3-1
「そこの君、ちょっといいかい?」
帽子を被ってリュックを背負った、怪しげな雰囲気を醸す男性が近づいて来た。時間は夜。性別上、こういう不審者に話しかけられることはないと思っていたのだが。
自分より力はあるだろう相手を無視する度胸もなく、応対してしまう。
「君、あの家の人と知り合いなの?」
声は若々しいが、三十代から四十代くらいだろうか。彼が指すのは、リレンの家だ。
「一応、そうですけど、新聞勧誘とか宗教勧誘ですか?」
いくら勧誘しても効果がないから、近くで待ち合わせをしていそうな僕に声を掛けてきた。そんなところだろうか。
「違う違う。まあ、身構えるのもわかるよ、わかる。けど、聞いて欲しい。君は知ってる? あそこの家には、吸血鬼が住んでいるってことを」
「え?」
なぜ、この人はそんなことを知っているのか。過去に依頼人だったのか?
「どう、信じる?」
「いや、到底信じられませんね」
この男はまだ疑わしく、信頼に足らない。気持ちのブレが表に出ないように心掛けながら、僕は答えた。
「そうかあ。まあ、そうだよね。あ、俺はフリーのライターなんだ。そして、とある吸血鬼について調べている」
とんでもない人と出会ってしまったと思いつつ、名刺を受け取った。しかし、明記されていたの はフリーライターというのと、名前だけ。誘蛾灯に照らされて見える黒い字は、勝臣豊と印字されていた。
「そして、こっちの記事を見て欲しい」
リュックに手を突っ込み、彼が取り出したのは、一枚の記事の切り抜きだ。
心許ない明かりの下で読むと、見出しは「民家全焼、少女はどこへ?」となっている。
文字まで読む気にはならなかったが、被害だけ見ると、とある三人家族の住宅が燃え、両親の死体は発見されたが、一人娘である少女だけが見つからなかったらしい。
これを見せる目的が理解できず、目を走らせてみたが、途中でその目が見開かれた。
「お、どうやら見つけたみたいだね。言いたいことがわかる? 俺は吸血鬼が、いつでも血を吸える給油タンクのような存在が欲しくて、こんなことをしたんじゃないかと疑っているんだ」
行方不明の一人娘。その少女の写真が載っていた。おそらく、小学生くらいの年頃だ。その少女は、メアによく似ていた。
「これは失月市から離れた町での事件だ。そして、次はこっちの記事」
どこになにが入っているのか、彼は全把握しているようだ。淀みなく新たな記事を出す。
次の見出しは「吸血鬼出現?」だ。読み進めると、首筋に細い穴があり、血を抜かれている死体が連続で何人も見つかっているという内容だった。
これは、悠が言っていた最初の都市伝説と被っている。リレンの介護施設での一件以来、僕は彼女が犯人の血を吸って動けなくしていることが、歪曲して伝わっているのだと思っていたが、実際に起きていたのか。
「更に言うと、この市の名前の由来だ。ここに、彼女が移住した理由があると思う」
信用はできないが、それでも彼の話は真面目に聞くべきだと思った。どうしても忘れ去ることができない、東堂さんの言葉が蘇るからだ。
「失月市は、『うつきし』と読む。だが、元々は『しつげつし』と読むんだ。その所以は、かつて、この市があった場所は村だったんだが、失血死が多く発生したことからで、『しっけつし』が起源らしい。縁起が悪いと、変えられたようだがね。
そして、その失血死に纏わる事件を解決するために、多くの人々が訪れ、そうした経緯で発展していったのが、現在の失月市らしい」
聞いたことがない。市の名前に興味が湧いたことさえなかったし、せいぜい考えるとしても、その名の通り、月が消える新月から取ったのだろうと、それくらいしか考えなかった。
「この話の結論は、なんですか?」
おそらく、リレンのことを言っているのだろう、この怪しい人物は、僕にこの話をして、なんのメリットがあるのか。
「一緒に、吸血鬼を殺さないか?」
「吸血鬼を殺すんですか」
「そうだ。奴はヒトにとって害悪でしかない。吸血鬼を増やされて、多くの犠牲を生むわけにはいかないんだ」
確かに、吸血鬼といえば、悪いイメージを抱く。しかし、リレンに対しては安易にそう思えない。
僕の反応が芳しくないことに気づいたのか、彼はリュックから資料をいくつか取り出した。
「まあ、気が向いたら連絡をくれ。資料の中に、電話番号もメモしてあるから。じゃあ、また今度」
彼は闇に向かって歩き出した。急いでいるらしく、足取りは早い。渡された資料の妙な重みを実感していると、肩を叩かれた。
「どうかしたの?」
いつの間にか、背後にリレンが立っていた。ゆったりとした黒いローブに、蝋のように白い肌、氷のように冷たい手。いつも通りの彼女だ。
「いえ、なんでもないです」
僕は彼女を信じていいのだろうか。先刻、演技というのを見て、演じるということの凄さを体感したばかりなのだから、信じられないのも無理はない。
「それじゃあ、行きましょうか。覚悟はできた?」
「はい。たとえ、誰が犯人でも、僕は受け入れます」
今回、僕には罪人を裁く権利がある。兄の遺族なのだから、あって当然だ。犯人を許すか、許さないか。殺すか、殺さないか。その選択も、僕に委ねられている。
