1-3
「なるほどね」
僕から一通りの話を聞いた彼女は、そう呟いた。
「話だけでは、自殺のように思えるわね。わかった。依頼を受けるわ。でも、詳しく調べる必要がありそうね。メア、頼める?」
「うん、任せて。いつも通り頑張る」
二人の会話が、どういう意味を持っているのかよくわからない。
「あの、メアさんが調べるんですか?」
てっきり、リレンが調べるのだと思っていた。見た目からも、リレンの方が年上で、態度からも彼女が探偵なのだと勝手に考えていた。
「私、夜行性だから。吸血鬼は日の光で灰になるなんて話もあるけど、私は体調が悪くなるくらいね。
そう考えると、私は血を飲む生物ではあるけど、厳密には吸血鬼ではないのかもしれない。私が持つ要素は不老不死だってことと、血を飲まないといけないってことくらいだからね」
十字架やにんにくも効かないのか。多分、そうなのだろう。しかし、彼女が仮に吸血鬼なのだとしたら、どうやって生まれたのだろう。
吸血鬼は空想上の存在だ。人の進化として生まれたのか、なにもないところから生まれたのか、祖がいなければ子孫もいないはず。
「吸血鬼はリレンさんだけなんですか?」
「ああ……そうね。今は、他の吸血鬼を知らないわ。メアも人間でね、拾った子なの」
「そうなんですか」
確かにメアの瞳は黒だし、人間と変わらない。ただ、仮に彼女が吸血鬼だったとしても、違和感はない。
「それじゃ、二人には君の家を調べてもらうわね。私はまだ出歩けないから、頑張って」
「はい、わかりました。メアさん、よろしくお願いします」
「よろしくね」
目を細める彼女は綺麗だ。これだけ美人な人が二人もいると、自分がいるのは異世界なのではないかと、浮世離れたような感覚が生じてしまう。
そんなことを考えていると、メアに急かされたため、僕は黒い扉を押し開けた。
暗い家から出ると、外は普通に夕陽が世界を染めていて、まるで異空間から脱出したような感慨がある。ホッとしたような、残念なような、不思議な感情が浮かんだ。
「さて、行きましょう? 焦斗くんは自転車?」
「はい。少し離れた場所なんですが、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
それから、家に向かうことになった。その途中、徒歩でなく自転車だったことが本当に良かったと思う。
僕が先導し、彼女があとをついてくる。なのだが、メアを視界に入れた大抵の人が、一度は目を止め彼女に注目するのだ。
メアはなんともないように装っているが、僕にはとても耐えられない。人々からの視線が羨望のものとはいえ、見られることには慣れなさそうだ。
彼女の格好は、最初に見たときと同じく黒いワンピース。そして白い小さなショルダーバックを籠に入れている。最近は気温も高く盛夏に程近いが、ワンピースだと自転車の風は、まだ肌寒いのではないかと気になる。
考え事は尽きなかったが会話もなく、しばらくして家に着いた。自転車を停め、家に入ろうとしたところで、彼女は僕に話し掛けてきた。
「お兄さんの死体は当然ないよね?」
「はい。だから、調べるっていうのが不思議だったんですが」
「自殺には殺人同様に、動機があるの。私が来た今回の目的は動機探しね」
動機探し。僕にもまだ見つけられていないことであり、同時に兄の死因が他殺である疑いを持つための根拠。これが見つからなければ、兄が殺された可能性は高まり、見つかれば兄は自殺だ。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、癖で言ってしまった。いつも、これを言うとリビングから兄の「おかえり」という声が聞こえてきたのだ。
