表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
吸血姫は死を嫌う  作者: 天木蘭
一章.吸血鬼の都市伝説

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/24

1-1

 初めて学校を無断で休んだ。


 風邪を引いたり怪我で休んだりしたことはあったけど、これは初めてだ。兄が頑張っているのだから、休んではいけないという意思もあったし、休むことに意味を見出せなかった。


 ただ、無断で休んだところで、罪悪感を覚えることもなく、それはそれで、今までどうして学校に行っていたのかと考えてしまう。それもおかしい。なにも考えないで、ただ休んでいたいはずなのに。それとも、余計なことを考えて気を逸らしているのだろうか。よくわからない。


 ベッドからなかなか起き上がる気になれず、仰向けになってただ天井を眺めていると、そんなはずもないのに、白い天井が押し寄せてくるように感じる。

 圧迫感みたいなものがあった。家の中には僕しかいないのに、一体なにが圧迫感なんかを与えてくるのか。


 だが、体は鎖が巻かれているように重く、酷い倦怠感がある。朝食を食べる気にもならない。昨日から胃を締めあげるような感覚は残っているけど、そんなものがなくとも動く気は無い。なんの欲も湧かない。食欲だって。


 昨日、あれだけ吐いたのに。僕の中にも外にも、もうなにも残っていない。


 ありえないことだとわかっているのに、こうやって芋虫のようにベッドの中で縮こまっていれば、今にでも兄が起こしに来てくれるのではないかと、期待してしまう。「起きろー!」と無駄に声を張り上げて、部屋に飛び込んでくるんじゃ無いかと。


 その期待が叶わぬものだと知っていてなお、願わずにはいられない。


 この感覚は前にもあった。両親が買い物に行って、そのまま帰って来なかったあの時だ。


 僕と兄の両親は、交通事故であっさりと亡くなってしまった。その事故を見た訳でもなく、情報として伝わってきたそれは、あっさりとしか言いようがなかった。死んだという実感は、今もない。いなくなってしまった、そんな感覚。


 そして、それ以降、僕と兄はこの家で二人暮らしをしていた。


 当時の僕は中学生、兄は高校生。そのとき、僕と兄には親戚がいないと思っていた。しかし、叔父を名乗る男性が経済的負担を負ってくれた。


 叔父さんとは一緒に暮らしていない。仲が悪いわけじゃない。むしろ、時々会えばよく話すし、仲はいい方だ。


 ただ、彼は自称「旅人」である。自宅はこの家の近くにあるのだが、ほとんどの場合が留守。


 初めて会ったとき、すぐさま交流させられたSNSのタイムラインには、日本やら外国やらの写真が投稿されている。僕はそれにいちいちスタンプを押している。押さないと叔父さんが拗ねるから。


 子供らしい。とはいえ、それがあるから叔父さんの様子は、まるでストーカーみたいに見張っている。なので、現在地は把握していた。

 昨日の時点では旅行にひと段落ついて、こちらに向かってきていたはずだ。明日か明後日には帰ってくるだろう。


 と、そこで僕は思い出した。そうだ、叔父さんに連絡を取らなければいけない。

 兄さんの訃報を伝えないと。そう思ってスマホに手を伸ばすと、インターホンが鳴った。


 来客者が誰かはわからないが、出るのが億劫なので無視することにした。


 せめて、今日一日くらいは心を落ち着かせる時間にしたい。昨日より幾分か落ち着いているとはいえ、人と話す気分じゃない。


 悲しみが少ないのは、慣れているからだろうか。ただただ体が苦しいだけで、僕の心には動きがないような気がする。両親の死に比べれば、涙も出ていないし、薄情な気がする。


 単純に悲しむことができないのは、兄が死んだ原因の一端に、自身が関わっているからなのかもしれない。本当にそうなのかもわからない、あやふやな罪悪感が、涙を止めるストッパーみたいに。


 僕の心をノックするように、短い間隔で音が鳴る。僕は掛け布団の中に籠って、耳を両手で塞いだ。


 すると、唐突にインターホンが止んだ。鼓膜を震わせる波を遮ったからではなく、音そのものが止んだらしい。代わりに、布団の中に生まれた闇を光が払った。僕がさっき手にした、スマートフォンの画面が光っている。


