4-3
目を覚ますと、白い壁が見えた。白百合のような艶かしい白ではなくて、混じり気がありつつも無機質で無感情な白だ。
死後の世界にでも来てしまったのだろうかと思ったが、独特の臭いで、自分のいる場所に気づいた。
「あら、目を覚ましたのね」
首を傾けると、申し訳なさそうな顔をしたリレンが座っていた。
「リレンさんがいるってことは、夜ですか」
「ええ。日にちはまだ、あなたが撃たれた日よ。時間は、十九時くらいかしら」
彼女の言葉を聞いて、僕は手を腹の辺りにやる。どこにも違和感がなかった。
「傷は残っていないわよ。その辺りも含めて、いろいろと話すことがあるのだけど、どれから行こうかしら」
「話そうとしていることについて、教えて欲しいです。そうしたら、詳しく聞きたいところを、僕からそうお願いします」
彼女は若干、言いづらそうにした。病室の外で足音が聞こえる。誰か入ってくるのかと思ったが、違うようだ。
「わかったわ。大まかにわけると、君が気を失ったあとの顛末、お兄さんにまつわる事件の真相。大体のことが、君のお兄さんの事件に付随していそうだけどね」
「犯人がわかったんですか?」
彼女は頷く。嬉しそうではなかった。一体、どんな真相が待っているというのか。
「それなりに心の準備は必要よ」
「覚悟は、しています。でも、それなら先に、僕がどうして生きているのかを訊きたいです」
あのまま死んでも良かったと思ってしまった。兄が死んだ理由もわかっていないのに。死ねなかったことを恨むわけではないし、生きて良かったとも思わない。複雑な感情だ。
それとも、感情が欠落してしまったのか。いや、きっと、まだ自分の心を整理できていなかったのだろう。
「君が撃たれたあと、私は病院に運ぶことを考えたわ。でも、明るいうちは私の力を発揮できないし、仮に動いたとして、屋根を伝っていれば目立つ。どうするべきかと考え込んだところで、君の友人が現れたわ」
「悠、ですか」
「その子よ」
悠の声が聞こえたような気がしたのは、幻聴ではなかったらしい。現実に、悠はあの場にいた。だが、なぜ?
「彼は私に言ったわ。君の血液型と、彼の血液型は同じだから、私の吸血牙を、輸血に使えないかと。妙案だった。私の牙には、神経が通っているから、自由に動かせるもの。そうでなければ、吸う血液を調整できるわけがないわよね」
彼女の言う通りだ。自分の意志で調整できるからこそ、今までも罪人たちを気絶させられたのだから。
「ただ、吸血鬼が人間を吸血鬼にする方法と、輸血の方法は被ってしまうのよ。吸血鬼の牙は、血を吸うのと、自身の血を送って吸血鬼にする機能しかないの。だから、彼の血に混じって、自然と私の血も送られてしまったみたい。
見た感じ、牙は生えていないようだけど、あなたの腹部を貫通した銃弾の傷は、あっという間に塞がっていたわ。多分、吸血鬼にはなっていないでしょうし、血の力ももう働かないでしょうから、奇跡に近いものね」
人が吸血鬼になるには、人間の血が、吸血鬼の血に侵食されることが必要だったはずだ。リレンがそう言っていた。
つまり、輸血用に使われた悠の血液と、リレンの吸血鬼としての血液が、拮抗に近い状態で体内に送られたということか。それにより、驚異的な回復能力だけを、一時的に身につけた。
それはいい。わかった。僕が生きていることが証拠だから。しかし、悠はなぜ、その場にいたのか。あとで、それも教えてくれるだろうか。
「これがあれば、多くの人を救えそうだけど、一歩間違えれば吸血鬼になってしまう。この先、使うことはないでしょうね」
リレンは、他人を吸血鬼化することを極力避けている。そんな彼女からすれば、安易に使いたくはないものだろう。
ともあれ、それによって僕は救われ、運良く吸血鬼にもならなかった。
「あの男は、知り合いの警察に連絡して、捕まえてもらったわ。多くの人を殺したのだから、死刑は免れないでしょうね」
彼女の目は冷たくなる。死を生みだす罪人を、リレンは死と同様に嫌悪しているのだろう。死という概念ではなく、罪人に対しては蔑んでいるといってもいい。
それと、今、リレンは気になることを言っていた。
「知り合いの警察って、東堂さんですか?」
「知っているの?」
