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吸血姫は死を嫌う  作者: 天木蘭
二章.疑わしき

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10/24

2-3

 その日の夜、僕は窓を叩く規則的な音で目が覚めた。

 風のせいかと一瞬は思ったが、リズムがあり、自然な音には聞こえない。


 夜に窓を叩く音がする。怪談にはよくある展開だ。昼にリレンの家で電気が点滅したとき、彼女は兄の幽霊がいるのかもしれないと言っていたが、それを増長させるような現象でもある。


 意識は覚醒しながらも、まだ眠っている体をなんとか起こして、窓に近づいていく。

 カーテン越しに、月明かりが人影を浮かび上がらせていた。


 まさか、本当に兄が現れたのだろうか。夢枕という現象も、怪談にはよく出ている。そんなことを考えてしまうのだから、思考能力も未だ鈍っている気がした。


 暗くて今は色を判別できないが、青い色をした水玉模様があるカーテンを引くと、そこには女性が立っていた。


 漠然とそうでないかと思っていたのだが、やはりリレンだった。


 屋根の上に、あの黒いローブのような服を着て立っている。今日はカラコンをつけていないらしく、赤い双眸はまさに浮かび上がるようにして光っていた。

 僕の姿を認めたリレンは、ニコリと妖しい笑みを浮かべた。彼女に初めて会う人であれば、警戒するかもしれない。


 僕は別段身構えることもなく窓を開けた。蒸した部屋に、外から冷えた風が流れてくる。


「こんばんは」


 彼女の声は、長い服の裾がはためく音で、少し聞き取りづらかった。


「こんばんは、リレンさん。なにか用ですか?」


 思い当たるとすれば、犯人がわかったという報告くらいだが。


「ちょっと私用に付き合ってくれないかしら? 私一人だとできないことがあるんだけど、メアに手伝ってもらう訳にもいかなくてね」

「いいですよ」


 明日は土曜日だから、遅寝遅起きになっても問題はない。


「ありがとう。それじゃ、準備ができたら教えてね」

「いえ、このままでいいですよ。部屋着が駄目というなら着替えますし、必要なものもあれば、持っていきますけど」

「必要なものは、そうね、心の準備くらいよ。そのままでいいのなら、いいわ。それじゃ、前みたいに連れていくわね」


 前みたいにというのは、またお姫様抱っこをされながら高速移動を体験するということか。

 僕は裸足のまま、窓から外へ乗り出そうとしたが、彼女に止められた。


「やっぱり、靴はあった方がいいわね」

「わかりました」

 

 一度玄関まで行き、靴を手に取ると、また登っていくという工程を辿り、再びリレンの元に着いた。


 叔父は夜になると彼の家に帰宅しているため、泥棒のように忍ぶ必要はなかった。また、叔父は合鍵を持っていないため、持ち主が消えた兄の鍵を渡してある。


 昔、兄が鍵を失くしたことがあって以来、厳重に扱っていたが、叔父に対して警戒をする必要はないだろう。兄を殺した可能性はあるが、僕も殺すつもりなら、とっくに毒殺なりなんなりをされているはずだ。


 考えられるのは、叔父が犯人でないか、もしくは兄だけを狙っていたからか。


「多分、夜明けまでには帰ってこれるはずよ。市内の地理には詳しい?」

「一応、それなりに」

「なら、大丈夫そうね。じゃあ、行くわよ」


 リレンに抱えられて、僕らは飛んだ。正確にはジャンプだが、彼女は僕を両手に抱きながら、忍者のように屋根を伝い走り、ときに屋根と屋根の間を飛び越える。こんな時間に起きている人は、屋根を走る足音を聞いてしまうのだろう。それこそ、都市伝説になりそうだ。


 車よりも酔いそうな揺れを感じていると、月の動きも僅かなままに、彼女が向かっていた場所に降り立ったらしい。


 体を降ろされ、自分の足で立ち目を開くと、マンションが見える。


 見回すと、辺りにもマンションが多く並んでいるため、マンション群の中にある一つの前に立っていることがわかった。


「さて、私がやろうとしていることに、なんとなく察しはついた?」


 マンションの前に来ただけならば、誰かに会いに来たのかとも思うが、近況を理解しているから、それは少し考えたら判明した。


「飛び降り自殺ですか」

「そう、正解。私、飛び降り自殺は、まだ試したことがなかったのよね。たくさんの自殺方法をやってみたけど、飛び降り自殺の問題点は、落下後の私の体をどうするかだったから」


