3-4
翌朝、寝覚めは最悪だ。睡眠不足が否めない。今から準備しても、学校には遅刻するだろう。そう考えると、開き直れた。今日も休めばいい。生活習慣が、ずれていっているのを実感してしまうが、同時にルールからも逸脱している気はする。
だが、学校を休むとして、どうするべきか。やることが全くない。勉強がいいだろうか。学校を休んで、家で勉強をするのなら、休む意味がわからなくなるが。
とりあえず、朝食に菓子パンを食べる。無限にあるわけではないから、そろそろ買いに行っておくか。
昼間に出歩いて補導されないかだけが不安だが、大学生だとでも言えば乗り切れるだろう。身長が心許なくはあるけど、目立つことをしなければいい。
準備を終えて、私服に着替えた。叔父の無罪が確定するまでは、自分の貯金を使う。間も無く叔父が帰ってくると、そう信じているからだ。
アメジストのブレスレットを最後につけて、家を出る。鍵を掛けて、僕はスーパーに向かった。
そこで菓子パンを大量に購入すると、迷いなく家に帰ることにする。しばらく歩くと、見覚えのある人がいた。
「こんにちは」
声を掛けると、こちらに振り向いてくれた。
「学校はどうした?」
「心情整理のために、休んでいます」
「どういうことだ?」
いたのは玲さんだった。細い鉉の銀縁眼鏡を掛けている。彼を見ると、安心する。僕の兄と違って落ち着いているからなのと、過去の思い出がそう思わせてくれるのだと思う。包容力がある男性というのは、こういう人なのかもしれない。
玲さんに、これまで起きたことを洗いざらい説明した。誰が犯人かもわからないのに、それができたのは、リレンの推理に対する信頼が辛うじて残っているからだ。
「そうか。大変だったな」
僕の説明を聞いた玲さんの、第一声はそれだった。そして、彼は頭を撫でてくれる。子供扱いされているようで恥ずかしかったが、されるがままでいた。
「もし、なにか困ったことがあれば、俺も助けになる。前にもそう言っただろ? 好きなときに頼ってくれ。お前は、俺のもう一人の弟だ」
全てがどうでもよくなりそうだ。玲さんの優しさが、身に沁みる。さりげないものでなく、直接的な。
「はい。それじゃ、また今度」
僕は走り出していた。袋から菓子パンが落ちないように、気をかける余裕もなかった。他に、落とさないようにするものがあったからだ。
家に帰ると、深呼吸を繰り返した。袋は玄関に置いて、背中から扉に寄りかかる。扉に背中が擦られても痛くはなかったが、汗が気持ち悪い。ひたすらに、未だ落ち着かない呼吸を鎮めようと努める。
後ろから僕を呼ぶ玲さんの声が、まだ追ってきていて、扉の前で足踏みしているような気がした。考え過ぎだ。
優しさを素直に受け入れられたらいいのに。今は駄目だ。氷のように固めた感情が融けてしまう。闇に溶けるのよりは、余程いいのかもしれない。だが、今はまだ……。
呼吸がようやく整ってきた。気管支には痛みが残る。一度、シャワーでも浴びて気分を変えた方が良さそうだ。風邪だけは御免だ。
ゆっくりと立ち上がって、袋を手に提げる。そこで、インターフォン。僕の心臓は、湯を沸かしたやかんに触れた手の如く飛び跳ねた。
まさか、玲さんがここまで来たのか? 玲さん自体に問題はない。その優しさに問題が、いや、自分の方が受け入れられないだけだ。少しでも、玲さんと話したのが間違いだった。気づかないフリをして帰れば、こんなことにはならなかったのに。
恐る恐る来客者を、ドアの小窓から確かめてみる。扉の前に立っているのは、メアだった。
安心すると同時に、疑問も湧く。それは直接訊けばいい。僕は重くなった腕を伸ばして、ドアを開けた。
「あ、焦斗くん。やっぱり、学校には行ってなかったんだね」
「どうしてわかったんですか? それに、メアさんこそ学校はどうしたんです?」
