序章
僕は人生で最高の日、最低の日、「最も」と言えるような日を、これから先の人生を見ずに判断出来るとは考えていなかった。
例えばの話、宝くじで一等が当たっただとか、借金が億単位で出来たとか、金銭で言えばこれは確かに最高、あるいは最低の日になるのかもしれない。
だが、その後にはもっと良いことや悪いことが起こる可能性はあるのだから、可能性という言葉に縛られていれば、断言はできない。もちろん、その可能性が低いことには低い。
だけど僕には、その僅かな可能性すらないと思える。この日が僕の人生の中で最低最悪の日だと確信している。微塵たりとも疑ってはいない。
腰掛けている柔らかいソファは、僕の体を優しく受け止めてくれるが、それでも僕の心を落ち着かせてくれない。少しは意味があるかと首を左右に振ってみる。忙しなく歩き回る、警官たちの様子が目に留まるだけだ。
胃がキリキリと音を上げているような気がする。雑巾を絞るように、誰かの手に捻られているような、そんな感覚があった。これ以上、僕からなにを絞り上げようというのか。
「そろそろ、落ち着きましたか?」
僕の動作が少なくなってきたからか、男性は事務的な様子ながらも、労わるような声で訊ねてくる。
男性のスーツにはシワがなくて、なんだかグシャグシャにしてやりたくなった。
「……はい。少しは」
「そうですか。それでは、お兄さんが自殺するような理由はなにか思い当たりますか?」
「……うっ」
「大丈夫ですか!?」
胃の中には、まだ吐き出すようなものが残っているのだろうか。いや、あるいは、せり上がってこようとしているものは、形あるなにかではないのかもしれない。
「……すみません」
「いいや、謝ることではないですよ。こちらも配慮が足りませんでした。お話は、また明日お伺いしてもよろしいでしょうか?」
あんまり労られると、スーツをグシャグシャにしてやりたいと考えていた、さっきの自分が嫌になってくる。できるだけ、心は軽くしたい。
「いえ、大丈夫です……。でも、兄に、自殺する理由はなかったと思います。僕のせいで兄の時間が少なくて、恋人はいませんでしたし。……そう考えると、僕が原因なのかもしれません」
僕の、僕のせいで兄さんは……?
「あなたとお兄さんとの関係が、どのようなものだったかはわかりません。ですが、これまで長い間一緒に暮らして来たのなら、前触れなく自殺するなんてこと、ないとは思えませんか?」
兄さんは毎日、僕と夜ご飯を食べていた。カレーの染みが少しついたテーブルを挟んで、向かい合って。
兄さんはいつも笑っていた。僕が暗い時も、無理矢理明るい雰囲気を作ってくれた。頭を撫でたり、テレビを見ながら「なんだあれ!」なんて変に大きな声を出したりして、励ましてくれた。
刑事さんは、自殺なら前触れがあったんじゃないかなんて言うけど、考えてみれば、兄さんはずっと無理をしていたんじゃないだろうか。いや、どうなのだろう。浮かんでも、すぐに否定したくなる。それに、いくら憶測はできても、今の僕には本当の答えを知る由もない。
「そう……ですかね」
あまり自信は持てない。兄さんが自殺した原因に、僕のことが一分たりとも含まれていないとは、言えないのだから。
「ええ。仕事でのストレスや、君の知らない事情があったのかもしれません。状況的には、自殺としか思えませんから」
いつの間にか、辺りにいた警官は少なくなっていた。
まだ、自殺というその言葉を信じたくはない。そうだ、自殺とは限らない。まだ、殺された可能性だって──。
「ひとまず、我々の判断としては自殺です。自殺の動機はこちらでも調べてみますが、それでいいでしょうか?」
自殺という判断に、自殺の動機を調べるという言葉。全てが、追い討ちのように感じられた。
「はい、お願いします」
ただ、自殺でも他殺でも、兄さんが死んだということ、そして生き返らないという事実は変わらない。
でも、もし他殺だったのなら、その時は許さない。絶対に、許さない。
見つけて、そして……どうするのだろう。犯人に謝られても意味がない。……今は、いい。まだ、自殺かもわからない。どうするかなんて、考えなくていい。まだ、証拠もなにもないのだから。
あるのはただ、兄がこの世にはいないという事実だけ。
それに、僕にはやらないといけないことがある。勉強に、これからの生活、考えないといけないことが多い。身の回りの状況が変わっても、現実が僕に合わせてくれることはない。
完全に切り替わるには、まだまだ長い時間が必要だ。今はただ、なにもしたくない。考えたくもない。
「それでは、我々は引き上げます。どうか、少しでも早く立ち直れることを願っています」
「ありがとうございます」
警察の人は一礼をして去っていった。歩き方も堂に入っている。やっぱり、めちゃくちゃにしてやりたい。でも、思うだけで、そんな気力は湧かない。ソファから立ち上がることもできない。
あとに残された僕は、重くなった頭を膝に落とした。額にじんわりと痛みが広がるが、それもすぐに止む。全て、僕の元から消えていく。
この家にいるのは、もう僕だけだ。初めは四人いたはずの家がとても広く感じられ、虚無感が隙間を埋めていくように思えた。
周りが黒くなっていく。僕の周りにいた人たちは消えて、そこにはなにもない暗闇だけが残る。僕はそれに囲まれていき、埋もれていく。そんなイメージ。
外では、赤い回転灯が闇を照らしていた。
暗い気持ちになっても、明るくしてくれる人はもういない。すぐそばには、誰もいない。
遠ざかっていく赤を窓越しに見ながら、僕はそれを改めて実感した。
改稿しての転載です。可能であれば完結まで毎日更新を保ちたいと思っています。




