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吸血姫は死を嫌う  作者: 天木蘭
四章.罪と真実の帰結

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4-5

 翌日、僕は退院をして帰宅した。土曜日になってしまったため、学校は休みだ。リレンの家に行くべきか考えたが、自分がこれからどうするか、まだ答えは思いついていない。


 リレンも待ってくれるはずだ。もしも、僕が答えを出せなかったら、彼女を頼る。それは、リレンの言ったことだ。


 有意義とは言えないが、作られた休日の二日間は、いろいろなことを考える時間にする。いくつかの謎の、答えは出た。一つのことだけを考えていたはずなのに、脇道に逸れてしまったような気もする。その答え合わせも、リレンとしたい。


 しばらくの間、交錯した糸を解いたり、結んだりと、気の抜けた状態で考え込んでいると、インターホンが鳴る。滅多に鳴ることがなかったはずのそれは、最近になって殊に働いている。それでも、ブレのない音は、僕と違って自分に自信を持っている気がした。


 玄関まで行って、誰が来たのか確認すると、玲さんだった。


「良かった。今日は、いたんだな。焦斗、悠のことを知らないか? あいつ、家出したみたいなんだ。

 ……訳がわからないと思うかもしれないが、俺もまだ、よくわかってない。なんの前触れもなかったし、どこに行ったのかもわからないから、もしかしたら誘拐されたんじゃないかと不安で」


 ドアを開けると、手振りを加えながら、玲さんが言う。優しい人だ。この人も、僕の兄なんだな。


「すみません。わからないです。僕も、探してみますね」

「そうか。……焦斗の家にもいないのか?」

「はい。なんなら、調べてみますか?」

「いや、疑っているわけじゃないんだ。ここにいなかったら、俺も頭打ちで。……焦斗、なんか変わったか?」

「いえ? 普通だと思いますよ。悠がもし見つかったら、連絡します」

「ああ、済まない。そうか。もし、お前も困ったことがあれば、俺に相談してくれ。幹人みたいに、知らないうちに誰かがいなくなっているなんてのは、もう嫌なんだ」


 僕が頷くと、玲さんは腰を曲げて礼をした。誰も、誰かを失いたいとは、思っていない。


 ドアを閉めると、階段を登る。どうしても消えない軋み音が、ミシミシと食い込むように鳴った。


 悠が、いなくなったのか。理由は想像できる。僕に嫌われたくないからだろう。リレンから真実を聞いて、僕が嫌うと考えたのだと思う。

 悠は、僕を第一にして生きてきたようだから。心の支えを、失いたくなくて、失う事実と直面する前に、自分から避けようというつもりに違いない。


 人は誰だって罪を抱えていて、いつの間にか償う機会を失うこともある。でも、悠は、救われるべきだ。


 * * *


 数時間ほど経過すると、また来客があった。次は東堂さんだ。唐川さんには、車の中で待機してもらっているらしい。役職では、唐川さんの方が上のはずなのに、不思議だ。


「やっと、解決したようだな。雰囲気が変わっているが、なにかあったのか?」

「一応、いろいろと。唐川さんは、僕と家族に血の繋がりがないことを知っていたんですか? それに、叔父と僕の関係と」

「知ったのか。血縁関係にないことは、警察側の調べでわかっていた。だが、部活をしていたというアリバイで、容疑者からは完全に外れていたから、わざわざ教えることはなかった。知っている可能性と、知らない可能性、どちらも考慮した上での判断さ」


 それは結果的に、正しい判断だった。そのとき僕に伝えなかったから、これだけ遠回りに真実を知り、受け止めることができたから。もしも、あの場でその真実を知っていれば、それを兄の死に繋げることもなく、ただショックを受けていただろう。


「ん、待てよ。俺は、今、初めて理解したのかもしれないが、叔父ということは、あの男を両親の兄弟だと思っていたのか? いつもおじさんと言っていたから、見知らぬおじさんだとか、そういう意味だと思っていたんだが」


 ああ、そこに齟齬(そご)があったから、警察側で、叔父が僕とどういう関係で接していたのか、把握できなかったのか。状況としては、叔父が突然、自首しに行ったわけなのだし。