「学校に行っていないっていうのは、リレンの推理だよ。昨日、焦斗くんは私服で家に来たでしょ? いつもは制服なのに。だから、もしかしたら数日は休むんじゃないかって。もしも、家にいなかったらいなかったで、帰っていたんだけどね。今日は、私も学校をサボったの」
「なにかあったんですか?」
「うん。リレンのところに依頼が来たから、調査をね」
メアが学校をサボったと聞いて、なにかがあったと察するくらいの能力は、僕にもついたようだ。
「わかりました。今すぐに行きますか?」
「できるならだけど」
彼女は僕の後方にある袋に目を留めていた。あの中に、冷やさなければいけないものはなかったはずだ。
「大丈夫です」
「ありがとう。また付き合わせちゃって、ごめんね」
「やることがなかったので、丁度いいですよ」
学校を休んで、人が死んだ場所へ赴くというのが、正しいことでないのは確かだ。しかし、大した理由なく学校を休んだ時点で、なにをするにしても、それが正しいと思うことはできないのだろう。
「負担になっていなければいいんだけど」
「大丈夫です」
機械のように、大丈夫ばかり言っている。自己暗示も多分に混じっていそうだ。自分は大丈夫なのだと、そう思いたくて。
メアが自転車に跨ったので、僕も自分の自転車に乗る。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
彼女と自転車で行動するのは何度目だろうか。推理をするのはリレンなのに、メアと共にいることの方が多い気もする。それとも案外、半々くらいなのだろうか。
「そういえば、沙音のことだけど、彼女の両親には教えなかった。私は沙音じゃないけど、沙音も言って欲しくないんじゃないかと思ったんだよね」
「僕も、そう思います」
真相を知っているのは、限られた数人だ。中には、言った方がいいという人もいるかもしれない。志島は言うだろう。屋上で授業をサボるような生徒だが、筋は通す性格に見えた。
だが、僕は、僕とメアは、目城先生と沙音さんとの関係に、第三者が立ち入ることを拒んでいる。家族として見れば、目城先生こそ第三者になってしまうが、二人は恋人ともどこか違う、特別な関係であったように思えるのだ。
目城先生と沙音さんとの間で交わされた、空想的約束。海美が取り次いだものだが、そこに誰も介入して欲しくない。
僕らは悪だ。とても自分勝手。真実を明らかにしない。沙音さんが自殺だと取り上げられることで、学校に責任追及がいくことや、沙音さんの両親が責められることだって考えられる。
それがわかっていてなお、僕にも、メアにも、真実を曝す気はない。これは正義とは言えない。だから、僕らは悪なのだ。行動が正義でなければ、その逆には悪しかない。
僕もメアも、繋がりを求めているのかもしれない。大切な絆を失って、仲間を求めていて、秘密を共有したいのかもしれない。これらは、あくまでも憶測。自分の気持ちなのに、憶測しかできないのが歯痒い。
だが、憶測にならざるを得ない。僕は悪者ではないはずなのに、悪でしかない行為を、そうでなければいけないと考えてしまうのだから。自身が矛盾してしまえば、僕の本当の姿なんて、僕にはわからない。
犯人に復讐したい。殺したい。なのに殺せない。いろいろと理由をつけて、叔父を見逃した。結果的には、それが正解だったわけだが。
万人共通のモラルやルールは窮屈だ。それは漠然と理解していた。でも、自分の中にも縛りがあること。それには気づいていなかった。僕は全ての行動が、遵守すべき法などで縛られていると思っていた。だが、それだけではない。僕の感情や肉体も、ある意味では僕という人間を縛りつけている。
犯人が叔父でなければ、殺していた? それとも、見逃していた? これから犯人がわかって、知人だったら殺すのか、見逃すのか?
