指数が標準でも太っていると言う同級生たちとは違い、本当に太っている。


 醸す雰囲気は穏やかで、勝手にO型なんじゃないかと思った。


「はい。事前に連絡もせず、すみませんでした」

「気にしないでいいですよ。ただ、どうしても気になるという人もいるだろうから、気をつけるといい」


 命令するようではなく、諭すというのに近いと思うが、指摘の仕方が不快に感じない。


「すみません。これからはそうします」

「うん。……お兄さんのことは残念だった。彼が自殺したなんて、まだ信じられないよ」

「やっぱり、そうですよね」


 僕の言い方が気になったのかもしれない。店長は眉に微かな反応を出して、訊ねてきた。


「なにか、気になることが?」


 念のためにリレンを窺う。顔を見上げると、気づいた彼女は口角を薄く釣り上げ、目尻を下げて頷いた。


「実は、兄が自殺した理由がわからないんです。遺書もなくて。納得ができないから、今日は店長さんのところへ、なにか思い当たることがないかと伺いに来ました」

「なるほど。少し込み入った話になりそうだ。部屋で話そう」


 そう言った店長に案内された部屋には、長テーブルがいくつか点在し、その前に椅子もあった。リュックや鞄も、少なくではあるが放り出されたようなものを確認できる。


「さあ、座ってくれ」


 促され椅子に座る。パイプ椅子のクッションは、申し訳程度の柔らかさしかなかった。


「さて、話をする前に、君の名前を聞きたい。彼は弟とばかり言っていたから、名前くらいはね。私のことは、店長だと呼んでくれればいいよ。ここでは呼ばれ慣れてる」

「わかりました。僕は幹人の弟で、焦斗といいます」

「そうか、焦斗くんか。……彼は口を開けば、いつも君のことを話していたよ。仕事も熱心で、『弟のためですから』って口癖は、ここで働いている子なら皆が知っている」


 兄さん……。やっぱり、僕は兄の(かせ)だ。何度も他人に否定されて、自分でも否定した。兄が殺されたということも判明した。それでも、兄の嘘偽りのない言葉や感情が、僕の心を突き刺す。


 ただ、自分を責めたいだけなのかもしれない。姿の見えない誰かに恨みを抱き続けるよりも、正体のわかる自分を責める方が楽だから。それに、自分に責任がないと思うのは悪だと、そういう思いもある。


 多くの理由が、僕の感情に(とげ)を刺し針で貫く。しかし、考えてみればそのほとんどが、僕の勝手な憶測や思考による自傷行為だというのには、なんとも言えなくなる。


「気に病むことはないよ」


 黙り込んだ僕に気を遣ったのか、店長は穏やかな声で言った。


「幹人くんがそう言っているときの顔は、とても満ち足りていた。私はこう思ったよ。彼にとって、君は()甲斐(がい)。そして、生きる理由だった。もし君がいなければ、それこそ幹人くんは死んでいたかもしれない。もっと早く……ね」


 落ち着いた声だった。冗談などではなく、心の底からの声に聞こえた。


 よく見れば、彼の髪には白髪が混じっている。大らかそうな見た目だが、気苦労も多いのかもしれない。僕からすると、気を遣いすぎているのではないかと思う。反面、それに救われるのも確かだ。


「それなら、兄が死んだのはなぜだと思いますか? 僕はまだ生きているのに」


 本当は殺されたということを知っている。それはあえて、口には出さない。リレンがなにも言わないからだ。 なにか指示が出るまでは、迂闊(うかつ)なことは言わない方が良いだろう。


「はっきり言うと、全くわからないんだ。期待に添えない言葉で、すまないね」


 彼は首を前にうなだれながら言った。彼の頭に届くわけでもなく意味はないが、咄嗟(とっさ)に両手が前に出た。


「そんな、謝らないでください! 店長さんはなにも悪くないですから」


 僕がそう言ってもなお、店長は時計の針が何回か音を出すまで首を戻さなかった。


 僕はリレンを見上げた。彼女が白く細い首を傾げ、僕はそれに頷いた。


 もう、僕が質問できることはない。さっき会った店員さんも店長さんも、兄くらいに人がいいことはわかった。コンビニに兄が死んだ理由はない。そう判断するのには十分だった。