「おう、焦斗、おかえり」
「……うん」
兄がいなくても叔父がいる。僕の帰りを待っている人はまだいるのだ。
「お邪魔します」
「ん、誰だ?」
メアの声に叔父が反応する。足音が聞こえ、リビングから彼が出てきた。
「焦斗の彼女か?」
「違うよ。兄さんが自殺かどうか、調べてくれるんだ」
「メアです。よろしくお願いします」
叔父は呆気に取られたような表情を浮かべた。当然だ。見た目は僕とそう変わらない女子が、自殺の調査をするなんて簡単には信じられない。
「まあ、わかった。協力できることがあれば、協力するから言ってくれ」
メアはこくりと頷いた。
「じゃあ、兄さんの部屋からでいいですか?」
「そうね。多分、あなたの兄を一番知ることができるのは、そこだと思うから」
「わかりました。兄さんの部屋は、二階にあります」
二人で二階へと上って行く。一人でも音の鳴った階段が音を鳴らさない。彼女には体重がないのかと不思議に思った。
「ここね」
「はい」
兄の部屋は昨日から変化がなかった。元は机の上に重なっていたのが崩れたらしい、参考書類や教科書類。ベッドのめくれた掛け布団や、机から少し離れた椅子。生きた名残は、まだ消えていない。
「リレン、どうする?」
「えっ?」
一体どこに彼女が? そういえば、漫画では吸血鬼がコウモリに変身するという設定もあった。リレンもそうなのだろうか。
『まずは、そこの参考書ね』
そんなことは全くなかった。もう少しよく考えればわかったものを。メアが鞄に手を入れ取り出すと、タブレット端末が現れた。画面にはリレンが映っている。
「ああ、ビデオ通話ですね」
スマホのカメラ機能を利用した通話方法だ。主に、相手の顔を見ながら話すのに使われる。
『文明の進化には、本当に驚かされるわね。家から出ずとも、他のところに行けるなんて、出歩けない吸血鬼のためのアイテムみたい』
スマホやそのカメラ機能は、決して吸血鬼を考慮して作られたわけではないと思うけど、彼女からすれば確かに便利なものだろう。
『参考書は怪しいと思うの。自殺者には自殺する前に出す幾つかのサインがあるわ。例えば、身の回りを整頓し始めたり、自殺について調べ始めたりね。
自殺が前から計画されていたものなら、そこにあるものになにかメッセージがあるかもしれないわ』
兄の遺書が挟まっている可能性が、無きにしも非ずということか。
僕は机に近づいて、崩れた教科書類の一番上を手に取る。
「あれ、これって」
「どうかした?」
「これ、高校の生物の教科書みたいです」
自分が持っている教科書と全く同じというわけではないが、表紙の装丁が似ている。それに、生物基礎と表記されている。
『どうして、高校の教科書が? 確か、お兄さんは大学生よね?』
「はい。でも、復習をしただけかもしれません。兄さんは様々なことに興味があるみたいでしたから」
時には経営コンサルタントになりたいと言い、またある時は獣医になりたいと言っていた。文理の見境なしだ。
『君のお兄さんは結局どこの大学へ?』
「近場にある医大です。将来は歯科医か獣医の二択で悩んでいたようですが、生物の教科書を読んでいたのなら、獣医なのかもしれません」
僕の印象では、兄の優しさは獣医に向いているように思える。歯医者は子どもに嫌われやすいが、獣医は優しいイメージがある。
教科書を開いてみると、目次が並んでいる。まず、大きな「章」という区切りがあり、その中に細かく「節」という区分がある。
この教科書(平成27年度用教科書、実教出版より)では、一章が「生物の特徴」で、節の名前を見るに細胞について取り扱っているようだ。