「はい。兄の事件を担当したのが、東堂さんともう一人で」
「そうだったの。奇妙なとこで、縁は繋がるものね」
縁は繋がっていたのに、その繋がりを見ることができていなかったのが、不思議だ。東堂さんの言っていた忠告は、本人に聞くとしよう。きっと、また会うことになるのだから。
「そろそろ、いいですよね。兄を殺した犯人を、教えてください」
「知りたい? 後悔するかもしれないわよ」
後悔? いや、いい。後悔をしてもいいんだ。僕がなぜ生き延びたのか。それはきっと、最後に真相を聞くために違いない。
「たとえどんな答えだろうと、僕は聞きます」
「わかった」
リレンは、ふっと息を吐いて、意を決するように話し始めた。
「結論を先に言ってから、説明を始めるわね。……まず、君の兄は、殺されたのではなく、自殺よ」
「え!」
これには、驚かざるを得ない。リレンの様子は、冗談を言っているようには見えないが、だって、僕らは証拠を見つけたのに。
「兄の携帯のSNSには、僕へのメッセージが遺されていたじゃないですか。しかも、改竄されて」
だからこそ、リレンを含めて僕たちは、兄が他殺だと判断した。なのに、リレンはそれを根底からひっくり返そうとしている。
「そうね。でも、改竄したからって、その人が犯人とは限らない。むしろ、筆跡の現れない文字なら、自殺だと見せかける方が余程自然じゃない? 改竄するくらいなら、遺書にしておけば良かったのに。
それに、君の兄が自殺だという証拠を挙げるとすれば、ロープを自身で買っていたことね」
唐川さんらの得た証言で、兄がロープを購入したことは知っている。利用方法もわからないし、不自然だとは思っていたが、自殺のために買ったとしたら、自然過ぎる答えだ。
でも、嫌だ。違うはずだ。認められない。
「もっと、ちゃんとした証拠をくださいよ! そうだ。それなら、兄はなぜ死んだんですか? 動機だって、見つからなかったじゃないですか」
これもまた、兄が自殺ではないとされた根拠だ。僕はそれを頼りにして、ここまで来たのだ。
しかし、リレンは予想外の答えを返す。
「動機は、わかっているのよ。憶測だけれど、当たっていると思うわ」
「なんだっていうんですか」
リレンは、それを話そうか逡巡していた。その様子に、僕は苛立ちを募らせたが、彼女は罪悪感を持った顔で、言い放った。
「君が、弟ではなかったからよ」
「……なにを言っているんですか? 実は、僕が兄だとでも?」
「違うの」
なにが違うというのだ。僕の名前は市崎焦斗。市崎幹人の弟だ。しかし、彼女はそれを崩す。
「具体的に言うわね。君は、市崎幹人と、血の繋がった兄弟ではないからよ」
強大な落雷を身に受けたような衝撃が、僕を襲った。それは、僕と兄の絆を焼き切る言葉。人生で一度も、聞くことになるとは思わなかった言葉。
「は、はは。なにを、言ってるんですか。僕は、市崎焦斗です。小さい頃から、兄とは一緒にいるんですよ?」
「それなら、小さい頃から一緒に育てられたのでしょうね」
「違う、違う! 僕は、兄の弟です! 兄弟でないという証拠はあるんですか!?」
リレンは、DNA鑑定と答えるのかもしれない。しかし、そんなのは、でっち上げもできるはずだ。この目で見たものしか、僕は信じない。
「君の兄は、髪が天然の癖毛で、君は直毛なのよね」
突然、髪質の話を振られた。なんの脈絡もないが、とりあえず事実なので頷く。
「そう。それなら、やっぱり血は繋がっていないわね。メンデルの法則は、知っているわよね?」
中学の理科で習った。遺伝子情報の中にある形質には、顕形形質と潜性形質がある。そしてそれは、子供や孫の容姿に影響が出るものだ。
教科書には、エンドウマメの例が取り上げられていたと思う。丸い豆になるか、しわのある豆になるか。
「それくらいは、知っています」
「人間に現れる顕性形質は?」
「それは、あまり教わりませんでした」
以前は形質を、優性、劣性と表記していたらしいが、差別が起こる可能性を回避するため、顕性、潜性という呼称に変えたらしい。そうした経緯があったから、先生が教えることに配慮したのかもしれない。