「いろいろと、誤解があったみたいですね。あとは、リレンさんについて、気をつけろっていうのは、結局どういう意味だったんですか?」


 全てが解決した今、改めてこの質問をぶつけてみる。僕がリレンと付き合う時間も、残りわずかだろうから。


「それは、なにもなかったんならいいだろ。言う必要はない」

「僕はその言葉に惑わされて、いろいろと大変な目に遭ったんですよ? 責任は、取ってもらわないと」


 直接的には関係ないが、広く見れば、間接的にでも関わっていそうな場面はあった。


「そうなのか? それは、悪かった。……謝罪で、許してはもらえないか?」

「無理ですね。銃で撃たれもしたんですよ?」

「うっ。……そうだったな。リレンから報告は受けた。仕方ない。一度しか言わないからな」


 わざわざ前置きなんかして、東堂さんは息を調(ととの)えた。そんなことをしたら、余計に記憶に残るのに。そして、彼は言い放つ。


「あれは、恋愛的な意味だ」

「恋愛的な意味? リレンさんに恋をしないようにってことですか?」

「まあ、そうなるな」


 一体どうして、そんなところに釘を刺したのか。周囲の色恋沙汰にはあまり興味がなかったけど、リレンについては気になる。リレンは、最愛の人をその手にかけてしまった。だからこそ、そんな彼女には、幸せになって欲しい。

 

 独りよがりな思いだけど、本心だ。


「東堂さんは、リレンさんのことが好きなんですね」

「……いや、好きだった、だな。告白したら、吸血鬼だってことや、実年齢を言われて、それを理由に断られた。もちろん、その話を聞いても俺は、吸血鬼だってことも、年齢差も気にしていなかったが、振られたんだ」


 リレンを想う人がいた。それは、不思議な感じもしたが、それは僕が、彼女のことを吸血鬼だと知っているからなのかもしれない。知らない者からすれば、とても綺麗な女性にしか映らない。

 しかし、東堂さんは吸血鬼だと知ってなお、東堂さんのことを振ったという。その理由も、彼女が続ける。


「リレンはな、ある人間に恋をしたらしい。その人が、リレンに無意味な自殺を止めさせて、今の彼女を形作った。リレンの核となった人物なんだとよ。

 それに、リレンは、今でもその人のことを忘れられないようだ。苗字に、三枝というのを使っているだろう? あれは、好意を向けた相手の苗字らしい。だから、俺は諦めたよ」


 リレンが、過去を話す中で省いた部分のことか。彼女の価値観や、探偵紛いのことを勧めたのも、おそらくその男性なのだろう。


 不老不死のリレンは、人と別れるばかりで、永遠が続かない。命だけが、途切れずに進むのだ。想い人はもちろん、すぐ身近にいるメアとだって、いずれは。


「東堂さんは、リレンさんといつからの付き合いなんですか?」


 リレンに警察の情報を流しているのだから、危ない立場の人だが、リレンを信頼しているからこそできるのだと思う。


「昔、俺の親父が、死にそうなところを救われたんだ。それ以来、リレンに恩を感じて、家を用意したり、なんだかんだ手伝ったりで、俺もそうしているんだよ。だから、家族ぐるみで、かなり前からになるな。

 小さい頃には、よく家にリレンが来ていたよ。成長するとともに、全く老けずに美しい姉のような人を見ていたら、好きになってもおかしくないだろ?」


 僕にそういう体験がなかったから、どちらとも言えない。玲さんが女性だったらと考えてみるが、微妙なところだ。幼馴染の年上に恋をするというのを、おかしくないと言われても、否定はできない。


「それで、気をつけろって言ったんですね。恋愛は成功しないぞって意味で。もっと、ストレートに言って欲しかったです」

「できるわけないだろ? 今もそうだが、理由を聞かれる気がしたんだよ」


 他人に自分の恋愛話を話すというのは、気恥ずかしさがあるのだろう。だが、それなら中途半端な忠告などして欲しくなかった。リレンのことを盲信せずにいられた、一要因にはなってくれたけど。