抽象的に見れば、被害者の味方かつ加害者の敵である彼女は、僕を咎めはしない。
僕の責任は、全て僕のものだ。
「また、私が連れていくわね」
僕はリレンに近づいた。今までよりスムーズに、僕は抱きかかえられる。そして、リレンは空を切り屋根の上を駆ける。
今日、学校でリレンに犯人が判明したことを報告された。
しかし、犯人の名前がその場で明かされることはなかった。そしてその場で、僕が覚悟を決める時間と、リレンが動くことのできる時間を兼ねて、今夜、直接犯人の元へ出向く手筈となったのだ。
彼女は僕を、どこへ連れていくのだろうか。犯人の所在地を知っているからこそ、彼女は迷いなく跳ぶことができているのだ。
兄殺しの犯人が、一体誰なのか。考えを巡らせていると、リレンの速度が緩められていくのを感じ取れた。
閉じた目を、更に強く閉じる。犯人を見つけて、殺したいはずなのに、同時に見たくない気持ちもある。
リレンが着地した。動きは止まり、僕の体が彼女の冷えきった手から離れる。もう少し、冷気で落ち着く時間が欲しかったかもしれない。
「さあ、犯人はここにいるわ」
僕は瞼を開いた。そして、そのまま凍りついた。
「嘘……ですよね?」
「本当よ」
リレンが、僕らが降り立った場所は、僕の家の前だった。
なんの冗談だろう。この家に今いるのは、叔父だけだ。まさか、あの叔父が、犯人だなんてあり得ない。
しかし、リレンは僕の心を読まずに、門柱を越えて玄関へと向かっていく。僕の足は動かない。
「覚悟は、できていたのよね?」
彼女は無情にも問う。振り返ったリレンの瞳は紅く、吸い込まれそうとは思えなかった。初めて、彼女が怖いと感じた。
「それなら、真実を受け入れるべきよ」
彼女の言葉は、彼女が暴走したときに、首筋に刺さらずに済んだ牙よりも鋭く、僕の心に突き刺さる。
僕には、覚悟ができていた。真実を受け入れる覚悟が。しかし、それは、覚悟ができたつもり、だったのかもしれない。
僕は、本当に覚悟ができていたのか? なぜか、こんなときに、崩れたコンクリートの幻覚を思い出した。悠に、玲さんが犯人かもしれないと言われたときに見えた幻。
僕は、足を動かせない。怖いからだ。真実を知ることが。兄を殺したのが、誰なのか、もう知りたくない。
「あなたは、兄を殺した人のことを許せるの? 話も聞かずに、許せるの?」
許せない。許せるはずがない。兄は僕の大切な、最後の家族だった。その兄を殺した人を、許せるはずがない。
しかし、叔父だって優しい人なんだ。それなら、もし本当に兄を殺したのなら、理由を聞かないではいられない。
相応の理由があったはずだ。ただ、どんな理由があろうとも、正当化はできない。僕にとって、簡単に見過ごせる問題ではないから。
「わかりました。僕は、受け入れます。そして、どうして殺したのか、訊きます」
リレンは強く頷き、扉に顔を向き直した。その間際、整った横顔に哀しそうな表情が表れたように見えた。気のせいだろうか。
家を出るときに掛けた鍵を開ける。横滑りな引き戸を開けて、中に入った。これまで何度も来た場所なのに、空気が体に重くのしかかってきた。
「おかえり。思ったより早かったな」
リビングから、姿の見えない叔父の声が届く。平静な声で、僕の心はまた揺さぶられる。
「うん。ただいま」
感情が外に出ないように努めたが、震えていた。
「焦斗、どうした? 具合でも悪いのか?」
僕とリレンが靴を脱ぐと、叔父は僕の声に違和感を覚えたらしく、足音が聞こえた。
床を踏み鳴らす音が近づいてくるたびに、心臓を強く殴られたような衝撃を感じる。
来ないで欲しい。来ないで。来てしまえば、あなたは。
僕の声にならない願いは虚しく潰え、叔父に届くことがなかった。
「その人は誰だ?」
叔父の顔を見ていられなかった。そんな僕に代わって、リレンが自己紹介をする。
「初めまして。私は自殺判断を頼まれた探偵よ。そして、幹人さんを殺した犯人を探していた探偵でもあるわ」
「犯人がわかったのか?」
叔父はリレンにではなく、僕に訊いてくる。
「そうらしいよ」
顔を背けたまま、僕は諦め始めていた。もう、流れに任せるしかない。受け入れるのと、諦めるのは違う。わかっているのに、僕は鈍る決心を研ぎ直すことができない。
「犯人は、誰なんだ?」
叔父の声には緊張感があった 。なにも怪しくない、自然な反応だ。しかし、それまでもが怪しく見えてしまう。信じたくないが、心の内奥では、叔父を犯人だと認めてしまっているのかもしれない。
「あなたが犯人よ。市崎幹人を殺したのは、あなた」
言い聞かせるようなリレンの声が、空間に波打つ。波はゆっくりと広がり、叔父の元へ届く。
「俺が犯人? なにを言っているんだ?」
僕も叔父のように感じられたら良かった。だが、今までにリレンの推理を目の当たりにしてきた僕には、それがとても難しい。
リレンは答えず、叔父に近寄っていく。
「リレンさん?」
その様子を怪しく思って声を掛けるが、彼女の動きは止まらない。もしかして、また暴走を? 血は失っていないはずなのに。それとも、叔父が暴れることを危惧して?