 彼女は熱いものを冷ます吐息のように、溜息をついた。


「自分で動くことは、できないってことですか?」

「ええ。再生はするけど、ゆっくりとなのよ。自殺をすれば、もちろん体の損傷はあるし、仮死状態に近くなると言えばいいかしら」


 なるほど。練炭自殺や首吊り自殺は室内でできる。つまり、他人に見られることがないわけだが、室内で飛び降りはできない。メアに頼むこともできなかったのか。


「どうして僕に頼むんですか?」

「少し前、死体を見ても、あまり動じていなかったからね」


 そういうことか。だとすると、メアはあまり死体慣れをしていないことになる。僕だって、死には慣れていても、死体は別物なのだが。


「わかりました。僕はどうすればいいんですか?」


 しかし、手伝うか手伝わないかも、また別だ。僕が死体を見て動じないのは、初めて見た死体が兄のものだったからだと思う。


 最も親しく、近い存在であった兄が死んだ姿を見た。それは、後にも先にも二度とない衝撃だろう。


 心を病まずにいるのが不思議なくらいだ。自分で病んでいないと思っているだけでは?と訊かれれば、確信を持って否定することはできない。


「この近くに、今は使われていない教会があるのは知っている?」

「知っています」


 僕が生まれるより何年も前には教会だったらしいが、廃れてしまって、今では心霊スポットのような扱いになっている。

 その教会にいた人々が亡くなっていき、次第に機能が働かなくなったのは、自然なことだったらしい。身近にも、信心深い人は見ない。


「私が落下したあと、多分、怪我をしているはずだから、あの教会に運んで欲しいの。できれば、個室に運んでくれると助かるわ。太陽光は、あまり浴びたくないから」

「それくらいなら大丈夫です」


 リレンの体重は軽そうだ。引きずるか背負うかはそのときに判断するとして、簡単だと思う。


「帰るのは歩きになるし、少し遠いからごめんなさい」

「一時間も掛からないでしょうし、事件を解決するには知識がないといけませんし、構いませんよ」


 僕の事件を終わらせてもらうためにも、メアの方は早く解決して欲しいというのが動機だ。


 ……どこまでも、自分のことばかり。


 リレンは僕の言葉に頷き、膝を折り畳んでから、大きく飛んだ。揺らめくローブは、羽のはためきのようにも見えてくる。

 彼女の姿は徐々に小さくなり、閑静な黒に溶け込み、見えなくなった。


 人が来ないかだけ心配をしていたが、まずは保身をするためにその場から離れた。降ってきたリレンに直撃したら大変なことになる。


 時計を確認してくればよかった。人通りが少ないことや、車の音が聞こえないことから、深夜なのかもしれないとしかわからない。

 距離を取りつつ、辺りに人がいないか、しっかり注意しておく。いなさそうだ。ある程度離れたら、リレンが僕に直撃する危険性は下がっただろうと考え、体を反らし気味に屋上を見上げた。


 月は雲に隠れたようで、全く光を漏らさない。電灯の明かりは高さが足りなく、マンションの上までは光を届けられず。

 冷たい夜風が吹き、体を身震いさせたところで、目が黒いモノを捉えた。マンションの壁を這うように黒いなにかが降っている。


 ブレもせずに芯がしっかりとしているそれは、あまりにも整い過ぎて、逆に不安を抱かせるほどだ。粘っこい影に纏われ、束縛されたようなそれは、紛れもなくリレンである。


 彼女は頭を下にし、足を上に向け、逆さまの世界の住人に見えた。

 その世界の住人となった彼女は、上に、上に、ひたすら進むが、それは僕から見れば地上で、目線が下に向いたときには、鈍い音を立てて、彼女は天を衝いていた。


 瞬間、足に痺れが走って震えた。ゴムと布でできている靴が、金属でできていると言われても信じられるほどに重い。

 それでもなんとかして、歩みを進める。積もった雪の中を歩くような、不自由な動きを繰り返して、地面に横たわるリレンの元に向かう。


 彼女の傍へ来たときには息が上がっていた。長い時間を経た気がするが、この世界は、なんら変わっていない。


 深呼吸をしてから、改めてリレンの姿をよく見ようとした。すると、雲が割れたらしく、月明かりが彼女の体を刺すように伸びた。

 折角、息が整ったのに、僕は呼吸を止めてしまった。酸素が肺へ送られていかない。

 コンクリートには、今もなお、血だまりが緩やかに、その領域を広げていた。


 赤黒く、毒々しく、気持ち悪く感じた。そしてその血は、月の光によって断罪されるように、強く照らされていた。

 