「そう。それなら、知らなくても無理はないわね。ヒトの顕性形質の一つに、髪質があるのよ。髪質では、くせ毛が顕性形質、直毛は潜性形質になるわ。君の両親は、どっちだった?」
「……両方、くせ毛でした」
なんだ。どういうことだ。僕は本当の子供じゃなかったのか? いや、まだわからない。
「メンデルの法則には、いくつかの種類がありましたよね。その中に、両親が共に顕性形質でも、子供には潜性形質が現れることもあるって」
「その通りよ。両親の両親が、くせ毛と直毛だった場合、くせ毛とくせ毛、くせ毛と直毛、直毛と直毛の遺伝子の組み合わせができる。
でもね、決定的な証拠ならあるの。髪質は、ただのきっかけ。本気で知るつもりなら、市役所に行って戸籍を見れば、君が養子だということもわかるでしょうね」
その通りだ。リレンが嘘を言っている可能性もあるが、戸籍は赤の他人が見られるものではなく、僕が見るしかないはずだ。
しかし、リレンの言葉を信用しなければ、話が進まない。
「信じられませんが、そこを前提として認めます。結論は、わかりました。それなら、事件が起きた日、一体なにがあったのか、説明をお願いします」
動機とどのように繋がっているかは、一旦、保留にしておく。先に、事件の全容を把握した方がいい。
事件のあらましを説明してもらい、その上で信じられるかどうかを判断する。
「時間軸がところどころで行き来するけれど、なんとかわかりやすいように説明するわ。
まず、君の兄は、君が血の繋がった弟ではないことに気づく。きっかけは、いくつか考えられるわ。そのうちの一つを挙げておくと、お兄さんの部屋にある机上に置いてあった教科書。遺伝子の勉強をしていて、気づいた可能性。
ただし、疑いを持ったのはもっと前でしょうね。自殺する少し前から、様子はおかしかったらしいから、そのときには疑っていた。そして、調べている最中だったんじゃないかしら」
コンビニで店長さんが言っていた。バイト中にミスが多くなっていて、事件の何日か前はシフトを入れていなかったと。
僕は兄からその話を聞いていない。もしかしたら、その休みの間に、遺伝について調べたり、戸籍を見に行ったのかもしれない。
「そして、お兄さんは、事件当日にロープを購入。家の中で首を括って死亡。なんの仕掛けもない、自殺よ」
「それなら、携帯のメッセージはなんだったんですか?」
兄が他殺に見せかけようとしたのだろうか。いや、それは疑問が残る。誰でもいいから他殺に見せかけるくらいなら、わざわざソファ下に携帯を隠す必要はない。どう考えても、行動と心理の矛盾が起きる。
「それは、お兄さんのものよ。ただし、改竄済みのね」
「ということは、兄は他のメッセージを遺していたんですか?」
「その通りよ。でも、遺されたメッセージは、書き換えられてしまった」
訳がわからない。リレンは、納得できる理由を思いついているのだろうか。
「一体、誰がやったんですか?」
「怪しい人を言ってみたらどう? 私が、答え合わせしてあげる」
今までに怪しいと思った人。かなり、限られてくる。
「玲さんですか? 事件当日、家にいなかったらしいので」
優しい人だが、優し過ぎて、どこか怪しい気がしたのだ。そんなの、今だから思えるだけで、あのときは一欠片も思っていなかったが。
「違うわ。その人がいなくなったのは、アイドルのライブに行ったからでしょうね」
「ライブに? 玲さんが?」
あの人がアイドルにはまるとは、どうも思えない。証拠もないだろう。しかし、リレンが論拠を挙げる。
「君は、友達にアイドルグループのストラップをもらったのよね」
「はい。クラスの皆にも配っていたみたいです」
「そのときの会話を思い出して」
なぜ、リレンがそんなことを知っているのかと、一瞬首をもたげかけたが、自分で話したのだと思い出す。叔父が犯人ではないと言った後、僕はリレンに、それまでのことを全て話すことになってしまった。だから、僕とリレンは九割方、同じ情報を保持している。
リレンに言われた通り、彼との会話を思い出すが、不自然なところは特にない。短い会話でもあった。
「なにか、おかしいところがありますか?」
「あるのよ。その子は、君の話によれば、君が前に休んでいて、ストラップを渡せなかったと言ったのでしょう?