答えが簡単に出る問いではない。だが、回答者は僕だ。選択肢はいくつもある。正解だって、一つじゃない。なら、僕はどうするべきなんだ? なにを選んだって正解と見ればいいのか、どれを選んだところで、僕が満足し得ないと納得すればいいのか。
犯人を殺す。知り合いなら殺さない。場合によっては僕も罪を背負う。リレンを信じない。勝臣さんの言うことは信じて、リレンを殺す?
守りたいもの。唯一の親戚である叔父。親友である悠、幼馴染の海美。僕をもう一人の弟と言ってくれた玲さん。沙音さんと先生の繋がり。僕と他人との繋がり。そして、全ての同族を失ったというリレンと、両親を失ったメアの二人。
僕はなにを信じて、なにを信じなければいいのか。なにを残して、なにを捨てればいいのか。
「焦斗くん、大丈夫?」
メアの声で、我に返った。茫然自失としたまま自転車を漕いでいるうちに、目指す場所に到達していたらしい。事故が起きなくて良かった。
「はい。大丈夫です」
本当は大丈夫じゃない。もうわかった。これは、やはり自己暗示だ。
「無理はしないでね。寝不足でしょ? 目の下の隈がひどいよ」
「そうかもしれません。でも、大丈夫です」
心配されると、泣きたくなる。だから、心配されたくない。
僕は「死」に慣れたと思っていた。これも間違っているのかもしれない。僕はただ、いろいろなものを受け止め、受け入れなかっただけなのだと思う。
我がこととして、身体の一部として、受け入れずに逃げてきた。それも、無意識のうちに。だから、出会ってきた数々の死を、無造作に転がる情報として、ひたすら脳にインプットしてきたに違いない。
おそらく、兄の死体を見た瞬間から、そうなのだろう。多くのものを受け入れないで、情報として処理していれば、感情も湧かずに、淡々としていられた。
死に慣れた原理は、単純なことだった。現実逃避。この四字熟語で説明できる。それが故意ではなく、自分でも気づかないほど巧妙に、自身の中に刷り込まれたせいで、気づかなかっただけだ。
「メアさん、僕はようやく、本当の意味で全てを受け入れられそうです」
罪を背負う。叔父が犯人だと自白したとき、そう考えながらもその実、償い方は思いつかなかった。それはやはり、背負うというのが、単に脳から発した電気信号だっただけで、心は受け入れていなかったからなのだろう。
「よくわからないけど、わかったよ」
「わからないのに、わかったんですね」
「あ、これは言葉の綾というか……言いたいことはわかるよね?」
「わかりますよ」
満足気に笑んだメアに対して、僕も笑みを返した。久しぶりに、笑った気がした。多分、ぎこちなくなっていると思う。それでも良かった。多分、笑えたことに意味があるのだ。
そう思って、あるいは思い込んで、周りを見回した。すると、どこか見覚えがある。
僕らがいるのはアパートの一室の前だ。周りが全く目に入っていなかったために、気づかないでいた。もし、メアとのやり取りを誰かに見られていたらと思うと、耳が熱くなった。
「ここで、人が亡くなったんですか?」
訊ねながらも、周囲を見通す。知り合いが住んでいた記憶もない。一体どこで見たのだろうか。
「うん。昨日の晩、発見されたみたいだよ。パトカーが来ていたらしいけど気づかなかった?」
「ああ、思い出しました。確かに、昨夜パトカーを見てます」
リレン達の家からの帰路で、パトカーの群れが停まっているのを見た。そのとき、気になって動かした視線が、ここを捉えたのだろう。
「でも、それなら、証拠品はほとんど持ち出されていると思うんですが」
「私もそう思う。けど、リレンがいるから」
メアはショルダーバックを軽く叩いた。今日もリレンは起床済みらしい。夜行性の吸血鬼なのに、ここしばらくは家の中でとはいえ、朝でも活動している。身体は大丈夫なのだろうか?