 確認すると、SNSの通知が来ていた。表示された相手は、叔父さんだった。


 メッセージの内容からして、どうやら、家の前にいるのは叔父さんのようだ。僕は返事を手早く、ベッドからは病人のように緩慢な動きで抜け出す。

 部屋から出ると、木製の床が悲鳴を上げるように軋んだ。


 僕の部屋は二階にある。この家は二階建てで、今では全ての部屋を使うこともなくなった。二階は僕の部屋や兄の部屋、一階はリビングやその他だ。

 僕が大学生になったら、民泊をやってみるのもいいかもな、なんて兄は言ってたっけ。


 玄関に辿り着くと、チェーンを外し鍵を解き扉を開く。外には髭面で髪が真っ直ぐに尖った、若々しい男性が立っている。


「叔父さん、もっと遅いと思ってたよ」

焦斗(しょうと)、酷い顔だぞ。昨日はちゃんと眠れたのか?」


 焦斗というのは僕の名前だ。市崎(いちざき)焦斗(しょうと)。兄の名前は市崎(いちざき)幹人(みきと)だった。


 対して、叔父さんの名前を僕は知らない。けど、叔父さんがどんな名前だろうと、僕や兄の叔父だという事実に変わりはないのだから、僕は特に気にしていない。


「少し、寝つきは悪かったかも。叔父さん、話さないといけないことがあるんだ」

「そうなのか?」

「うん。とりあえず、上がってよ」


 扉を抑える役割は叔父に任せ、僕はリビングへと向かっていった。


 リビングは少し荒れている。警察の捜査で弄られたからだ。この場で、僕の兄は死んでいた。それはまだ昨日のことだ。ああ、まだ、たった一日前か。


 汚れは時間で薄れて行く物だ。もちろん、兄の死は汚れなんかではない。ただ、兄が確かにここで生きていて、ここで死んだという痕跡が消えていくのは、悲しいかもしれない。


 僕が忘れなければ、僕の中では残るのだろう。それに、事故物件として、情報だけなら残るかもしれない。


 ただ、それで僕が救われることはない。残らないよりは残った方がいい。けど、帰ってこないのは絶対の事実だ。変わらないし、変えられないことだ。


「それで、どうしたんだ? 具合でも悪いのか? それなら、病院に連れていくくらいならできるぞ」


 いつの間にか背後にいた叔父さんは、心配するような声を掛けてくれる。実際、心配しているのだろう。わざわざ家まで来てくれた。


 心配? ……それは、おかしい。そこで、違和感に気づいた。叔父さんは、兄さんが死んだことを知らない。なのに、なぜ今ここにいるのか。


 今日は平日だ。普通に考えれば、僕が家にいないことに気づくはずだ。


「叔父さん……」

「なんだ?」


 人の良さそうな笑みを見て、僕の疑念は息を潜めた。まさか、そんなわけない。たまたまだ。きっとそうに決まっている。それに、兄は自殺なのだから。


 それでも、どこかに信じ切れない自分がいたのか、僕はさりげなく叔父から距離を取る。

 そして、普段通りの様子に見えるよう気をつけて話し始めた。いつも通りに見られる自信はあった。


「昨日、兄さんが死んだんだ」

「幹人が? どうしてだ? 事故か、それとも──」

「自殺だよ」


 早口で理由を訊ねる叔父の言葉を遮って、僕は答える。叔父は沈痛な面持ちを浮かべ、雨の雫のようにポツポツと言葉を落とす。


「そうか。……なにか、あったのか?」

「僕にもわからない。けど、警察は自殺だって判断したみたいだよ」


 僕はまだ、他殺という可能性もあると思っている。


「俺にはどうしても、あいつが自殺するとは思えない。余程の理由があったのか?」


 そう。自殺する理由が、全くわからない。だからこそ、僕はその一点だけを頼りに、兄は殺されたのではないかという可能性を抱く。


「あっても、僕らに知ることはできないよ。あとは、警察に任せるしかないね」