君が休んだ日は、お兄さんが死んだ翌日。その日までは、一日たりとも学校を休んだことはなかったのよね。
その子が、お兄さんの死んだ日に渡さなかったとなると、理由は、その日の放課後にストラップを得たからだと考えられるわ。
それに、玲という男性は、押入れの中を見せようとしなかったのよね。その中には、アイドルのグッズが隠されていたんじゃないかしら。
近頃、大抵の男性や男子は、女性アイドルのファンであることを恥ずかしく思うみたいだからね」
それは頷ける。クラスでも、トルネードのファンである彼は、持ち前の性格で周りからも好かれている。だが、大体の人がアイドルのファンだとばれたとき、オタクだなんだと、周りから避けられたり気持ち悪いと言われたりする。好きなものを好きと言っただけで嫌われるのは、理不尽だと見ていて思ったこともある。
「だから、玲さんは犯人ではない、というわけですか」
「ええ。実は、私の推理は犯人と答え合わせ済みなのよ。全てが推理できたのは、百合華さんの事件が解決したあとね」
百合華さんの事件のあとなら、本当に少し前のことだ。深夜のことだったから、今日ということになる。
そして、怪しい人物。わかってはいた。避けていたのだと思う。彼が、なにかをしたとは思いたくなかったから。
「悠ですか」
「その通りよ」
僕が撃たれたとき、なぜかあの場にいた悠。僕に輸血をしたあと、リレンが悠に推理を展開したとしたら、答え合わせができる。
「でも、どうして悠が」
「彼がなぜ。その理由は、さっき言えなかった、君の兄が自殺した動機に関わってくるのよ」
保留にした部分だ。嫌な予感がした。だから、無意識に避けたのかもしれない。聞きたくない。だが、聞かないと始まらない。いや、終わらない。
「兄が自殺した動機は、なんなんですか?」
リレンは、憐れむような目をした。しかし、瞬きをすると、その目は消えていた。
「君が原因よ。君が、実の弟ではなかったから自殺したのよ」
「……まだ信じ切ってはいませんが、どうして僕が実の弟でないと、兄が死ぬんですか?」
そうだ。僕が実の弟でなかったとしても、なんら問題が生じるわけないのだ。
「人は、心の支えを失うと自殺する。百合華さんの事件のとき、私はそう言ったわよね。つまり、答えはそれよ。君のお兄さん、いえ、あえて幹人さんと呼ぶわ。
幹人さんは、弟を心の支えにしていた。だから、君が弟ではないと知り、心の支えを失い自殺したのよ」
どういうことだ? 僕は死んでいない。ただ、血が繋がっていないというだけで。それなら、失ってなどいないじゃないか。
「コンビニで聞いた話によれば、幹人さんは『弟のために』仕事を頑張っていた。焦斗のために、とは言っていなかったわ。それなら、コンビニの人たちは、君の名前を知っているはずだから。
つまり、彼はバイトのみならず、多くのことを『弟のために』頑張っていたのではないかしら。
でも、彼にとって必要だったのは、血の繋がった弟なのよ。両親を失ったショックは、君だけじゃなく、もちろん幹人さんにもあったはず。それでも、弟がいるから、彼は立ち直れた。血の繋がった弟を守るためにね。
でも、それは唐突に失われた。私たちに、そのショックの大きさはわからない。彼は唯一心の支えにしていた、実弟を亡くしたのよ。その依り代となっていた、君が生きているにもかかわらずね」
僕という人間は生きている。市崎焦斗は、生きている。だが、市崎焦斗は、市崎幹人の弟ではなくなった。こぼれ落ちた。そして残った弟という器には、誰も収まることがなく、兄の中で弟そのものが喪われた。
……そうか。兄の中で、僕は、いや、弟は死んでいたのか。となると、僕のせいじゃないか。どうせ、兄の遺したメッセージも、僕を罵倒するようなもので、気づいた悠が書き換えたのだろう。
「リレンさん。……なにか、刃物はないですか? ナイフでも、ハサミでもいいですから」
「ないわね。なにに使う気?」
「死ぬためですよ。いや、殺すためですね。兄を殺した犯人を、殺すためです」
リレンは、人間の道徳範囲外にいるから、復讐で人を殺すのを止めないと言っていた。どうせ、嘘だろうけど、それなら、弟である僕が、市崎焦斗を殺したっていいはずだ。
「そう。……でも、それはさせない。殺意が湧くなら、私を殺しなさい。何回刺しても死なないし、何回殴っても、切っても、死なないから」
「……やっぱり、殺すのを止めないっていうのは、嘘だったんですね。死を嫌うのに、死を生みだす行為が認められるなんて、おかしいと思いました」
リレンの信念と、言っていることが矛盾していた。叔父が犯人だと教えるとき、僕に答えだけ言わず一緒に行くことになったのも、僕が犯人を殺さないようにするためだったのだろう。
「そうね。私にとっては、依頼を受けることで、新たな死を生み出さないことが大事なの」