 僕は浅い呼吸を繰り返して、体内に十分な酸素を取り入れた。感じるはずもないのに、体内を循環している血液の流れを感じた。


 じとっとした汗で少し濡れた手を服で拭い、膝を曲げてしゃがみ込むと、僕はゆっくりと腕を伸ばした。触れると爆発する。そんな不穏なイメージが、なぜか映像として頭を過った。

 僕は首を何度か振り、彼女の腕に指先を触れた。そして、その一瞬で、異常は起こった。


「うわっ!」


 彼女の腕に触れたはずの手は、なぜか彼女の手に握られていた。突如襲った冷たさに、思わず手を振り切ろうとしたが、彼女の握力が強く、離してくれない。


 そしてゆったりと、蛇のようにくねらせながら、上半身だけが持ち上がっていく。

 すごい背筋の力だ。呑気にそんなことを思ったのは、この状況から半ば逃避しようとしているからだろうか。


 綺麗な曲線を描き反った背中に、不覚にも見惚れていると、彼女の首が勢いよく回った。長い髪に顔は隠れていたが、目が合ってしまったと気づく。

 僕の手を握ったまま、次に彼女は立ち上がろうとした。どうやら、僕を支えにして立ち上がるつもりらしい。


「驚かせないでくださいよ。それくらいなら手伝います」


 僕は膝を伸ばして立ち上がり、彼女を引っ張ろうと力を入れた。すると、振り乱れた髪の隙間から、彼女の顔が一瞬見えた。


 割れた額から、血はミミズのように這っている。赤い瞳は、より一層赤くなり、絵の具で塗りつぶしたようになっていた。僕はすぐに、彼女が正気じゃないと気づく。


 引っ張ろうとして力を入れた腕に、次は反対方向の力を注ぐ。しかし、僕の力が劣っていて、リレンでないなにかは、既に立ち膝状態だ。


 そして、吸血鬼は顔をこちらの方に近づけてくる。僕の足元に立ち膝でいる吸血鬼だが、今は僕を見上げている。


 皮膚を流れる血が、唇に近づいていた。口を開き、餌を求めて口をパクつかせる様は金魚のようだが、そんな可愛らしいものじゃない。


 口内には鋭い牙があった。刃物のように鋭く、鈍い音を立てて突き刺さりそうな、尖った牙が。

 そのうちに、重力も味方につけていた僕は、完全に形成が逆転していた。


 立ち上がった彼女は、僕をコンクリートの床に押し付けた。両脇の下に両手をつかれ、顔を僕の顔に近づけてくる。


 よもや、キスをするわけではないだろう。なにをする気なのか、ようやく理解した。コイツは、僕の血を吸うつもりだ。


 確かに依頼料として血液を対価にする契約はした。だが、今のリレンは正常ではない。致死量の血液を吸い取られる危険性がある。


「リレンさん!」


 人々が寝静まった時間なのも忘れて、思わず大きな声で彼女の名前を呼んだ。声は夜の中に浸潤(しんじゅん)して、スポンジを当てられたように吸い込まれる。

 そして、リレンに僕の声が届いたのか、単に怯んだのか、彼女の動きが一瞬止まった。直後、「あっ」とうなされるような声を出して、彼女は倒れこんだ。


 体にのしかかって来たリレンの顔を、ひとまず首筋から遠ざけながら、声をかける。


「リレンさん? リレンさん!」

「大……丈夫。教会に」


 どうやら、リレンに理性が戻ったらしい。


「わかりました。教会ですね」


 彼女の判断は的確だ。僕の声のせいだろう、マンションの部屋はいくつかが、明かりをつけ始めている。


 死にかけたというのに、先程までの焦りは嘘のように消えた。また、冷静な自分が戻ってきたようだ。

 恐怖などの感情が大きかった分、安堵も反動的に大きくなったのかもしれない。そして、冷静な自分を繕う余裕ができたのだと思う。


 密着した彼女の胸に、飛ぶような理性、というよりは弾ける本能を、僕はもう持ち合わせていない。だが、なるべく意識はせずに、下敷きとなった僕の体を這いずらせ引き出した。力が抜けた彼女の体は、思ったよりも軽い。