「他には、なにかありますか?」

「お前を撃ったあの男の話がある。あいつ、捕まった途端に、ペラペラと話して気味が悪い。まるで自慢するみたいだ。死刑になるのは、確実だろうな」


 被害に遭った人たちの気が、それで晴れるのならいい。でも、そううまくはいかないだろう。家族の喪失が犯人の喪失で補えるはずない。


「わかりました。でも━━」

「ああ。遺族が無念だよな。反省している風もなかった。ああいう奴は、なかなか消えない」


 理由なき殺人。理由があっても、自分勝手な殺人。正当な理由を持った殺人。どれにも、罪はあるはずだ。多くの遺族は、悲しみを持つのだろうから。


「こんなところだ。いろいろと、悪かったな。リレンと繋がっていた俺が、もう少し踏み込んでいたら、防げたこともあっただろうに」

「いえ、もう、終わったことですから。これからも、頑張ってください」

「ありがとう。応援は支えになる。うん。じゃあ、そろそろお別れだ。もう会わなければいいんだが」

「僕もそうなるよう、祈ってます」


 警察のお世話にも、手を煩わせることもしたくない。

 僕は東堂さんを見送った。なんとなく、答えの切れ端が見えた気がした。


 * * *


 翌日、コンビニへ挨拶をしに行くことにした。彼らも、モヤモヤしたままだっただろう。それに、もしかしたら、海美もいるかもしれない。彼女のことも心配だった。今回は事前に連絡済みだから、迷惑にもならないと思う。


 外に出ると、曇り空。明日には悪天候になっていそうだ。学校に行くのが、憂鬱になる。

 乗れるうちにと、なかなか解除できない自転車スタンドを、足を何度も振ってなんとか解除する。湿った空気を掻き切って、僕は自転車を漕いでいった。



 やがて、コンビニに着く。空は代わり映えなく、面白くなさそうに地上を見下ろしている。


「いらっしゃいませ」


 コンビニに入ると、聞き馴染みのある声がした。これまで曇り空を眺めてきたからか、いつもより少し暗く感じた。


「あ、焦斗くん」

「今日は、演じてないんだな」


 レジには店員が二人。海美と、もう一人は前に見た男性。リレンと一緒に訪れたときと、同じような態勢だ。


「うん、まあね。焦斗くんが来るのもわかってたし」

「そうか。海美は、大丈夫?」

「なにが?」

「兄さんや、沙音さんのことだよ」

「ああ、うん。大丈夫では、ないかな。でも、やっぱり、いつまでも引きずってはいられないし。子供たちの前で演じるのに、暗い顔はできないでしょ?」


 周りにお客さんが来ないか注意を払いつつ、途切れ途切れに、海美は話していた。その様子は、振り切ったというよりは、置いておいた、という感じだ。


「バイトは、やめる予定だけどね。幹人さんがいなくなったからじゃなくて、自分のやりたいことが見つかったから。目城先生の期待も重いし、ね」


 海美は表情を陰らせた。目城先生は、海美に沙音さんの影を見ているはずだ。だからこそ、海美は彼女自身に掛かる期待だけでなく、目城先生に対してのみ、沙音さんの分も背負わなければいけない。


「疲れない?」


 僕だったら、そんな風に頑張れる気がしない。


「疲れるよ。でも、それよりも、いろいろ考えたら頭が爆発しそうって感じだから。やることだけ、ちゃんとやる。そうしないと、やってられなくて。

 なんだかもう、不安ばかり考えている余裕もないよ」

「お陰様で、ミスは前より増えてるけどな」

「もうっ、それは言わないでください!」


 横のレジから、青年がちょっかいを掛けてきた。迷惑そうでも責めるようでもなく、単にからかうような感じだ。今は、そんな人がここにいて良かったと思う。


「それよりほら、君は店長に会いに来たんじゃないのかい?」

「あ、はい。そうです。ただ、海美のことも気になっていたので」

「あらら、恋かな? いやいや、冗談。ちょっとやり過ぎちゃったな」


 僕の表情が変わって、青年は焦ったようだ。でも、その様子や言葉からは、僕を元気づけようとしたのかなとも思う。


「いえ、ありがとうございます。海美も、いろいろ頑張って」

「うん。わたしも忙しいけど、もしも何かあったら、一緒に悩むからね。焦斗くんは、友達なんだから」

「ありがとう。海美も、なにかあったら言ってくれよ。僕は、大体の悲しいことを共有しているんだしさ」

「うん。そうだね」


 薄く笑って、彼女は頷いた。そこへ、お客さんが来てしまう。僕は海美の誘導に従い、前と同じように奥へ向かっていく。振り返ると、レジは、忙しくなり始めていた。


 奥へ進むと、店長と合流し、部屋に入る。テーブルを挟んで、僕らは椅子で向き合った。


「さて、ここに来たということは、幹人くんの自殺理由が、わかったということかな?」

「はい。一応、お話しておくべきかと思いました」

「気になってはいたけど、いいのかい? とても、プライベートなことだろう?」

「それは、そうなんですが。兄がお世話になった場所ですし」

「そんな、気を遣う必要はないさ」


 すんなりと話に入ろうと思っていたのに、その前段階で足止めが掛かってしまった。僕だって、別に無理矢理にでも聞いて欲しいというわけではないけど。


「じゃあ、どうして今日、僕が来ることを待ったんですか?」

「それは、君に会いたかったからだよ。真実を知って、それを君だけで背負えるのか、心配だったからね。君は、兄がお世話になった場所だと言うが、ここは、幹人くんにお世話になった場所でもあるんだよ。