だから、僕が依頼をキャンセルしないよう、行動を肯定した。依頼が解決すると、僕の殺意を全て受け止めると言うつもりで、僕に離されないために。
僕は、リレンを殺したいわけじゃない。
「僕は僕を殺したいんです。リレンさんに向ける殺意は、持っていません」
リレンによって真実が露呈したが、彼女に責任などあるはずがない。
「そうでしょうね。でも、私は君の自殺を止めるわよ。不老不死だから、永遠にね」
……ああ、こんなことになるのなら、やはり、銃弾を受けたあのときに、死んでしまえば良かったんだ。僕のせいで兄は死んだ。僕のせいで、僕は心の支えを失った。僕がいなければ、兄は、幹人さんは、まだ生きていられた。
僕なんかより、余程生きている意味も、価値もある人だったのに。それを、僕が喪わせてしまった。
「とりあえず、事件に関わる全ては話しておくわよ。君はまた、冷静には見えるけど、その心の整理をしていて」
「はい」
そういえば、悠のこともよくわかっていなかった。その辺りを、補足的に説明してくれるのだろう。
「まず、君より先に、悠がお兄さんを見つけたのは、君の帰宅前に家に行ったから、らしいわね。君は部活で帰りが遅いから、よく訪れたそうよ」
兄もバイトでいないはずなのに、悠はどうして僕の家に? 先を話したリレンだが、その言葉は予想外だった。
「君は以前、鍵を失くしたと言っていたわね。その鍵は、彼が手に入れたそうよ。そして、毎日君の家に行って、盗聴器の電池を入れ替えていた」
「盗聴器!?」
もし、近くに看護師さんがいたら、絶対に声量を注意されていたことだろう。それよりも、盗聴器とはどういうことだ。
「君が過去に彼を救って、それに感謝してのものだと考えたのだけど、正解だったみたいよ。確かに、二人暮らしの家を、空き巣からは守れるかもしれないけど、大胆だわ」
「ということは、僕の家に盗聴器が仕掛けられていることを、推理したんですか?」
そんな素振りは、全く見ていない。というより、知っていたのなら教えて欲しかった。
「盗聴器の弊害として、電灯が正常に働かなくなるというのがあるのよ。もちろん、故障だという可能性もあるけど、君の家の場合は確実よね」
兄の部屋のことか。電球部分を替えても、直ることがなかったあの症状は、盗聴器のせいだったと。
「いつ頃に気づいたんですか?」
「最初は全く気づかなかったわ。ただの不具合だと考えていたの。気づいたのは、君が私の推理を違うと言って、全てを話してくれたあとね。私の家の電灯が点滅を始めたのは、君が私の家にあるものを持ってきたから」
そうだ。思い返せば、悠にもらったあれを持ち始めてから、リレンの家に影響が出始めた。
「悠のくれたペンが、盗聴器だったんですか?」
「そうよ。正確には、GPS機能つきの盗聴器。君が私の家に来てなにを話しているのか、それを知りたかったのでしょうね。この推理も、彼は当たっていると言っていたわ」
待てよ。GPS機能がついた盗聴器とは、聞き覚えがある。
「まさか、リレンさんが誘拐されたときに使ったのは」
「そうよ。君に渡ったそれを、借りたの」
一体、いつの間に。僕は、直接貸した覚えがない。彼女が勝手に取ったのは間違いないのだが。
「私が窓の鍵を開けるよう、指示をしたのは覚えているかしら?」
身に覚えがなかったが、そんな僕を見かねたリレンの言った、掛け算という単語で思い出す。
「そういえば、紙で指示を出したことがありましたね。叔父のことを話したのもその日でしたから、盗聴器に気づいて回収しに来たんですね」
リレンが突然、掛け算の話をしてきたことがあった。彼女がそれまで、机に伏しているのを見て、なにをしていたのかと思ったら、紙に文字を書いていたのだ。
そして、その紙には「帰ったら窓を開けておいて」と書かれていた。掛け算にも意味があるのかと思ったが、盗聴器を掻い潜るためのものだったのか。確かに、急に沈黙になっては不自然だ。
「そうよ。指示を出した夜にね。盗聴者も寝ていなければいけなかったから、君も必然的に寝ていたけれど」
そのあとにはペンを使うことがなくなっていたから、気づかなかった。
「百合華さんの依頼で、ネイさんの家を調べているとき、君は私が通販サイトを見ていると予想したけど、あれは同じ盗聴器を探していたのよ。
その盗聴器に対応した受信機があれば、私にも使うことができたから。そのときは、受信機の形状を確かめて、 彼の家を家捜ししようかと思っていたのだけどね」
リレンの不自然な行動に、意味が付与されていく。やはり、彼女は、僕とは違う。知識も、推理力も、行動力も、僕より上だ。
「結局、私が使うことになったわ」
そういえば昨日、悠からメッセージが来たときにペンを使っているかと尋ねられた。それはつまり、盗聴器の機能が働いていなかったからだろう。