「それに、警察が自殺と判断した場合、捜査は行われない。焦斗くんのお兄さんもそうじゃなか った?」
「いえ。僕の場合は、一応調べてくれていたみたいです」
「変だね。お兄さんが首を吊った状態で見つかったなら、すぐに自殺って判断するはずだから、捜査はないはずなのに」
確かに不自然だ。だが、自殺かどうか疑わしいから、というだけかもしれない。
「リレンにくる仕事は、後を絶たないんだ。どうしてか気になって調べてみたんだけど、世の中には、他殺としか思えない状況でも、自殺という判断が降されることもあるらしいよ。あまり、そこは気にしていないんだけどね。
私とリレンは、その全てに関わるわけじゃないから。目の前にいる依頼人にだけ気を向けていれば、それでいい。リレンの受け売りだけどね」
その辺りは、僕の手には及ばない世界だ。僕にできることといえば、目の前で自殺しようとしている人を止めることに、挑戦するくらいだ。止められるかはわからない。でも、それが正しいのかもわからないままに、挑戦することだけならできる。
「僕もそれでいいと思います。腕の長さは決まっていて、手の届く範囲を限界以上には広げられません。もし泣いている人がいたら、頭を撫でてあげる。それくらいでいいと思います」
そう、それでいいんだ。その少しの優しさに、僕は救われた。おかげで、僕は心を深淵に堕とすことなく、保っていられる。
「焦斗くん、一つだけ物申すけど、手の届く範囲に限界はないんだよ。足があれば、人はどこまでも歩くことができるから、近づけばいいもの。私は少しでも、広く手を伸ばしたいと思っているよ。リレンみたいにね」
確かに、メアの言う通りだ。優しさを向ける範囲に、限界などない。好きなだけ、広げることはできる。
「それも、いいと思います。ただ、腕は二本しかありませんから、無理はしないでくださいね」
「そうだね。うん。なんだか、焦斗くん、急に話すようになったね。今までは相槌だとか、返事だとかしかなかったのに」
そうだったろうか。思い返してみると、確かに会話らしい会話は少なかったような気もする。学校では、よく話していたと思うけど。
「あまり憶えていないです。それよりも、早く調べましょうよ。鍵は開いているんですか?」
「今は閉まっているけど、大家さんから鍵を借りたから開けられるよ。少し待ってね」
メアはショルダーバックの中身を漁り、ところどころ傷のついた鍵を取り出した。鞄の中で付いたのではなく、元々あった傷だろう。持ち主は雑に扱っていたのかもしれない。
メアは鍵を差し込むと、そのまま捻って扉を開けた。中からは微妙に、風が熱を伴って漏れ出して来た。扉を開け切ると、玄関があり、靴がそのまま置いてある。
ヒールやブーツなどが並んでいる様子から、女性の部屋だとわかる。この家もまた、兄の部屋と同じく、時の止まった空間だ。主を亡くした哀れな部屋。僕は目を瞑り、黙祷をしてから、家に上がった。
玄関から短い廊下を経てリビングに着く。キッチンもこのリビング内にあり、木製で襖型扉の向こうには、部屋があった。扉は開いていて、見る限りでは、完全な私室だ。死者の名残が強く残っていて、生々しかった。
『いてくれて良かったわ』
スピーカー越しの声が聞こえて振り向くと、液晶画面にリレンの顔が映っていた。そういえば、画面越しに浴びる太陽光は問題ないのか。でなければ、こうも易々と出られはしないだろうが。
「なにが良かったんですか?」
『君の叔父は、兄を殺していない。彼を目撃した人が、駅にいたの。夜遅くで人も疎らだったから、覚えていたらしいわよ』
「そうですか」
安心した。それが聞けただけでも、メアについてきた意味があった。
『ただ、あくまでも、君の叔父が直接手を下したわけじゃないというだけ。あまり考えられないけど、誰かに依頼した可能性だってあるわ。それだけは気をつけて。私の中では、それなりに納得はできているのだけどね』
「なにが納得できたんですか?」
『全てがわかったら話すわ。それまでは、ごめんなさい』
「わかりました。待ちますよ。早い方が嬉しいですが」
勝臣さんの示した、リレンを殺す計画の期限までは、あと二日。それが、今日を含めて二日なのか、今日から二日後なのか、そこは正確に把握できていない。だが、電話が来たとき、決断をすればいい。ギリギリまでは、悩むことにする。
『私も迷惑を掛けたお詫びに、早く犯人を見つけたいと思っているわ。ただ、片付けないといけない問題があるのも事実。前回に引き続き、付き合わせてしまって悪いけど、協力して欲しいの』
「協力くらいしますよ。それが結果的に、僕が犯人を知るのが早まる結果に繋がるんですから」
焦りは禁物だ。急いて判断を誤ってはいけない。
「とりあえず、調べましょうよ。今日か明日中には、この事件が終わるといいですね」
『私もそう願うわ』
リレンは瞳を伏せた。その瞳に、光が反射している。液晶画面のようだが、どうもビデオ通話の画面とは違う。……これは、通販サイトか?