二章は「遺伝子とその働き」、習うのは章名の通り遺伝子やDNAについて。三章は「生物の体内環境とその維持」、ホルモンや免疫を学ぶようだ。四章の名前は「生物の多様性と生態系」。聞いたことのないバイオームという単語が節名に出ているが、おそらく二章のように章名通りのことをやるのだろう。
僕が生物基礎の授業でやっているのは、二章の中盤だ。夏真っ只中も近づいている今は、中間テストが終わった頃で、進行スピードとしては妥当なところだろう。
意識を戻し、ページを手早くめくって通し見したが、遺書のようなものは挟まっていなかった。
兄はなぜ、こんなものを見ていたのか。
『なにもないようね』
「はい、残念ながら」
他にも二冊ずつ、ハードカバーの本と参考書があった。
題名を見るに、兄は生物基礎で遺伝子が苦手だったのかもしれない。「エンドウマメの実験」「DNAの話」「大学入試に出る問題BEST1000」「猿でもできる理科単語ラクラク暗記法」
猿でもできるは、誇大広告だろう。ただ、兄がこういう『ラクラク』とかいう言葉に弱いのは知っている。苦手なものなら、特にそうだろう。
兄は努力の人ではあるが、なんにでも全力というわけにはいかない。手を抜けそうな場所は抜く。
今朝の朝食にインスタントのスープがあったのも、兄がその手軽さを好んで買ってあったからだ。
レトルトカレーやカップ麺も好いていた。僕は特に気にならなかったが、思い返すと兄の料理は既製品やインスタント食品も多かったかもしれない。
時は金なりとあるが、兄に必要だったのは確かに時間で、その判断は正しかったと思う。
「全部、なにも挟まってないですね」
四冊の本をひっくり返して軽く振ってみたが、なにも落ちてこない。
「リレン、どうする?」
『一応、念入りに調べてみて。そう広い部屋ではないし、物も少ないからできると思うのだけど』
「わかった。やってみるよ」
メアに対するリレンの口調は、どこか申し訳なさがある。本当は自分で調べたいのだろう。他人を介すよりもその方が、自由に調べられる。それに、メアを巻き込みたくないというのもあるのだろうか。
メアは拾った子どもだと言っていた。血の繋がりもなく、関係性がないメアには、死というものに無闇矢鱈と触れさせたくないのではないか。
拾われたなら、彼女は僕と同じように両親を亡くしているはずだ。
そんな彼女が、その時点で死に対して慣れてしまったとは思えない。だが、自殺の調査をするのなら、多くの死に触れることだろう。そうだとすれば、既に感覚は麻痺しているのかもしれない。
僕は、それがとても怖い。悲しいはずのことを悲しいと思えない。ショックは受けても、涙を流せない。
密接に関係した相手との別れを、あり得ない程に薄れたものにしてしまう。感情を持つ生物が、感情の一部に麻痺をきたし機能しなくなることは、とても怖い。いつか、誰にも興味を持てなくなりそうで。
「じゃあ、私は本棚を見てみるから、焦斗くんは部屋の右側と机を頼んでもいい?」
「はい、大丈夫です」
僕は彼女の方を見ずに返した。彼女が今、死に触れている直接の要因を作っているのは僕だ。
調べに来ている理由は、リレンの夜行性という特性があってのことだが、依頼を持ち込んだのは僕。
ただ、僕が依頼を持ち込むに到ったのは、悠の話してくれた都市伝説が原因で、更に遡れば兄の死。最終的には、兄を死なせたなにかが悪いということになる。
元を辿れば、どこにでも責任転嫁はできる。でも、それはしたくない。理不尽な責任は持ちたくないが、これは僕にも責任の一端がある。
なんとなく後ろめたくなり、僕は彼女の方を向けなかった。
しかし、その意識に気を取られてばかりもいられない。僕は兄の死の原因を探らなければいけないのだから。
最初はなにを犠牲にしても、絶対に全てを明かすつもりだった。なのに、揺らいでいる。