「店長さん、次は私から質問をさせてもらうわね」

「ええ、それはいいのですが……失礼ながら、あなたは焦斗くんとどういう関係ですか? 幹人くんの家族は、焦斗くんだけだと聞いていたのですが」


 今まで訊かれなかったが、気にしてはいたらしい。フォローを入れようとしたのに、リレンは先に答えてしまう。


「私は幹人と同じ大学の先輩です。彼とは懇意にしていたのですが、残念なことに。私も彼の自殺原因が気になり、焦斗くんと一緒に調べているのです」


 余所行きの態度とでもいうような敬語を使い始めるとともに、右腕を目のあたりに当てて、いかにも泣いているようなアピール。


 彼女は悪い人だ。わざわざ素性を隠す必要もないのに。いや、でも、彼女が探偵だと言ってしまえば、犯人に疑っていることがバレるかもしれない。


 一分(いちぶ)の可能性もないが、仮にこの人が犯人だとしたら、探偵と一緒にいることがわかれば警戒はするはずだ。


「なるほど、そうでしたか。御愁傷様です。幹人くんとは……いえ、詮索はやめますか。どうぞ、聞きたいことがあれば」


 兄とリレンが恋人だと思ったのかもしれない。リレンは四百歳と自称した割に、二十歳でも通じる容姿の持ち主だ。

 大人びてはいるが、兄の先輩だという設定なら、そう思っても仕方ないのかもしれない。


「それでは、聞かせていただきます。幹人くんが自殺した日、一昨日ですね。幹人くんはバイトには来ていましたか?」

「いや、その日は休み……そういえば、少し前から彼の様子はおかしかった」

「なにかあったんですか!?」


 店長さんの言葉に、思わず口を挟んでしまう。僕の前では、兄の様子に変わったところはなかったはずだ。


「大したことじゃないかもしれないけど、その日とその三日前くらいからシフトを入れていなかったんだ。最近、幹人くんはバイト中にミスが多くなっていてね。疲れているんだと思って、私が勧めたらすんなりと承諾したよ」


 必死だったはずの兄が休むだろうか。確かに、兄だって普通の人間である以上、休息は必要ではある。しかし、僕が抱く兄の像とその行為は合致しない。それは、店長さんの抱いた様子がおかしい、という感想も後押ししている。


「焦斗くん、お兄さんは具合が悪かったの?」

「いえ、少なくとも僕の前ではいつも通りでした」

「そう」


 僕はなにも気づいていなかったのか? 自然と落ちた視線がテーブルに向く。電灯を反射させるスチール製の机は、とても冷たそうで。ぼやけながら映った僕の顔は、目の下に隈があり憔悴して見える。


「では、あまり考えられませんが、幹人くんを恨んでいるような人に心当たりはありませんか?」

「なぜ、そんなことを?」

「もし、幹人くんに暗い気持ちを持っている人がいれば、悪質なことをして困らせた可能性もありますから」

「それを苦にしてというわけですか。ですが、やはりあなたの予想通り、そんな人はいませんよ。

 コンビニには、クレーマーが多いところもあるのですが、この店では少ないですからね。特に、幹人くんが対応してクレームが起きたことなんてありませんから。彼は本当に優秀でした。太陽のような、とは言い過ぎですかね」


 僕は店長さんの言葉に、内心で首を振った。僕も兄は太陽のような人だと思ったことがある。兄さんと一緒にいれば、日陰にいても温かそうだ。

 

「そうですか……。わかりました。いろいろとありがとうございます。これくらいで引き上げますね。焦斗くんは他に質問ある?」

「え、いえ、ないです」


 心構えもなく話を振られて、少し肩が跳ねた。店長さんは気づいたらしく、声を出さずに表情は笑みだ。馬鹿にするようなものではなく、柔和な笑みで、やはり優しい人だと思う。


「じゃあ、僕たちはこれで。なにか思いついたことがあれば、教えてくれると嬉しいです」

「うん。幹人くんに家の電話番号を聞いていたから、そっちに掛けるよ」

「お願いします」

「反対に、私にも理由がわかれば教えてほしい。無理にとは言わないが、できれば」

「はい」


 僕は、できるだけ真摯(しんし)に見えるよう心掛けて返した。この人に不誠実な態度は取りたくない。


 この場所には、兄に対して好意的な人しかいなかった。そもそも、このコンビニの人たちが優しいというのもあるだろう。だが、ここを選んだのは兄であるから、兄は人を見極めるのがうまかったのかもしれない。