どちらなのかを見極めようとして、僕はジッと二人を視界に収める。叔父は居心地が悪そうなのと、不思議さを同居させた顔をしている。
リレンの顔が叔父の顔に近づく。背の高さは叔父が上だ。そのまま、首筋に噛み付いてしまわないかと身構えたが、そんなことはなく、彼女の顔は叔父の耳元で止まった。
僕には聞こえなかった。リレンがなにを囁いたのか。それは、リレンの声が小さかっただけで、僕の意思が聞こうとしなかったわけではない。
しかし、その言葉の威力は見えた。
少しの間、気の抜けた顔を叔父は浮かべる。続いて、呪いの言葉を聞いたとでも言わんばかりに、顔から血の気が引いていった。リレンは牙だけでなく、言葉でも血を吸えるのかと思うほどだ。
「叔父さん、どうしたの?」
世界が高速で回転して見えているのだろうか。叔父の黒い瞳はグルグルと動き回る。どこか逃げ場を探しているのに、四方を壁に阻まれているみたいだ。
「俺が、犯人だ」
逃げ場がないことに気づいたのか、それとも動き回って疲れたのか、黒点が静止したのち、叔父はそう呟いた。
「どうして? どうして、兄さんを殺したの?」
叔父は答えなかった。しかし、助けを求めるようにリレンを見る。
「君とお兄さんは、この人に経済的援助を受けていたのよね? そのお金がどこから出ているか、考えたことはあるかしら? 筋書きはこう。この人は君の兄を、借金の連帯保証人にした。そして、多額のお金を得て君とお兄さんの援助をしていた。
お兄さんも、君のためと言われれば従ったでしょうね。そして、この人は各地に旅行をすることで、借金取りから逃れていた。
すると当然、連帯保証人のお兄さんが狙われるわよね。この人はそれを阻止するために、自殺に見せかけてお兄さんを殺したのよ。そうすれば、君が狙われることはないだろうと、そう考えてね」
リレンの淡々と述べられる推理を、頭の中で理解するのに時間がかかった。しかし、思い当たる節はある。
兄が頑なに、叔父による援助を断る態度を見せていたことだ。あれは、お金の出処を理解していたか、察していたからこその態度だったのかもしれない。
それに、これで叔父のいくつかの行動にも納得がいく。仕事をしている様子はないのに、お金に余裕があったり、様々なところへ旅に出ていた理由。
それらに、説明がついてしまう。
「本当に、叔父さんが犯人なの?」
静閑。そして、短く。
「ああ」
叔父は、改めて自分が犯人だと認めた。
「さあ、犯人がわかったわよ。君はこの人を殺すの? それとも、殺さないの?」
「そんなの、決まっているじゃないですか!」
目の前にいる人は、僕と兄をずっと騙し続けてきた。そして、僕の将来と引き換えに、兄の将来を奪っていった人。
コンクリートが砕ける幻覚。そのコンクリートは、未だに修復されず記憶に残っている。
叔父は顔を俯けている。命乞いをしないし、僕のことを見ようともしない。
兄を殺した叔父が持つのは、許されざる罪だ。しかし、叔父を殺したところで、兄は帰ってこない。
そんなの、わかっている。
死の事実を捻じ曲げようとする人、ありもしない罪を被ろうとする人、背負わされた罪を持ちながら生き続けるリレン。
僕は、僕には、罪がある。
そもそも、僕がいなければ、兄は一人で生きられたんだ。経済的援助なんて要らないし、こんなことで死ぬ必要もなかった。
僕には、罪がある。それは、誰かみたいに、捏造した罪じゃない。存在していること、そのものが罪だ。
「叔父さん。罪を、償ってください」
叔父を殺すことはできない。兄が死んだことで生じた罪は、叔父だけが背負うものではなく、僕も背負うべきものだ。でも、僕一人では背負えきれない。
二人で、罪を償う。その形は、まだ見つけられないけれど。
「そう。それなら、警察を呼ぶわね」
「はい」
あとのことは、リレンに任せることにした。叔父はなにも言わず、僕にもこれ以上、掛ける言葉が見つからなかったから。