叔父の優しさや、悠の気遣い。僕の周りにはまだ僕のことを思ってくれる人がいる。
なにもかもを犠牲にはしない。むしろ、僕は犠牲を抑えながら調べるべきなのだろう。
決意を新たにして、机を検分し直す。机の上には他になにもない。
ガタつかず滑らかにスライドする抽斗の中にも、特にめぼしいものは入っていなかった。
もうこれ以上は、なにもなさそうだ。僕はベッドの方に手をつけることにした。
兄の部屋は大まかにいえば、西側に本棚、北に机、東にベッドという配置になっている。
本棚は、メアと端末越しのリレンが調べているようだ。ベッドの横に立っていると、背後から物音か聞こえる。
ラベンダー柄の掛け布団に、敷布団はライラック柄。どちらも選んだのは母だ。
兄に花を愛でるような趣味はないが、動物を飼いたがってはいた。兄が布団の柄を選ぶとすれば、掛け布団か敷布団が犬の柄になることは間違いない。
あまり期待せずに、膝を床についてベッドの下を覗き込んでみる。少し暗いが、全て見通すことができた。しかし、あるのは闇ばかりで、虫の一匹さえ見つからない。
「どう? なにか見つかった?」
立ち上がって、ぎこちなく声の方を向くと、片手に端末を持ったメアが首を傾げていた。
「いえ、なにもありません」
兄の死の原因は、なかなか見つからない。ベッド下の闇が思い出される。
『部屋には、なにもないのね。遺族がいる人の自殺なら大抵、遺書が遺されているはず。それがないってことは、衝動的な自殺? それとも他殺?』
マイクの集音は不鮮明で、ブツブツと呪詛のような呟きが聞こえてくる。メアは液晶を見下ろして、リレンの様子を窺っていた。
僕は、持て余した両手を、なんとなくポケットに突っ込んだ。右手がなにか固い物に当たる。なにに手が触れたのかは、すぐにわかった。
それを掴んで右手をポケットから出すと、握られた手から犬のストラップがはみ出していた。
『それは?』
「兄の携帯です」
ストラップのついたタブレット端末はあまり見ないが、兄の携帯ケースはストラップをつけることが可能で、犬の犬種はコーギーだ。
『それは一体どこにあったの?』
「リビングにあるソファの下です」
昨日、リビングで見つけてから兄の友人に連絡した後、僕は兄の携帯を充電して手元に持つことにした。
形見というには、それ程に思いの篭ったものではないのかもしれないが、持ち歩きやすいし、兄とまだ繋がっているような気がした。
SNSで見知らぬ人と繋がるように、兄の携帯を持っていれば、僕の思いも電波に乗って空へ届くのではないか。少なくとも、手紙よりは納得できる。同時に、兄からなんらかの言葉が届くことも、あり得ないことだと知りつつも、心のどこかで期待している。
『それに違和感は感じなかったの?』
「それっていうのは、どういうことですか?」
携帯がまだリビングに残っていたということだろうか。
『よく考えてみて。携帯が、一体どうしたらソファの下に入るのかしら?』
「あっ」
今頃になって、その不自然さに気づいた。
「そういえば、自然にソファの下に携帯が滑り込むなんてことないですよね」
携帯がソファの下にある理由として考えられるのは、誰かが故意にソファの下に携帯を置くか、床を滑らせるかの二つだ。
このことが指し示しているのは……。
『どう考えても、〈誰か〉に見つからないようにするためとしか思えないわね』
リレンの言う〈誰か〉とは、つまり兄の近くに人がいたということだ。兄はその人に見つからないように、携帯を隠したのだろう。
『なにか、メッセージはない? メモアプリや、SNSになにかが』
僕は手に持った兄の携帯に目を落とす。ここに、なにかメッセージがあるのか?