 少しして、僕はどうにかリレンを背負った。彼女の肌はやはり冷たく、背中に氷を乗せているような感じがする。

 さっきの格闘で火照った体を冷やすには丁度いいし、夜の風をやっと心地よく感じられる気がした。


「ごめんなさい」


 平常時とあまり変わらない足取りで教会へ向かっていると、リレンの呟きが聞こえた。


「気にしないでください。怪我もしませんでしたし、故意でないのなら、問題ありません」


 そこだけが心配だ。襲ってきたリレンが本性で、背中のリレンは演技だとすれば、東堂さんが言っていた言葉が虚ではなく実になる。


 もし、背負っている彼女の様子が急変し、僕の首筋に噛み付いてきたら、どうしようもない。今はただ、根拠のない信頼を支えにしている。


「前にも何度かなったことがあるの。ただ、まさか、飛び降りでなるとは思わなかった」


 僕の方としても、突然襲われるとは思わなかった。


「とりあえず、詳しい話は教会でしましょう。万が一、誰かに見られでもしたらまずいです」


 声を立てて他の人に気づかれたら、血塗れの女性を背負った人がいたと、新しい都市伝説ができかねない。

 車通りも人通りも少ないのは幸いだ。この付近は、教会のせいで人があまり来ない上に、心霊スポットにまでなっている教会は気味が悪いと、店も全くないのだ。


 市長も街周辺の発達に力を注いでいるようで、僕が生まれる前から、この近辺は変化が訪れることなく、時に取り残されている。

 こんなところに、しかも深夜に来る物好きはそうそういないと思いたい。心霊スポットだからこそ、不安はあるが。

 しかし、砂利を踏み鳴らす音だけが響く中、結局、誰にも会わずに教会へと辿り着いてしまった。


 木製の両開きの扉は、片方のノブが壊れていた。誰かが無理矢理こじ開けたように見える。心霊スポットとはいえ、仮にも教会なのだから、怖れはなくとも畏れは感じてもらいたい。


   そういえば、教会といえば十字架を思い浮かべるが、リレンがここでいいと言うのだから、改めて吸血鬼のアイデンティティが少ないなと思う。いや、吸血鬼というのが、人間の想像の産物なのだから、当てはまる方が不思議か。唯一、陽の光が弱点なのは、同じようだけど。


 扉を押して入ると、中は思ったより明るい。足元には窓ガラスやステンドグラスの破片が落ちている。

 夜の月の偉大さを実感しながら、僕は光の入らなそうな場所を求めて探索を始めた。


「ここでいいですか?」


 しばらくして、僕はリレンにそう訊ねた。本棚で埋められた書斎のような個室だ。辛うじて暗さに慣れた目は、床に散らばった本が聖書だということを認識できた。


「ええ」


 今にも消えてしまいそうな声で答えた彼女を、僕はゆっくりと床に降ろした。ここは他の部屋や廊下と比べれば、まだ荒れの程度が軽い。


「それじゃあ、僕は帰ります」


 踵を返して、僕は部屋の出口に近づいた。


「ちょっと待って」


 しかし、リレンに呼び止められる。蜘蛛の巣を避けながら、僕はリレンの方へ意識を向けた。


「なんですか?」

「話を聞いて欲しいの。まだ、時間があればだけど、私の昔話を」

「昔話、ですか」


 次は足元にある本を踏まないようにしながら、仰向けでいる彼女の元へ近づく。


 なぜ、突然リレンが過去の話をするのか検討はつかない。だが、今するというのなら、それにはきっと理由があるはずだ。


 星空の見えない室内だが、外の暗さだけは中にも伝わっている。僕の背中は血でベットリ濡れているから、最早、人に見られるわけにはいかない。しかし、リレンの話を聞くくらいの時間はあるだろう。それだけ、この闇は安心できる。