リレンのいる部屋が暗いせいか、よく見える。彼女は携帯電話の液晶を見ながら、手元にもインターネット環境に接続できるなにかで、通販サイトを見ているらしい。なにか、必要なものがあるのかもしれない。
「必要なものがあるなら、買ってきましょうか? 今回の事件に関係があるんですよね?」
『え? いいえ。特にないけど、どうして?』
「通販サイトを開いていませんか? だから、なにか必要なのかと思って」
『よく見えたわね。でも、その必要はないわ。まだ、欲しいものを探しているところで、見つかったわけじゃないし、この依頼にも関係ないから』
「そうでしたか。それなら、差し出がましいことをしました」
『そんなこと思わなくていいのよ。とりあえず、部屋の捜索を頑張ってちょうだい』
僕は頷いて、リビングをざっと見回してみた。中央に背の低めなテーブル。縁が木製で、中央が楕円形の硝子になっている。上には、カップと皿がある。ここからではカップの中身は見えず、皿の上にはなにも載っていない。フォークは添えられていた。
そうしたテーブルの横には、二人座りができそうなクッションに似た質感のソファがある。座布団が二枚、背もたれに立てかけられていた。
窓の側にはテレビが設置され、テレビを乗せた台の中には、多くのDVDが見える。ジャンルは恋愛系が多そうだ。
視線をずらすと、ソファの後ろにある棚が見える。食器棚だろう。その上に は、何輪かの白百合を挿した花瓶がある。まだ生き生きとしていて、実は部屋の住人が生きているのではないかとさえ思ってしまう。
キッチンと、住人の個人的な部屋、寝室となるだろう場所は、動かないとよく見えなさそうだ。
「ところで、僕らはなにを調べればいいんですか?」
証拠品か、凶器か、住人の人柄か、判別ができない。
『今回は凶器ね。警察は亡くなった人が、服毒自殺とだけ発表しているけど、それがどんな毒なのかまでは公表されていないわ。また、遺書も発見されていない。
まずは毒物、あるいは薬物を見つけて。それがなければ、犯人が持ち込んだと考えられるし、他殺の可能性が高まるから。私個人としては、遺書もない以上、他殺だとは考えているけどね』
確かに遺書がない。自殺する人が必ずしも遺書を認めると、僕には言いきれないが、心情を考慮するに、あることが多いのではないだろうか。
親しい人が一人でもいるのなら、なぜ死のうと考えたのかを説明しようと思うだろうし、またある人は、警察に迷惑を掛けたくないから、という理由だって浮かぶかもしれない。
だが、考えるより動いた方が早い。まずは、毒になりそうなものを探すことにした。
まず、視界が捉えるのはテーブルの上にある、皿とカップ。これが気になった。飲食物に毒が混入していたというのは、フィクションでよく見る常套手段だ。
近づき見てみると、カップの中には茶色味を帯びた液の蒸発痕が残っていた。麦茶や烏龍茶に近い色合だ。このカップはティーカップのようだから、紅茶という可能性もある。飲んだことがないから、茶色の紅茶があるのかはわからないが。
カップから読み取れるのは、これくらいだ。次は皿の方へ視線を動かした。縁が丸味のある襞状になっている皿。その上には、一見なにもない。しかし、目を凝らすと、黄色い欠片がある。近づき指をつけてみると、時間が経って固くなっているが、スポンジだ。ほんのりと甘い匂いもして、ケーキやそれに類するものが原形だったのだと思う。