まずは、メモを一通り見てみる。買い物のメモだったり、家計簿だったり、生活の記録が残されていた。しかし、めぼしいものはない。
次にチャットアプリを開き、チャットを送る画面を見てみる。トーク履歴は上から順に、僕がメッセージを送った兄の友人で埋まっている。
そこで、もしかしたら、と気づいた。
履歴をしばらく遡っていくと、兄が僕に送った数日前のメッセージが表示される。そこをタッチすると、僕と兄のチャット画面が開いた。
最後にした僕と兄とのチャットは、週刊誌についての話だ。毎週決まった曜日に発売する少年漫画誌。先週は、兄が買い忘れて僕が買った。
改めてチャット画面を見ると、そこには未送信の文字が打ち込まれていた。
あるのは、たったの一文。そのたった一文を読んだ僕の手から、携帯が滑り落ちた。
ゴトンと音を立てて、床にその身をしたたかに打ち付けた携帯は、メアに拾われる。
彼女はすぐに、画面に気づいたようだ。
身体が震え、膝が崩れる。なぜ、なぜ? どうして。一体、誰が。
「これ……」
メアが眉を顰めながら、兄の携帯画面をリレンに見せる。見せられた彼女は、ハッとしたような表情を一瞬浮かべてから頷いた。
『どうやら、君の兄は最期のメッセージを託そうとしていたようね。残念ながら、犯人には見つかってしまったようだけど』
兄が僕に送ろうとしていた最期のメッセージ。それは、確かに犯人の手によって編集されてしまったのだ。
未送信のメッセージはこうだ。
『○○に殺される』
犯人の名前の部分だけが、○二つで隠されていた。しかし、これは兄が殺されたという証明であった。
「リレンさん、自殺判断はもういいです。その代わりに、この事件の犯人を見つけてください」
ここに至って気づいた。リレンが自殺判断だけではなく、探偵紛いのことをしている理由は、僕のような人が多いからに違いない。仲のいい人が殺されたと知ってしまったら、その犯人を知りたいと思うに決まっている。
『君は犯人を見つけて、どうするつもり?』
リレンが映る液晶パネルに目を向けると、彼女は真剣な表情を浮かべていた。
殺したい。犯人を許せない。僕の中にある憎悪の業火には、僕を縛る十字架の鎖を焼き切るほどの勢いがあった。
嘘をついても見抜かれそうな気がして、僕は本心を曝け出すことにした。いっそ、口にしてしまった方が、いくらか気が楽になるかもしれないとも思った。
「犯人が見つかれば、その人を殺すと思います」
『そう……』
リレンとメアは僕のことを止めようとするだろう。僕が焼き切った十字架の鎖に、彼女らは成り代わろうとするはずだ。しかし、返ってきた答えは違った。
『わかった。君の依頼を引き受ける。ただし、もらう血の量は増えるわよ』
「え?」
『どうしたの?』
「いえ、止めないんですか?」
止めると思っていた。彼女は抑止力となるために、僕の側にいるのだと考えていたから。
『止めはしないわ。私は人じゃない。だから、人の道徳なんてものを遵守するつもりはないの。
それに、私の仕事は自殺判断と犯人探し。君が犯人を殺したとしても、その事象は既に私の手を離れたことだもの』
「つまり、僕が犯人を殺しても、リレンさん達には関係ないからってことですか?」
『そういうことよ』
リレンの言葉に、メアはなにかを言いかけたが、結局は飲み込んでなにも言わなかった。
メアは人だ。吸血鬼ではない。彼女には人間の道徳があり、倫理観があり、それを守ろうとしている。リレンは、メアのことを気にかけていないのか?
だが、それこそ無駄な思考だ。彼女らの関係が、僕に影響を及ぼすとは考えられない。
「わかりました。犯人は殺します」
『そうしたらいいわ』
リレンは笑みを浮かべていた。人を惑わすような、妖しい笑みを。
『さてと、犯人探しのあてはあるのかしら?』
仮面を付けかけるように、笑みを消したリレンが問う。犯人に繋がる手掛かりは、今のところ全くない。ただ、兄という人物を知るための場所なら、いくつかある。
「兄はコンビニでバイトをしていました。そこの店長なら、なにか知っているかもしれません。
あとは大学ですが、これは兄のSNSアプリから連絡を取れば、なんとかなると思います」
大学についてはあまり期待できない。昨日、メッセージを送ったときも、全員がなぜ?という疑問を出してきた。そんなの、こっちが知りたい。
『そう。それなら、大学の方は任せるわ。コンビニはそこから近いの?』
リレンが「ここから」と言わず、「そこから」と言ったのは、あくまで彼女がタブレット越しにいるからだろう。だが、存在感が大きいからか、僕には彼女がこの場にいるように感じてしまう。
「そうですね。兄は僕に配慮したのだと思いますが、ここからは歩いて二十分と掛かりません」
やはり、僕は兄の足枷になっていたような気がしてならない。兄は近くのコンビニで働き、この失月市内の大学に入学した。
そこまで兄を繋ぎ止めていたのに、僕は兄を生に縛り付けることができなかった。
……生に縛り付ける?