「わかりました。聞かせてください」

「ありがとう……。無難に、昔々から行こうかしら?」

「任せますよ」


 かくして、リレンの過去は回想されていった。


「昔、私は一人じゃなかった。百年、二百年以上も前のことね。私たちは全員が吸血鬼で、外国に過ごしていたわ。けれど、あるとき魔女狩りが始まったの。


 私たちの一族は、百人もいない少数の集団だった。けれど、いかに身体能力が高くとも、その何倍もの人間に襲われれば、捕まってしまうわ。


 私を含めて何人かは無事に逃げられた。何十人、いえ、あえて、人というべきではないのかもしれないわね。何十匹もの吸血鬼が、拷問に遭った。


 ただ、私たちは不死身の存在。拷問されても、ただ苦しいだけで死ねない。地獄よね。死なないように加減をする必要もない責め苦をされるなんて」


 ここまでで、僕は生唾をゴクリと飲んだ。拷問と言われて、思い浮かべられるのはそう多くない。爪をはいだり、十字架に括り付けられて火をつけたりだとか、それくらいだ。


 だが、リレン達は死なない。殺すつもりで、殺そうとしても、死なない。人間であれば、何十回、何百回と死んでいる、残酷な仕打ちを受けたに違いない。


 すぐ前にいるリレンが、そんな目に遭っていないことに安心したが、同時にいくつもの感情が絡まってもいた。


「拷問をしていた人たちは、私たちの不死の力に目をつけた。最初は魔女と信じて疑っていなかったけど、途中で思いついたみたい。拷問にかけられているのが、吸血鬼なのではないかと。気づいた過程は、想像したくもない。


 彼らは私たち吸血鬼に、自分らを吸血鬼にして欲しいと要求した。拷問に散々かけながら。それはもう、脅しね。でも、誰も屈することはなかった。こんな邪悪を、いつまでも残してはいけないと考えて。


 しばらくして、吸血鬼達が拷問から逃れるときが来た。吸血鬼はね、人間が脳にリミッターを掛けるように、吸血欲を抑えているの。人間社会にうまく溶け込むために、自然と生まれたものだと思うわ。

 でも、拷問で大量の血を流したせいで、そのリミッターが外れた。そうすると、意識が吸血欲に乗っ取られるの。なにも考えられないままに、標的に噛み付く。そして、致死量に関係なく、自身が満たされるまで血を吸い尽くす」


 リレンはそこまで言うと、長い息を吐いた。そのまま眠ってしまって、目覚めない気がした。


 彼女が屋上から飛び降りたあと、僕に襲いかかったのはそういう理由があったのか。リレンの想定では、そこまで多くの血を失う計算ではなかったのが、リミッターが外れるほどの血を失ってしまったから。


  「最近、あまり血を摂取していなかったから、今回のはきっとそのせいね。危ない目に遭わせてしまって、ごめんなさい」

「さっきも言いましたが、気にしないでいいです。僕は無事ですから。結果さえよければ、過程は問題ないって、リレンさんも言っていたじゃないですか」


 吸血鬼が彼女以外にいるのか訊いたとき、彼女はいないと答え、なぜわかるのかと質問を重ねたときに返された言葉だ。


 しかし、吸血鬼がそれだけいて、拷問も逃れたのなら、どうして今では吸血鬼が他にいないとわかるのだろうか。


「そのあと、吸血鬼はどうなったんですか?」


 リレンが答えないのなら、それはそれでいいと思った。薄々と、訊かない方がいい話だとは、勘付いたからだ。しかし、リレンはゆっくりと話し出した。とても、苦しそうに。


「さっきまでの話は、私があのとき一番好きだった吸血鬼の話なの。好きっていうのは、人間でいう恋愛の意味の方ね。

 そして、吸血鬼のリーダー格の、長老のような存在の吸血鬼は、ある決断をしたわ。


『苦しい思いをするくらいなら、この世界から消えてしまおう。人よりも、動物よりも力も知能もある我らだが、それでも、地球上に於いて種の頂点だとも、他を征服したいとも私は思えない。悠久の時に先が見えないのだから、生きる意味などないのだ』ってね。


 この人、私の祖父なの。その決定は皆の中で、私にだけ秘密にされた。朝に眠って、夜に目覚めたら、私以外の吸血鬼は、私の好きだった彼しか残っていなかったわ」


 人間からすれば、一晩で家族同然の人たちが、ほとんどいなくなってしまったような状況。そんなの、辛過ぎる。ただ、不思議なのは、吸血鬼はどうやって減ったのか。彼女は、その方法を続けて話した。


「吸血鬼を殺す方法ね、一つだけあるの。それは、吸血鬼の血を、他の吸血鬼が吸うこと。血が涸渇した吸血鬼は、周りに標的がいないと、自分から吸血して循環を起こすことができるの。

 でも、吸血鬼が他の吸血鬼の血を素早く吸えば、吸われた側は血を失うだけで、誰からも吸血できない。そして体内の血が一滴残らず消えてしまうと、吸血鬼は死んでしまうのよ」