「お忙しい中、ありがとうございました」

「こちらこそ、来てくれてありがとう。もしも、バイトをしたくなったら、歓迎するよ。いつかまた、幹人くんのことを話そう」

「はい。お願いします」


 礼をして、踵を返す。そこで、後ろから思い出したような店長さんの声が聞こえた。


「なにか?」

「いや、忘れていたけど、海美さんに伝えて欲しいと頼まれていたことがあった。彼女、最初は君のことに気づかなかったんだろう?」


 そういえば、リレンが兄の名前を出すまで、海美は僕のことをお客様として扱っていた。


「バイトを始めた頃、海美さんはなかなか上手くいかなくてね、そんなとき幹人くんがアドバイスをしたらしい。仕事を頑張るんじゃなく、完璧な店員を演じればいいってね。

 演劇部だからなのかな、彼女はそれ以来、しばらくしてからは完璧な店員になっていたよ」

「それが、僕がお客様になったのとどう関係しているんですか?」

「完璧な店員は、完璧な店員であって海美くんではない、ということらしい。私にもよくわかってないよ。ただ、完璧にバイトをしているときの彼女は別人ってことだ。そのときの記憶はあるけど、スイッチが切れるまでは友達でも『お客様』にしな見えないらしい」

「そうなんですか」


 僕にもよくわからないけど、ただ、兄の影響なのはわかった。海美は兄のことが好きだったから、その言葉も心に刻まれたのだろう。多分、悪いことではないと思う。それに、兄は僕だけじゃなく、他の人の記憶にも残っているのだというのは、少し安心する。


「そろそろ私も仕事に戻らないと。悪いね」

「いえ、本当にありがとうございました」


 もう一度、礼をして踵を返し、次こそ帰る。今日ここで聞いた話を反芻(はんすう)する。


 誰も兄のことを嫌ってなんかいなかった。間違いない。

 なのに、殺された。喜ぶ人よりも悲しむ人が多いと、犯人は気づかなかったのだろうか。それとも、そこまでひどく兄を嫌っている人がいるのか、あるいは殺したことに理由なんてないのか?


 いや、どっちでもいいか。ただ、探すのが難しいだけ。僕は犯人を許さない。その事実は変わらない。


 兄の仇と言ってしまえば、多分、兄はそんなことを望んでいないと、身の回りの人は説得するだろう。だが、僕にはもう兄しかいなかったのだ。叔父はいる。友達もいる。それは、確かに実感した。殺意もぶれた。


 だけど、ぶれたときに気づいたのだ。それでも、完全には消え去らない自身の殺意に。


 僕の中を占めていた兄の存在は、何事にも変え難いものだった。


 押し寄せた虚無感。両親が死んだときだって、ここまで強い感情は抱かなかった。死に慣れ、悲哀の感情が薄れた僕にあったのは、強烈な物足りなさ。


 その虚無感を埋没させるために、無意識下でそれを殺意に置き換えたのかもしれない。


 そうでなければ、これほどまでの殺意を、平穏無事に過ごしてきた僕が持つはずない。


「話は終わったんだね」


 レジまで戻ると、いつもの海美が出迎えた。お客さんたちは分散することなく、なぜか大学生の方に並んでいる。海美がなにかやらかしたのか?


「ああ、終わったよ。海美は兄さんの言葉を基に、頑張っているんだな」

「うん。幹人さんは優しくて、助けてくれて、本当に凄い人だった。いつか、わたしも幹人さんみたいな人になれたら、って思うよ」

「いいんじゃないか。きっと、兄さんも喜ぶよ」

「そう、かな。じゃあ、まずは焦斗を励まさないとね」

「いいよ。僕は大丈夫だって。だから、海美は違う誰かを救ってよ」

「……そう、言うなら。うん。わかった。じゃあ、また学校でね」

「ああ、また」


 レジから出て、コンビニも出る。最後、海美が寂しそうな顔で手を振るのが、頭に残った。



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