「リレンさん、吸血鬼は不老不死なんですよね?」
『ええ、その通りよ』
僕の中を過った考えは、もしかしたら成功するかもしれない。
「それなら、兄を吸血鬼に──」
『残念ながら、それは無理なの』
「え?」
彼女は僕がなにを言うのか、先を読んでいたらしく、僕はその言葉に、打ちのめされた。思ったよりも、期待していたらしい。兄が蘇るのではないかと。
『吸血鬼に血を吸われて殺された人が吸血鬼になるという話は、フィクションの中ではあるわね。
でも、私の場合は違う。もしその通りなら、今頃この世界には大量に吸血鬼がいるに違いないわ。
もし、私が普通の人を吸血鬼にするのなら、大前提として、その対象が生きている必要があるの』
「どういうことですか?」
生きていなければ吸血鬼になれないというのが不思議だ。吸血鬼というのは、ゾンビみたいなものだと思っていたのに。
『……隠すことでもないわね。普通の人を吸血鬼にするには、吸血鬼の血を対象に送り込めばいいの。そして、その二種類の血が混ざり合うと、性質の強い吸血鬼の血が人間の血を侵食していく。
さっきの遺伝子の話なら、現れやすい顕性と現れにくい潜性の性質みたいなものね』
遺伝子は生物でも学習したところだったため、僕にとってはわかりやすい。子どもには両親の遺伝子が引き継がれるが、その際、遺伝子として引き継がれやすい身体的特徴は決まっているとの話だった。
『人間の血が侵食されきると、全ての体内血液が吸血鬼仕様に変換されて、その人は吸血鬼になるの。
なぜ、対象が生きていないといけないのか。それは、死んでいれば血が混ざり合わないからよ。生きている人間は、心臓が動いている。人間の心臓が、体内でポンプのような役割をしているというのは、きっと学校で習っているでしょうね。
つまり、血液が流動していないと、二種の血は混ざり合わず、ただそのまま水と油のように内在しているだけなの。これが、対象は生きていないといけない理由よ』
それなら、兄が再び動くことはもうないのか。死んだ人間は、どうやっても。
「わかりました。……変なことを言って、すみませんでした」
『気にかける必要はないわ。ほとんどの依頼者は、同じことを言うの。それが正しいことかもわからずにね』
「え? それってどういう……」
『あら、もう空が暗いわね』
リレンと言葉が被った。リレンがタブレット越しに見ている窓の外は確かに暗く、世界が闇に紛れようとしていた。
『メア、交代しましょう。今からそっちへ行くから待っていてね?』
言葉が終わるのと、ほぼ同時に画面が暗転した。部屋の中も薄暗くなったため、電気を点けると、蛍光灯は明滅を繰り返している。
「これ、電球がきれているわけじゃないんですけど、大分前からこうなっているんですよ」
意味のない言い訳をすると、メアはなにも言わずに頷いた。
「このあと、リレンがくるから、あとは二人でお願いね」
「はい。メアさんもお疲れ様です」
メアはまた頷いた。もう、僕とは話す必要がないということだろうか。
窓から外を眺めていると、街灯が点き始めていた。夜が始まる。灯りは道標のように広がっていく。
やはりメアとの会話はないのだが、気まずさはなかった。ただ、兄を殺した犯人を考えるだけ。
そうして時間は経過していたのだが、唐突に窓を叩く音が聞こえた。風の音かと思ったのだが、それにしては規則的で不自然だった。
僕は窓の方を向いた。目線の高さが大幅に降りる。腰が崩れたのだ。メアの方からは、押し殺すような笑い声が聞こえてくる。初めて、彼女の年相応な反応を見た気がした。
それから、意識を窓に戻す。リレンがいた。僕とメアがいるのは、二階にある兄の部屋だ。窓の外にはベランダがあるものの、そこへどのようにして現れたのか。
彼女は月を背にして、悪戯っぽい笑みを浮かべながら窓を叩いていた。
ホラー映画のワンシーンにでもできそうだ。そこに、トルマリンのような彼女の赤い瞳も加われば、さらに恐怖が増したのかもしれない。しかし、今の彼女はどうしてなのか、目が黒かった。