「これらを踏まえて、次は、私が誘拐されるまでの成り行きを復習しましょうか」
衝撃的な事実が多く、頭の中と感情が整理し切れていない。そうしてもらえるのは、とても助かる。
「お願いします」
リレンは僕の言葉を受け取り、これまでのことを話す。
「まずは、幹人さんが、本当は弟と血が繋がっていないという事実に気づき、自殺」
その内面を知っていなければ、馬鹿らしいとか、あり得ないだとか言われそうな理由だ。
「幹人さんはメッセージを遺した。そこへ、盗聴器の電池を取り替えようと、悠が家にくる。勝手に作っていた合鍵を使い中へ入ると、自殺した幹人さんと、メッセージが遺された携帯電話を発見。悠は、メッセージを改変し、携帯電話はソファの下へ置き、家から脱出する」
まずは、そこで気に掛かる。悠は、なぜメッセージを変えたのか。この質問をすると、リレンは答えた。
「君の話を聞いて、彼は独特の正義感と、君を守る意思を持っていることは推理できた。彼の言葉や、柔道を習い始めたというのが根拠ね。
悠は、君が傷つくのが嫌だったのよ。だから、メッセージを変えて、幹人さんの自殺した原因が君にあるのではなく、他人が殺したという風に見せたのでしょうね」
リレンが懐に手を入れ、なにかを取り出した。兄の携帯電話だ。持って来ていたのか。
「一応ね。君は帰宅後に幹人さんの死体を発見。翌朝、あの人が帰宅。さらにその翌日、学校に行くと、悠が私の存在を教えた」
そういえば、リレンのことを紹介してくれたのは、悠だった。そこには、兄が自殺したのではなく、殺されたという曲解をさせようという意図があったわけか。
「その後は私と出会い、コンビニの店長の証言で、幹人さんは弟という存在に、心の支えを求めていたのだと、推測できた。一度は見逃してしまったわけだけど」
僕もリレンも、他殺されたという先入観を持っていた。だからこそ、気づくことができなかった。
「翌日、君はストラップをもらう。沙音さんの件は省きましょうか。そして、放課後には、ペン型のGPS機能つき盗聴器を受け取る。
これを渡された理由は、君が部活を辞めたことで、悠が家に入れなくなったというのと、君が私やメアと一緒にいるとき、どこにいて、どんな会話をしているのかを把握するためでしょうね」
僕もそう思う。僕を守ろうとするために、対象の情報を尽く得ようとするのは、どこかストーカー染みたものを感じるが、悠は親友なのだから、友情が少し行き過ぎたみたいなものだろう。
「また、その日、君は悠のお兄さんに会わせられた。これが、なぜだったかはわかる?」
悠が、僕を玲さんに会わせた理由。そうか。考え直すと、悠は犯人がいないのを知っていたのだから、玲さんが犯人じゃないかと心配する必要はない。
しかし、そうなると、なぜ僕に会わせたのか。無駄に、玲さんの疑いが増えるだけだが。と、そこで思い至る。できれば、違っていて欲しい。
「玲さんに、疑いを向けるためですか?」
「その通りよ。悠の中では、彼のお兄さんを、幹人さん殺しの犯人に仕立て上げる予定だった」
「どうして、そんなことを」
玲さんは優しい人だったし、恨まれるようなことをするはずない。
「悠の中で最も大切なのは、君だったのよ。いじめから救い出してくれた、君がね。そのために、罪をお兄さんになすりつけようと、いえ、無い罪を創り上げようとした。親族を犠牲にまでするのだから、偏執狂とも言えるかもしれないわね」
偏執狂というのは、当てはまる気がする。実際、僕はさっき、一瞬ストーカーのようだと思ったのは事実だ。友情だとは、思うのだが。助けてくれたから、助けたい。それは、誰だって考えることだと思う。
「このまま時間を進めていくわよ。その後、私は君の叔父さんを犯人だと判断した。盗聴器を通して、そのときのことも聞いていたのでしょうね。
でも、それは悠にとって不都合だった。彼は私に、お兄さんが犯人だと判断して欲しかったのだから」
「どうして、叔父さんでは駄目だったんですか?」
罪を被せるという点では、目的を果たしている。
「それは、悠の行動理念が問題ね。彼は、極力、君が傷つかない方法を取ろうとしていた。君の叔父が真犯人だと、君が精神的ダメージを受けると考えたのよ。
家にいる人が、本当に君だけになってしまうしね。ここが、本当の偏執狂とは違うところかしら。自分の見える範囲に置いておきたいなら、全てを奪ってしまいそうだから」
悠の考えた通りだ。実際、叔父が犯人だと言われたときは、殺意も消え去り、また無気力に戻り掛けそうになった。翌日に、犯人ということに対する疑惑が出たから、まだ良かったが。
それに、悠が親友であるということも、変わらない。リレンも、軽くではあるが、意識して補足したのかもしれない。