 不死身の吸血鬼の殺し方。それは、悲劇しか生むことがない。死にたい者がいれば、同族で殺すしかない。自殺したい人を、人が殺すようなものだ。


 人間の中では安楽死さえ問題になっているのに、吸血鬼の間にはそれしか方法がない。


 ここまでくれば、先は読めてきた。しかし、僕はリレンに最後まで話してもらうことにした。

 辛い思いは、溜め込むよりも吐き出す方が耐えられる。もう何十年、何百年も前のことだが、リレンの表情は青ざめているのだ。


 封印もできない地獄のような記憶を、彼女は今、思い出しながら話している。それを最後まで聞くことは、彼女だけではなく、僕もどこか救われる気がした。

 僕は一人じゃない。叔父や悠がいるから。ただ、僕と同じ思いをした人、似た苦しみに遭った人、仲間を初めて得たからだ。


 リレンは、スロー再生したように見えるほど速度の遅い瞬きをしたあと、僕の顔を覗いた。僕はただ、頷いた。


「私がいないところで勝手に話し合って、彼ら、彼女らは気づいたのよ。一人一人殺しあっていっても、最終的には一人だけ生き残ってしまうことにね。

 そして、協議の結果、拷問に遭っておらず、かつ、当時一番若かった私を生き残らせることに決めた。


 私の好きだった彼は、私に殺されるために、他の全ての吸血鬼から血を吸った。何十もの同族を殺した彼は、酷く憔悴し切った顔で、それを話してくれたわ。

 私は彼に言ったの。『私はあなたを殺すことはできないから、一緒に生きましょう』と。


 でも、彼は力強く首を振って、それはできないと断言した。

 なぜなのか訊くと、『君は拷問に遭わなかったからわからないんだ。僕は人間の恐ろしさを、おぞましさを見てしまった。この世界は闇に満ちているんだ。僕にはもう、今を生きる力を持っていない。未来も今も奪われた僕から、君は僕のやってきた過去まで消し去ろうとするのか?』って」


 未来には希望が見えず、今という時に絶望し、過去の思い出や楽しかった記憶しか残っていない彼に、未来を作ろうと持ち掛けるのは、確かに酷なことかもしれない。


 過去だけが彼を癒すものなのに、未来を作ることで、今という絶望の時が過去にすり替わってしまう。それを彼は、恐れたのだろうか。


「私がどれだけ説得しても駄目だった。それに、彼の赤い瞳には、私が映っていなかったもの。どこまでも深い黒々とした闇だけが、彼の目には渦巻いていたわ。彼の目には、美しい世界なんて、もう……」


 世界の美しいところを、彼の目は見ることができなくなった。拒んでいたのかもしれない。世界は真っ暗で、色もなく、救いもない世界だと、思い込んで。


「結局、私は血を吸えなくて逃げようとしたの。時間が経てば、彼も変わると思って。なのに、彼は私を捕まえて無理矢理、首筋を牙に当ててきたわ。抵抗したのに、私の牙はあっさりと彼の首に刺さっちゃった。


 今でも、あのときの感触が忘れられない。薄い皮膚を破って、流れる血が牙を濡らすときの温み、脈に突き刺ささったときのズブリという音、全てが未だに、私の牙から拭い去れない。血は拭けば取れるのに、おかしいわよね。


 そして、私は、彼の血を吸い切った。干からびて手足の細くなった彼を、三日くらいその場から動かずに見ていた。けど、野犬が襲ってきた。そして、反射的にそれの血を吸ったとき、私は吸血鬼なんだっていう実感がまざまざと湧いてきたわ。


 それからは、彼や他の吸血鬼たちの死体を全て燃やして、死ぬための旅に出た。もしかしたら、私たち以外にも吸血鬼がいたかもしれないから。


 けど、見つからなかった。だから、私は何度もいろいろな自殺方法を試して、それでも無理で、いつの 間にか死ぬことを諦めていたわね。

 そして、いろいろな人と繋がりを作っているうちに、私は死が許せなくなって、今に至るわ」


 やはり、最愛の人を殺すことになってしまったのか。吸血鬼が彼女以外にいないという前提があったから、予想はできた。しかし、その場に僕がいたわけでもなく、直接の関係があったわけでもないのに、他に道はなかったのかと、誰かを責めたくなる。


 もっと他に、吸血鬼たちが救われるような方法はなかったのかと。僕には今すぐ思いつかない。過去も取り戻せないのだから、考えるだけ無駄だ。それなのに、やりきれないというか、どうにもならないのに生まれる反抗心が芽生える。