 だから、彼の代わりを務めようと、そう思ったんだ。彼に返したいものは、もう彼には返せないからね」


 僕は、なにも言えずにいた。そんな、僕のために、店長さんはここで待っていたなんて。だって、兄がバイトをしていただけで、僕はなにもしたわけじゃないのに。


「なんだか、不思議そうな顔をしているよ? まあ、幹人くんのことがないとしてもだ、迷える若者を支えるのも、大人の役目と思ってね。だから、君はなにも気にする必要はない。ただ、頼りたいなら頼って欲しいと、それだけだよ」


 まただ。皆、優し過ぎる。玲さんだって、海美だって、店長だって。それに、悠だって。

 皆、僕はなにもできていないのに、僕の力になろうとしてくれて。それも、兄さんは関係ないとまで言って。

 これ以上見られたくなくて、顔を俯かせる。


「ありがとう、ございます。……本当に、ありがとう、ございます」

「そんなに心のこもった感謝をされると、嬉しさと気恥ずかしさがあるというか。いや、でも、素直に受け取っておこう。どういたしまして」


 顔を上げなくても、店長がどんな表情をしているかわかった。まだ、会うのは二度目で、全然この人のことを知っているわけでもないのに。


「もしも、バイトをしたくなったら、ここで働かせてもらってもいいですか?」

「もちろん、歓迎するよ」

「わかりました。……今は、その言葉だけで充分です」


 僕は、顔を上げないまま、足に力を入れた。もう、なんだか、自分が情けない。


「帰るのかい?」

「はい。いろいろ、ありがとうございました」

「大したことないよ。なにかあれば、また連絡してくれていいからね」

「すみません。ありがとうございます。そのときは、お願いします」


 そのまま、帰ろうとした。ただ、最後に足を止められる。


「頑張ってね。応援してるよ」


 僕は頷いて、そのまま歩いて行った。海美たちにも挨拶だけして、外に出るまで、顔を上げることはできなかった。


 * * *


 そうして、休日の二日間は過ぎていった。電話での会話だったが、叔父は、どうやら、僕と一緒に暮らすことを前向きに検討し始めたらしい。どことなく声を張ったような、明るくしようとしてるような雰囲気だったが、痛々しさはなかった。



 月曜日がくる。今日この日、僕の中の雑多な全てを解決させる。明確な意思を持って、玄関から足を踏み出した。



 学校に来るのも久しぶりな気がする。着くなり、僕はメアを探した。早めに登校してきたため、まだ学校へは来ていないと思う。玄関の辺りで、怪しまれないように自販機の近くに立ち、なにを買うか悩む振りをしながら、見張っていた。


 すると、メアが来た。一人の女子と話している。メアは、僕の知っている、耳慣れない名前で呼ばれていた。


 誰もいないのを望んでいたのだが、そううまくはいかないらしい。仕方なく、近づく。


「昼休み、図書室で待っています」

「え?」


 一方的にそれだけ言って、僕は踵を返した。メアが友人に妙な誤解を受けないかは不安だが、そこはメア任せだ。こうなると面倒だから、一人でいてくれると良かった。でも、そんなの僕の都合だ。


 放課後、なにも言わずリレンの家に行くことはできるが、その前に一度、メアと話しておきたかった。彼女について、気になることがあるのだ。


 その後、朝のホームルームで、悠のことが話された。行方不明になっているが、誘拐されたと見て、捜査中らしい。見かけたら警察か学校に連絡をして欲しいと、先生が言う。


 ふと、僕がいた日常は、どこで終わってしまったのだろうかと考えてしまう。だが、考えてみると、生まれた瞬間に、こうなることは決まっていたのかもしれない、なんて結論が出て嫌になった。