「そうですね。悠は、やっぱり悠です。そのあと、僕はリレンさんに、それまでのことを全て話したんでしたね」
「そうね。そして、改めて考え直してみた結果、盗聴器の存在に気づいた。悠に対する疑いも出てきたけれど、そのときは動機が思いつかなかったの」
それはそうだ。兄が自殺した理由は突飛なものだし、自殺したというところに至るのも、あの状況では難しい。
「全てがわかったのは、百合華さんの事件が解決したあとだと言っていましたね」
「そうよ。また、順を追っていきましょうか。君の話を聞いたあと、掛け算の話で隠しながら、君が窓を開けるよう紙に書いて見せた。
夜になると、君も寝ていたけれど、私はペン型の盗聴器を持って行って、電源を切ったわ」
そのために、悠はペンが盗まれたことにも気づかなかったというわけか。全く怪しまなかったのかというと、疑問にはなる。
「持ち帰ると、ネットで同じ型の盗聴器を探したわ。これは、さっき言ったわよね。受信機を探すためよ」
百合華さんの依頼を進行していた辺りだ。それにしても、盗聴器なんてものが、ネットで簡単に入手ができることに驚く。
「そして、百合華さんの事件を解いて、そこで初めて、君の事件も解けた。あのとき、君が勝臣という男の話をしなければ、そのまま推理したことを言っていたかもしれないわね」
そうかもしれない。僕の兄にまつわる事件は全てが解決していたのだから、リレンにとって、言うのに丁度いい機会だった。
ただ、僕にその答えが受け入れられたかといえば、そうとは限らないけれども。今の話を信じつつあるのは、あの教会に悠がいたという事実。それも原因にあるから。
「その後は、悠の盗聴器を私が持って、君には受信機を渡した。 誘拐されたとき、陽の光で体に力が入らなかったし、あの男が私に危害を加えたら壊れるかもしれなかったから、教会に着いた時点で、ペンは車の中に置いたわ」
発信器の反応が、車の中からあったことを思い出した。車内に入っていれば、見知ったペンを見つけてしまい、悠のことを思い出して、きっと混乱してしまっていただろう。
「悠は、勝臣という男に協力して、私を殺そうとした。私は撃たれて、傷だらけ。君も撃たれて、その場にいた悠の血液を、君へ輸血した」
「そもそも、悠はどうして協力したんですか?」
「これも同じよ。君のことが大切だから、彼は私を殺そうとした。犯人の誤判断に、依頼料が君の血液。殺意を抱くには、十分なんじゃないかしら」
悠の行動は、本当に僕を中心に回っている。彼にとって、僕は心の支えだったのだろうか。いや、心の支えという枠組みでは収まらない。行動原理そのものになってしまっているのだから、心の侵食や、洗脳に近いものがある。
……それにしても、よくここまで推理できたものだと思う。悠の精神面が、この事件には多く関わっているように見えるのに。
「どうやって、この推理に辿り着いたんですか?」
彼女は誇らしげな訳でもなければ、卑屈な様子もなく、不思議な表情を浮かべた。
「偶然にも、私が君と出会ってから遭遇した、三つの事件が関わっているのよ」
これまでの事件が? 共通点はなかったように思うのだが、リレンはなにかを見つけたのだろうか。尋ねると、彼女が答えた。
「まず、一つ目の事件。あれは、犯人が死の真相を変えようとした。悠が、幹人さんの自殺を他殺に見せようとした点と同じなの。
二つ目の事件。これは、元々は不幸な事故だった事件なのに、目城は新しく罪を作り上げようとした。これも似たようなものね。他殺にすれば、犯人を作らないといけないのだから。
三つ目、百合華さんの事件。あの真相は、罪をなすりつけようとしたものだった。百合華さんが殺したように見せようとね。これは、悠が彼のお兄さんに罪を被せようとした点で同じなの。
だから、私は三つ目の事件が解けたあと、君の事件も解けた。三つの事件は、真相がそのまま悠の行動を現していたのよ。なんの因果か、わからないけどね」
思い返せばそうだ 。リレンにとっては、兄が自殺したという先入観が、解いた事件で拭われたと思えばいいか。だが、同じく真相を共有していたはずの僕には、全く思い至ることができなかった。
「そろそろ、終わりかしら。話すこともないでしょう?」
リレンに同意を求められ、思わず頷こうとしたが、首は振り切られなかった。まだ、聞くべきことがある。口を開こうとしたが、通知音が聞こえた。SNSのものだ。
兄の携帯の辺りから聞こえた気がしたが、リレンはそれを手に取らず、携帯が置かれている机の引き出しを引いた。中から、僕のスマホが出てくる。
「君に連絡みたいよ」
どうやら、そのようだ。画面を点けてみると、通知が一件入っている。今すぐに見なければならないものではないが、せっかくリレンが渡してくれたので、確認しておく。
そこで、僕は思わず端末を取り落としそうになる。……あり得ない。どうして?