 リレンに同情しているのだろうか。自分でも、よくわからない。この思いが誰でも抱くものなのか、自分だから抱くものなのか。


 死に慣れていても、死とは悲しいもので、辛いことであるという認識がある以上、リレンに同情していても不思議ではない。

 だが、ふと思い至った。僕は彼女に同情しているのではなく、共感しているのだと。


 彼女はやはり、僕の仲間だ。人と吸血鬼、種は違うが、それでも、僕と彼女は取り残された者という点で仲間なのだ。


 だからこそ、他の終焉がなかったのかと、そんな気持ちを抱いてしまう。僕の兄が死んだことには理由があって、それは殺されたわけで、殺した人の恨みを買わなければ、あるいはもっと自衛に気を掛けていれば、その事象が起こり得なかった世界がある。


 僕もリレンも、廃れた教会で、方や額が割れ血を流し、方や血がベットリ付いた服を着て、こんな話をしていない未来があったのかもしれないのだ。


「リレンさん、世界ってのは、理不尽ですね」


 どうして、僕やリレンがこういう境遇になってしまったのか。僕たちだけじゃない。多くの失ってはいけないものを失ってしまった人たちは、どうしてそうなったのか。


 どうして、どうして……。


「誰も犠牲なんて求めてないのに、犠牲は生まれてしまうのよ。理不尽だし、不条理だけど、それを享受しなければいけないわ。それが、取り残された者の使命だと思うの。


 自殺した人、殺された人、死んでしまった人、その全てとは言い切れないけど、ほとんどの人は、残してしまう者に、謝罪の気持ちと、幸せを願う気持ちがあると思うから。

 不条理で理不尽で、希望さえない世の中だけど、私たちは、その人たちが持とうとしていた希望を託されているのよ。その人たちの代わりに、その人の分も、この世界をこの目で見ていかないといけないのよ」


 それは、ただのエゴじゃないのか? ただの、自己満足。死んだ人がなにを思うかなんて、想像しかできない。都合よく捉えているだけなんじゃないのか?


「本当に、死んだ人はそう思っているんですかね」


 直接は言わずに、遠回しに言ってみた。彼女の言ったことが、彼女の救いとなっているのなら、それを壊すのは気が引けたからだ。


「極論を言ってしまえば、関係ないわ」

「え?」


 予想外の返答に、少し身を窮した。


「でも、死んで欲しいとは思っていないはずよ。そうでもなければ、意地でも一緒に死のうとするに決まっているから。解釈は、自分ですればいい。ただ、ネガティブな思想に囚われるのだけは、良くないと思うの」

「そうかも……しれませんね」


 人が死ぬ瞬間、なにを思うかは、一人一人違う。だから、自分が死んだところで、知りたい人の感情を知ることはできない。

 想いを巡らせ、精一杯の感情移入によって、その人になり切るといってもいい次元に到達して、初めて理解し得ることだ。


 それならば、確かに後ろ向きな思考で死者の気持ちを代弁することは、必ずしも正解ではないのだろう。死には暗いイメージが付きまとう。そのせいで、暗い感情を想像してしまうのかもしれない。


 死者の多くは、まだ生きたいと思ったはずだ。だが、死の瞬間が近づいていることはわかっている。そうした彼ら、彼女らが、最後に恨み辛みを禍々しくも思うのか、それとも、他人の幸福を祈れるのか。


 結局は、わからない。


 死者が蘇ることはないし、自身が生きている限り、彼らの声を伝えてもくれない。それなら、自分に都合よく捉えてしまった方が、救われそうだ。


 死後の世界があるのかわからないが、そこでなぜ死んだのかと叱られるよりも、長く生きてから死んで、責められる方がいい。責められたなら、謝れば済む話だ。


「私の牙は罪を犯して、私の体には罪の血が今も流れているわ。あなたに長話をしてしまったのは、もちろん、急に襲ってしまった理由を説明するのもあるけど、懺悔もあったのかもしれない。誰かに話すことで、少しでも背負う罪が減らないかって、思ったのね」


 彼女をそういう思いに駆らせたのは、この場所が影響している気がする。無残な姿となっていても、ここは変わらず教会だ。無宗教派の僕でも、神聖な雰囲気を感じずにはいられない。