「そうだな……。それにしても、焦斗は大丈夫なのか? 落ち着いているよな」


 どうやら、叔父の目にも僕は落ち着いて見えるらしい。やっぱり僕は、兄が死んでも体調がおかしくなるくらいで、心は冷静なのだろう。


「嬉しくないけど、慣れたのかもしれない。兄さんの死体を見た時には、吐いたし本当に辛かった。だけど、今はもう大丈夫みたい」


 きっと、僕は死というものに近づき過ぎた。両親の死を体験し、兄の死を間近で見た。この二回で、死という現象に慣れたのだと思う。


「死体も見たのか。大丈夫ならいいんだが、それでも無理はするなよ」

「うん。わかってるよ」


 叔父が近づいてきて、今度は避けなかった。そのまま彼は、少し寝癖のついた僕の髪をくしゃくしゃと撫でた。

 僕の髪は直毛で硬い。だけど、叔父の手は厚くて、僕の髪の毛は特に気にならないようだ。


「今日は学校を休むのか?」

「うん。まだ連絡はしてないけど、休むつもりだった」

「それがいい。じゃあ、俺がしておくか。まだ早いが、葬式はどうする?」

「しなくていいよ。どうせ、親戚は叔父さんしかいないし、兄さんの交友関係はあまりわからないけど、できる限りの人には伝える」


 言って気づいた。兄の友人は、既に兄がこの世にはいないことも知らない。一般人の自殺ならば、ニュースにもならないのかもしれない。マスコミだって来ていないし、まずは、伝えなければいけないのだ。


「わかった。じゃあ、幹人の知り合いへの連絡は任せたぞ。俺は学校に連絡して、朝食もまだ食べてないだろ? 俺が作っておくよ」

「ありがとう。お願い」


 僕はリビングを出て、二階へと上った。


 兄の部屋に入るのは久しぶりだ。室内にはまだ生活感が残っている。

 机の上に散らばった参考書。捲れているベッドの掛け布団。本棚からはみ出た本の背表紙。


 警察が動かしたのでなければ、これらは全て兄の痕跡だ。それは、今まで兄がいたことを指し示す。しかし同時に、今はいないことを実感させられる光景でもある。

 この部屋の主は、もういないのだ。首に縄を掛けて、兄という存在は消えてしまった。


 人生の夏休みと表現する人もいる大学生活。兄が大学に合格したのは去年のことだ。叔父の援助はあるものの、兄はあまり手をつけたがらず、バイトをしていた。だが、ほとんどの時間をバイトに充てながらも、順風満帆な生活を送っていると思っていた。


 兄はクタクタになって帰ってきても、どこか充実しているような表情を浮かべていたから。

 適度な疲労は、生きている実感があっていい。なにもないより、余程いい。兄はそう言っていた。


 僕は叔父のお金もあるのだから、そんなに頑張らなくてもいいのに、と思っていた。ただ、兄の頑張る姿を見てバイトをしようと思ったことがあった。しかし、兄は僕に負担を掛けさせたくないからと、バイトをすることを止めた。

 どうして兄が、僕にあそこまで献身的だったのか、僕には今もわかっていない。


 僕はスマホから電話を掛けた。兄のスマホを呼び出して、探す手間を省こうとしたのだ。


 自分のスマホから呼び出し音が聞こえると、間も無く小さな着信音が聞こえた。


 警察が持って行った可能性も危惧していたけど、どうやら置いていったらしい。

 僅かに聞こえる音は階下からだ。兄が死んだリビングに、そのままあるのだろうか。


 僕は階段を降りていく。次は軋む音があまり鳴らなかった。しかし、聴覚に訴える代わりに、匂いが鼻をくすぐる。


 叔父が簡単な朝食を作っているのだろう。起きてから初めて嗅いだ匂いは、美味しそうな匂いだった。


 着信音を辿りリビングに入ると、フライパンでなにかを焼いている音が響く。その中に紛れた着信音とで、音楽を奏でているようにも聞こえる。着信音自体が音楽だから、フライパンの音は手拍子だろうか。