「そういえば、悠が削除した幹人さんの言葉。彼に聞いてみたのだけど、教えて欲しい?」
「……はい」
リレンのタイミングが良すぎるが、僕が通知を受けたのを見て思い出したのだとも考えられる。
「『お前はなにも悪くない』。らしいわよ。悠はその言葉を見て、君がどう感じるか不確定だったから、誘導するためにあんなことをしたらしいわ」
リレンの言った言葉は、今まさに端末の画面に表示されていた。送り主は、兄。市崎幹人だ。しかし、それはおかしい。
彼の端末は、目に見えるところに置いてある。まさか、リレンが目にも止まらぬ早さで送信したとは思えない。
「君が誰から、どんな言葉を受け取ったのかはわからないけど、君に自殺願望がないのなら、私はもう帰るわ」
目の端に捉えられていた黒布が、視界から消えた。端末から目を離すと、彼女は笑みを浮かべて立ち上がっていた。彼女と出会ってからよく見る表情だが、今なにを思っているのかは読み取れない。
さっき浮かんだ聞きそびれたことも、玩具箱をひっくり返したようにぐちゃぐちゃになった頭では、聞く気にもなれない。
自殺願望だって、どうすればいいのかわからなくなった。なのに、死者からの言葉を受け取ってしまったのだ。僕が原因で死んだというのに、兄は、幹人さんは、恨み言を吐くでもなく、僕を励ますような言葉を。
「リレンさん。僕は、なにをすればいいんでしょうか?」
兄が自殺したのだとわかり、殺意というわだかまりも失って、多くの秘密を知って、そして僕はどうすればいい。
「まずは、退院。そして次に、私へ血をちょうだい。そのあとにまだ迷っているようなら、手伝ってあげるわ」
「いいんですか?」
それだと、リレンの負担が増えてしまうばかりだ。それに、無意識だったけど、自分への質問でもあったと思う。それでいいのか、自分に問うている。
「君には言っていなかったけど、私の依頼主だった人たちには、メアのように、天涯孤独の身となった人もいるわ。仕事のないときは、そういう人たちの相談相手になったり、話し相手になって、代わりに血液をもらっているのよ」
リレンは、そうして血液の補給をしていたのか。彼女の活動にどれだけの血液が必要だったのか、それはわからないが、どこから血液を得ているのかは謎だった。
ここ一週間くらいは、僕と並行して二つの依頼があったが、片方はメアが依頼主だし、片方は依頼主が亡くなってしまっていた。
しかし、勝臣さんが言っていたように、人を襲っていたわけではなかったのなら、良かった。
「いろいろ、納得しました。答えが見つからなかったら、お世話になります」
「ええ。できる限り力になるわ」
リレンはそう言い残して、部屋を出た。姿が消えると、部屋の外から小声が聞こえた。会話をしているようだ。
外を通った足音は、一度きりのはずだが。そういえば、誰かが歩いていたのなら、部屋の前を通過しているはずなのに、姿を見ていなかった。立ち聞きしている人がいたのか?
考えているうちにリレンが頷き、ローブを翻して消え去った。代わりに、人が入ってくる。
またこうやって会えて、嬉しい。
「回復したようで良かった」
「叔父さん……」