 壊れてしまったとしても、漂う厳かな空気のようなものが、まだ漂っているように思われた。


「吸血鬼でも、十字架の下で罪を悔いるんですね」

「そうね。フィクションの吸血鬼なら、教会に入ることさえ無理かもしれないけど、私は違うから」


 吸血鬼と十字架という対照的な組み合わせが混在しているのは、少し不思議な気がした。しかし、リレンはあくまで吸血鬼のようなものだ。

 彼女は鬼ではない。同じ読みをするのなら、過去の立場からしても、いっそ姫の方がまだいい。


 吸血姫の彼女は、不死の呪縛に侵されながら、いつまでも死を嫌い続ける。


  「僕が、あなたに流れる血の罪を赦します。僕に、そんな資格はないです。でも、同族を拷問され、一族を壊滅へ追い込んだ人間に協力してくれているあなたに、敬意を評した僕が赦します」


 リレンに罪はない。彼女は罪を背負わされただけだ。作った罪は、なにひとつない。

 だが、彼女の中に流れている血には、拷問を犯した人間の血、それを吸った吸血鬼の血、そしてリレンが恋慕の情を抱いていた彼の血が混ざっている。


 僕は、彼女の持つ罪の意識が、少しでも消え去ればいいと、そう思った。


「ありがとう。私は、時々、自分のしていることが正しいのかわからなくなるの。拷問をした人間も、私が助ける人間も、同じヒト。

 だから、私の中に交わり流れる血が、それを良しとしないんじゃないかって、ずっと恐れてきた。人々は各個人が異なる生物だからと、言い訳を重ねても、罪悪感は減らなかったの。

 だからね、誰かに、君に赦されたこと、認められたことは、本当に嬉しいわ。ありがとう」


 リレンも僕と同じだ。決して一人ではなく、見てくれる人がいるのに、孤独な戦いを続けてきた。

 自分の中にある感情同士の戦い。正義と、倫理観と、罪悪感と、思いと。乱雑なものが集約されて、簡単には決着のつかない闘争が起きていたのだ。


「人の罪を人が赦すことは、多分できないんだと思います。少なくとも、僕には。だから、吸血鬼を拷問していた人達を、僕は個人的にも許せません。許す必要もないと思っています。

 それでも、リレンさんがいつか罪から解放されたと思った時は、おこがましいですが、許してくれると嬉しいです」


 拷問をした人達は、既にこの世にはいない。歴史に残っているくらいだろう。

 だから、もしリレンが人の罪を赦す気になれたのなら、彼らではなく、僕たちが赦されたのだと、僕だけが思える。全ての人が同じ気持ちになるとは思えないし、思わない。だから、僕だけでいいんだ。


「ええ。私には幸か不幸か、時間だけなら幾らでもあるから。いつか、許せる日がくれば、きっとね」


 その頃には、僕が死んでいる可能性もあるな。それほど、人の業は重い。

 

「さてと、そろそろ、君は帰った方がいいんじゃないかしら? なるべく人目につかない方がいいでしょうし。時間を取らせてしまって、ごめんなさい」

「いえ。僕も、いろいろと学べた気がします」


 この時間は、決して意義のない時間ではなかった。リレンの壮絶な過去を知ることは、予期していなかったが、彼女という存在を、最初よりも理解することができたからだ。


「このローブ、貸しましょうか? 万が一にでも人に見られたら大変でしょう?」

「それは丁重にお断りします。逆に怪しまれそうですからね」

「そう。気をつけてね」

「はい」


 読む者を失った本の骸と、安らかに目を閉じた吸血姫を一瞥して、僕は部屋を出た。

 不安定で心許ない足元に気をつけながら、廊下を歩いて行き、教会の扉を開く。外は相変わらず暗く、なんの救いもないおぞましい世界に見えた。


 それでも、空を見上げれば円い月が闇を払い、道を見つけてくれる。


「確かに美しいばかりではないけれど、だからといって闇しかない世界でもないよ」


 そう独り言ちてみると、教会の近くにあった木々が細波のような音を立てた。薄く沁み渡る風が通り過ぎれば、僕は再び歩き出していた。


 しばらく歩いて、 急に立ち止まる。振り返ると、教会が陰に覆われていた。僕は手を何度か振って、また歩みを進ませる。


 なぜ手を振ったのか、僕自身よくわからない。でも、そうしなければいけない気がした。


 一歩一歩、右足と左足を忍ぶように交互に出していると、優しい風が僕の背中を押してくれた。夜の風にしては、温かい。冷えた体を両手で抱きながら、そんなことを思った。

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