 音を辿って探してみると、兄の携帯はソファの下にあった。昨夜、僕が座っていたソファだ。たまたまだとは思うけど、なにか意味を持っているように感じられた。


 パスワードは設定されていないらしく、簡単にホーム画面へと移ることができた。

 写真、カメラ、カレンダー、天気など、携帯電話というには機能がつき過ぎていると改めて思う。


 これだけ軽くてスマートであるのに、機能の多さが重く感じる。株価を見る機能までついているが、僕は一度たりとも開いたことがない。


 兄が使っているチャットが可能なSNSアプリを開いてみると、こちらにはパスワードが設定されていた。


 四文字の数字というのは、決まっているらしい。しかし、特にあてがなかったため、安易に兄の誕生日を入れてみると、どうやら正解だったらしく画面が進んだ。

 兄のアプリに登録されている友人は、だいたい百人だった。しかし、まさか、その全員と連絡をとっているとは思えない。


 心の中で小さく謝罪をして、チャットの履歴を確認してみた。軽く全てを確認すると、半分程度が連絡をとっていないことがわかった。


 あとは、大学に連絡したあとにこの人たちに伝える。できれば、兄に自殺するような理由があったかも知りたいところだけど。


  そこまで考えて、僕は気づいた。朝にはなにもやるつもりはなく、無気力や倦怠感に押しつぶされそうになっていたのに、それがない。


 こうなったのは、おそらく叔父の言葉のおかげだ。叔父は、兄の自殺を信じられないと言った。僕もそうだ。


 兄の死は突然過ぎて、遺書もない。両親を失ったあの時間を過ごした兄なら、僕のために生きてくれるはずだ。


 兄は優しい。時折、その優しさは誰かに騙されそうで不安を覚えるほどだった。そんな兄が、なにも言わず僕の前から消え去ってしまうとは思えない。


 昨夜、刑事さんにも、兄が死んだ原因は僕ではないんじゃないかと言われた。

 その時は自分のせいだと思っていた。自分が直接の原因ではないとしても、どこかに自分が関わっているのではないかと考えた。


 でも、今ならはっきりと言える。兄は、僕のせいで死ぬことはない。僕のために生きることはあっても、死ぬことは絶対にない。


 兄の死は本当に自殺なのか。どうにかして、それを知らないといけない。


 警察に頼むのが一番いいだろうか。いや、それだけじゃ駄目だ。僕自身でも調べないといけない。幸いにも兄の携帯は手元にある。

 これを元に調べて行けば、きっと、少しでも兄の死の真相に近づけるはずだ。


 その結果が、たとえ自殺だったとしても、その可能性を考えたくはないけど、僕は受け入れる。

 そうなったときは、受け入れるしかないのだから。過去には帰られない。そして、やっぱり過去は変えられないのだから。


「焦斗、ご飯ができたぞ。あと、学校には連絡をしておいたから、今日は家でゆっくりしているんだ」

「うん、ありがとう」


 兄のスマホを手に持ちながら、テーブルへと向かう。いつもは兄と向かい合わせに座っていた椅子に、今は叔父を迎えている。


「幹人の友達には連絡を入れたのか?」


 叔父が僕の朝食を並べながら問う。


「いいや、まだだよ。あとで連絡する。大学にもね」

「そうか」


 テーブルの上には、家にあったもので完成された朝食があった。


 インスタントのスープ。春雨が入っていて中華風だ。そして、皿には半熟の目玉焼き。最後にマーガリンを塗ったトースト。


 僕と兄の朝食は大抵がパンで、このメニューはいつもと変わらない。その変わらなさになんだか安心した。作った人が変わっていても、そう思えるのは不思議だ。


 兄が死んでも、世界は変わらない。その事実は心を撃つ。でも、同時に不変であることが僕の拠り所でもある。


「熱いからな。気をつけろよ」

「わかってるよ」


 高校一年生は、そんなことを注意されるほどの子供じゃない。僕はトーストを一口かじってから、目玉焼きに醤油をかけた。


 黄色や白を侵す黒い液体は、涙のように表面を滑り落ちていく。

 僕は目玉焼きの黄身にフォークで切り込みを入れてから、意を決して叔父に話す。


「叔父さん。僕も叔父さんと同じで、兄さんが自殺したとは思えない。だから、僕は兄さんのことを調べたい。そして、真相を明らかにしたいんだ」


 叔父は、どこか辛そうな表情を浮かべて言葉を返す。


「無理はしない。無茶もしない。そして傷つくことはしない。これを守れるか?」


 スープから立ち昇る湯気が、僕と叔父との間を優しく通っていく。


 叔父が言ったことを完全に守れるかはわからない。僕は正直なところ、全てがわかるなら自分がどうなってもいいと思っていた。


 叔父の辛そうな表情は、それを悟ったからなのかもしれない。僕が傷つけば、兄を失った僕のように悲しむ人がいる。今更、それを理解させられた。


「うん。わかったよ。無理はしないし、無茶もしない。もちろん、怪我もしないよ。約束する」


 叔父は心配を押し殺すように、無理矢理な笑顔を浮かべた。兄の面影はなかった。


「俺もできる限り調べるよ」


 そして叔父は小指を僕に差し出した。一瞬戸惑いつつ、僕も小指を出した。気恥ずかしい。指切りなんて、小学生のときが最後だ。


 朝食に目を戻すと、裂けた黄身が広がって、黒も白も侵食しきっていた。黒と混じっても負けじと色を主張する。

 僕はただの高校生だ。半熟だ。それでも、できることをして、兄の死がどのように起こったのかを明らかにする。しなければならない。


 僕は朝食を味わいながら食べ切り、全て呑み下した。吐き気はもうしなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