「窓を開けて?」
僕の代わりにメアが窓の鍵を外した。室内にリレンだけでなく、光に導かれた蛾も入ろうとしてきたが、リレンが腕を振ると風圧で外へ戻っていった。
「驚かせてごめんなさいね」
リレンが申し訳なさそうに首を傾げて、手を差し伸べてきた。本当にそう思っているのかはわからないが、厚意は受け取ることにする。
触れたリレンの手は、とても冷たかった。
「なぜ、窓から来たんですか?」
「君のその冷静さ、私は好きよ。君の現状を思えば当然かもしれないけれど」
「質問に答えてください」
「あとで説明するのが面倒だから、手早くしたの。私の身体能力の高さについてね」
それの意図することを察して、ベランダに出てみる。梯子や脚立のようなものはないし、ロープなどもない。なにか道具を使ったわけではないようだ。
しかし、そもそも、ビデオ通話がきれてから経った時間が不自然だった。
僕とメアが自転車をここまで漕いできた時間と、リレンがくるまでの時間が開き過ぎている。
僕とメアが掛けた時間は二十分程度。対して、リレンが掛けた時間は、その半分から半分以下といったところだろう。
「走ってきたんですか? それとも飛んで?」
「君は本当に冷静ね。その二つを合わせたようなものよ。屋根の上には信号がないの」
「信号はないでしょうけど、目立つんじゃないですか?」
「黒い服なら、君が思うより目立たないものよ」
リレンの着ている服は、変わっていない。黒いローブのような、ゆったりとしたものだった。
僕の家があるのは住宅街の中だ。それなら、屋根を走ってくることは可能か。
「いつも、そんな風に行動しているんですか?」
「いいえ、今は特別。君に私の身体能力の高さを見せたかっただけなの。
私は嗅覚と聴覚も、人間に比べれば優れているわ。探偵稼業についてはそれらを使っていて、これが説明したかっただけよ」
リレンが屋根伝いに僕の家まで来た理由には、二段階の説明を要するらしい。
まず、リレンは僕に身体能力の高さを見せつけるため、屋根を伝った。なぜ身体能力の高さを見せつけたかったのかといえば、それを活かして探偵のような活動をしているから。
そして、彼女はそれらについて口頭での説明を避けるために、このような実践をした。確かに百聞は一見に如かずとは言う。僕が彼女に言葉で説明されたとして、証明なくして信じることは難しかっただろう。
彼女がこの手段を取ったのは、過去に説明をして、信じられなかった前例を経験したからなのかもしれない。
「わかりました。あなたの能力を信じます」
「そう、よかった。前提は大切だからね。ところで、電灯が点滅しているけど、取り替えないの?」
「取り替えても意味がないんです。大分前から、こんな感じで」
「なるほどね」
そうは言いながらも、彼女は電灯から目を離さない。いくら見ても無駄だ。どこが壊れたのかはわからないが、以前、電器屋に修理を依頼しても治らなかった。
「じゃあ、リレン、私は帰るね」
「ええ、わかったわ。送らなくていい?」
「もう子供じゃないから。危なくなったら、大声で呼ぶよ」
冗談かと思ったけど、リレンにはその声が届くのだと思い直した。扉を出る前に彼女は振り向き、僕の方を見て言う。
「お兄さんを殺した犯人、リレンならきっと見つけてくれるからね」
励ますようではなく、確信めいた表情だった。
「はい。今日はありがとうございました」
「うん。頑張ってね」
扉が開くと、廊下も闇に浸されていた。メアがその中に足を踏み入れると、彼女の足が幽霊のように白く浮かぶ。階段はやはり音を立てない。
「さてと、まずは、コンビニに行きましょうか」
「そうですね」
叔父に外出すると告げて家を出る。叔父はリビングにいたので、リレンの姿は目に入らなかったようだ。
外にはもう、メアの自転車がなく、彼女の存在が夢や幻の類に思われた。ただ、部屋にいるリレンの存在が、それを否定していた。