「リレンさん、これ、ケーキみたいなものなんですが、これに毒が仕込まれていたというのはありますか?」
『確かにあり得ないことはないわね。ただ、その場合は、警察も怪しむかもしれないわ。例えば、そのティーカップの飲み口や、フォークの尖端に毒が塗られていたとしたら、工作性を感じずにはいられないでしょう? 自殺するのに、わざわざそんな凝る必要はないもの。
食器類から話を戻して、飲食物に毒を混入したというのなら、自殺者はその毒入りケーキを食べ切ったり、毒入りの飲料を飲み切ったことになるわよね?
遅効性の毒として例を挙げると、有名なのはトリカブト。これは食後、十分から二十分で症状が発症すると言われているの。
でも、毒が入っていると理解しながら、そんなものを食べ切れる? それは、なかなかに度胸がいることだし、私にはその心理がわからないわね』
そうか。今回は警察が、この事件を自殺と判断したという前提がある。それに則った上で、使われたであろう毒や、死に至った原因を探さないと行けないのか。
「すみません。そこまで考えられていませんでした」
『考え方はいいわ。思いついたことを言うだけでも、それが答えに近づくことだってあるの。だから、気にしなくていいのよ』
「それなら、良かったです。少しでも真相に近づけるよう、頑張ります」
そして僕は、再び室内を見渡した。
しかし、ほかに怪しく思えるようなものはない。
テレビを観たら毒で死んだなど、荒唐無稽な話だし、花瓶に活けられた白百合も、何事もないように佇んでいる。
毒物は警察が既に持ち去ったという可能性はないのだろうか。自殺と判断したのだとして、厳密な捜査が行われなかったとしても、毒物が死体の中にしか残っていなければ、見つけることはできない。
「例えばの話ですけど、既に毒物がない可能性はありませんか?」
『あり得るわよ。私が直接現場にくれば、それでもなにかがわかると思ったのだけど、私は毒に詳しいわけでもないから、難しいかもしれないわね』
「そうなんですか? 毒って、自殺のメジャーな方法だと思っていたんですが」
『そうなんだけど、青酸カリを試してみたら、摂取量が人の致死量を超えたのに、なにも起きなかったの。多分、私の体には毒が通じないのね』
それで、毒を調べるのはやめたのか。効かないものの知識を細部まで深めるよりも、新しい自殺方法を試した方が、自殺できる確率が上がりそうではある。
『とりあえず、なにかを見落としていたら困るし、できうる限りの場所を調べてくれると助かるわ』
「わかりました。頑張ってみます」
気が引けるが、僕は住人の寝室へと足を踏み込んだ。あるのは主に、化粧台、ベッド、木棚。おそらく、棚の中には衣類が入っているのだろう。
この中で唯一、手が出せそうなのは化粧台のみだ。大鏡の前に机と椅子。椅子は丸椅子で小さい。机には引き出しがある。これは、確認すべきなのか。
一個一個、引き出しを開けて中を確認する。しかし、化粧品をいくら確認したところで、メーカーも知らなければなにに使うのかもわからないこれらが、毒になるのかは当然わからない。
僕にも知識があれば。そう思わずにはいられない。
そして、そのまま、新しい情報を得ることはなく、報告のため依頼人の家に赴くことになった。