 昼休みになり、僕は図書室に向かった。外では、少し前から、雨が降り出していた。今日が悪天候になるのは、昨日の予想通りだった。

 廊下を歩く生徒たちを避け、一見、人の見当たらない図書館に入る。中に入ってみると、図書室担当の先生以外は、誰もいないようだった。


 人のいない静けさ。崩したくない、心地よさがあったはずだ。しかし今は、それを流し去るように、雨が窓に打ち付ける音ばかりが響く。ただ、会話は先生に聞こえなくなるだろうし、ちょうどいいといえばそうだ。


 医学に関する本を読んでいると、少しして、肩が叩かれた。いたのは、メアだった。本を棚に入れて、僕とメアは、図書室の奥まったところで向かい合う。


「呼び出してしまって、すみません」

「ううん。驚いたけど、大丈夫だよ。退院できたみたいで良かったね」

「はい。なんとか。それで、今日はリレンさんの家に行こうと思っています」

「わかったよ。言っておく。でも、わざわざそんなこと言わなくても、勝手に来ても良かったんさだよ?」

「いえ、他に聞きたいことがあったんです」


 純粋な興味で、好奇心を満たすだけだ。あるものに込められた意味を知りたい。


「メアさんは、リレンさんと住んでいますが、リレンさんに戸籍はない。つまり、あの家の持ち主は他の人だと思います」


 戸籍がなければ、住民票も作れないわけで、あの家の持ち主は東堂さんの父親で間違いない。


「そうだよ。リレンの知り合いの家なんだ」


 隠すことでもないのだろう。彼女は、僕の話がどこに向かうのか、掴みあぐねている。


「メアさんは、本当の戸籍を持っている。学校に入学できていますから」

「うん。私は、あの家の持ち主の、養子って扱いになっているよ」


 つまり、彼女は、死んだことにはなっていない。行方不明の少女は見つかったことになり、養子となった。良かった。火災に遭った少女は、消えたわけじゃない。どこかの弟とは、違う。


 メアは、新聞記事で見たあの少女が、そのまま成長した人間だ。僕は、その存在が変わっていないことに、安心したかったんだと思う。自分のように、周りの状況で別人に変わっていたら、可哀想で。存在を書き換えられるなんてことが、そうそうあってはならない。


「まず、それが知りたかったんです」

「まずってことは、まだあるの?」


 あとは一つだ。こちらが意味の方。なんの意味もないとしても、特に気にならない。


「メアっていう名前に、意味はあるんですか?」


 彼女の本名は全く違う。どう読み換えても、メアにはならないし、アナグラムにもなっていなかった。どこから来たのか、それが気になったのだ。


「ああ、それね」


 彼女は得心したように頷いて、窓の外に顔を向けた。雨脚は弱まっていた。


「私、雨が嫌いなんだ。あの日、雨が降っていれば、家が燃えることはなかった。家の鍵は掛かっていたから、私を殺そうとしていても、違う展開になったと思うんだ。

 もしかしたら、私だけが狙われて、リレンに助けられる可能性だって。そんな考えが捨てきれないなんて、未練がましいかな」


 僕は首を振って否定した。幸せな可能性の夢を見ることを、否定できるわけない。僕だって、この数日中、どれだけの可能性と夢を追い求めたことか。


「ありがとう。嬉しいよ」

「僕にも、必要なことですから。でも、それでどうしてメアに? あ、反対から読んでますね」

「うん。余計なときに降るのに、降って欲しいときに来ない。だから、ひっくり返したの。嫌いっていう意思表示でね」


 メアは窓の方へ向けていた顔を、僕の方へ戻していた。雨は反抗的に一瞬強くなって、少しずつ音を遠ざけていく。


「なんか、幼い子どもみたいでしょ? 私、あのときの女の子から、なにも変わってないの」


 それでいいと思った。同じ人間の、二地点の時を繋げるなにか一つ。そんなものが、あってもいいじゃないか。

 僕なんて、ゴミ箱に捨てられそうになった赤ん坊と、今の自分が本当に同じ存在なのか、そんなことわからないのだから。

 だって、僕は、あまりにも恵まれ過ぎている。僕がいるのは、育ったのは、ゴミ箱の中なんかではない。僕もゴミなんかじゃなかった。


「メアさんは、メアさんですよ。変わってなくても、いいじゃないですか。変わりたくなったら、変わればいいんですよ」


 変わりたくなくても、他の手で変えられることだってあるのだから。

 通り雨は外を洗い流して、どこかへ旅立っていった。

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