第九話 隠せぬ赫怒
引き続きリオン視点です。
自分が何者なのかを知った。
自分が何の為に生きて、どうして死んだのかも知った。
そして、自分が最期に何を願ったのかも、知った。
だけど。
だけれども。
彼は彼であるのだから、例えその記憶を思い出し、知識を取り戻し、想いを受け取ったとしても、彼は完全に秋里春斗になってしまう事はない。
元より、どちらの存在を選ぶかなど、迷う必要はないのだ。
別に、二つの存在が混ざって別のナニカに変貌する訳でもなく、自我が飲み込まれてどちらか一方の存在になる訳でもない。
何故なら――。
前世は終わり、今世はリオン=スプリンディアが生きる番なのだから。
産まれてからずっと、彼だけの物語を紡ぐのだ。
そこに、少しだけ前世の悔恨が影響したとしても――それでも行動基準はリオンであり、リオンが思考し、リオンが決めた事をやって生きてゆくのだ。秋里春斗の入り込む余地など、元より無いのである。
だから。
もう秋里春斗の物語は終わっており。
これから始まるのは、リオン=スプリンディアの物語である。
◆ ◆ ◆
どれくらい時間が経っただろうか。
五分だったかも知れないし、あるいは十分経過していたのかも知れない。いいや、一時間だった可能性もあるし、実はたった三十秒間の出来事だという事もあるだろう。
時間感覚も平衡感覚も、ましてや自我すら曖昧になっていたリオンは、記憶の濁流に翻弄されながら、無意識下に強大な魔力を放出していた。
それは彼の持つ体内魔力だけではなく、『魂魄』に纏わりついていた『糸』とやらに導かれた『前世の自分』や、転生という未だ魔術的理論では完成していない超常的現象を引き起こす原因となった『ナニカ』に関する力の余剰分も魔力として返還され、一緒くたに爆発を引き起こしていた。
少し分かり難いだろうか。要は、リオンの持つ魔力だけでなく、その他のエネルギーも何らかの事情によってか魔力として彼の体内から放出された、とでも理解しておけば問題ないだろう。事実、リオン本人も現時点では全く分かっていないのだし、彼の身に起こった『転生』は秋里春斗の世界でもあるたった一人の魔術師を除いて完成させられなかった理論の上に成り立っている事なのだから、正しく現状を把握出来なくても仕方ない。
ともあれ、感覚が滅茶苦茶になって気が狂いそうになっていたリオンは、やがて八割がたの情報を処理し終えた優秀な脳がオーバーヒートして強烈な吐き気を覚えながらも、辛うじて現実へと意識を引き戻す事に成功する。
「――……ふぅう」
深く呼吸を意識し、肉体に張り巡らされた魔力回路に集中する。堰が壊れ、規律もなく無尽蔵に暴れまわっていた魔力を体内で上手く循環させ、通常の状態へと着実に戻していくと、だんだんと体外に流れ出ていた魔力も落ち着いてきた。
深呼吸を三度ほど繰り返し、改めて周囲を見直す。
魔力の嵐は鎮静した。が、非物質である魔力の規格外の暴走によって廊下は惨憺たる状況だった。
膨大な財力を有する公爵家らしく薄く綺麗な硝子が張られていた窓は粉々に砕け散り、良く磨かれた廊下のタイルは剥げ、所々に飾られていた高級そうな壺やら絵画やらは見事に吹き飛びお陀仏である。
賠償金はいかほどになるだろうか、とげんなりした表情で金銭勘定し始めたリオンだったが、そもそもリオンはこの家の者なのだからそこまで気にしなくても良いのでは、という考えに思い至った。
まぁそんなくだらない事はさておき、リオンは涙やら涎やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていた顔を袖で拭うと、鈍っていた思考を動かし始めた。
「まず……俺は、リオン=スプリンディアでありながら、秋里春斗の記憶も持っている」
所謂転生、というものだろうか。魔術的にも科学的にも証明し切れていないそれを実際に体験する事になるとは驚きだ。
しかしリオンが無意識のうちにスルーしていただけで、元々その兆候はあった。でなければ、彼の年齢から考えてその賢さと戦闘技術はおかしい。
それは今の彼にとってプラスになった、と本人が考えているので良いとして。
勿論の事、問題もあった。
「嫌な記憶も覚えちまってるよ……くそっ」
家族が、思い出が、愛した全てが燃えていく赤い記憶。それが輪廻を超えてなお鮮明に思い出せてしまうのだから、彼にとっては地獄のような拷問だ。
それが、つい先ほど――今世の母がその命を散らす光景と重なってしまう。
「……はは、うえ」
彼女の遺骸は、壁際まで追いやられていた。恐らく、リオンが魔力を暴走させたのに巻き込まれた所為だろう。
リオンは糸が切れた操り人形のように転がる母の体を楽な体勢に直すと、その両瞼をそっと閉じてやる。
「守れなくて、ごめんなさい。強くなくて、ごめんなさい。……今はゆっくり、休んでください」
そう祈るよう声をかけて、彼は最後に彼女の自分と同じ夜闇色の髪をそっと撫でてから、悔恨を断ち切るように立ち上がった。
悔む気持ちは残っている。嘆く気持ちは消し切れない。堪えようのない殺意も膨れ上がって爆発寸前だ。
だがそれでも、彼は涙を拭い、背を向けた。
――何故なら。
「……フローラ=エーデルワイス」
まだ、守るべき人がいるのだから。
「今度こそ……俺が、守ってみせる」
一目惚れした人だから――という、ただソレだけの理由では無く。
今まで何一つ守れなかった『大切なもの』を、今度こそは守ってみせるという強固な意志の表れでもあった。
狂気的に、盲目的に。気づかないうちに『大切なものを失いたくない』というゲーム本来のリオンと同じ心象に陥っているとも知らずに――。
◆ ◆ ◆
リオンが異常な魔力の波動を感じたのは、母の亡骸から去り、フローラの居る庭園を目指して屋敷の廊下を駆けていた時の事だった。
ィィィイ――ン……という耳鳴りに似た共鳴音が空気を震わせた直後、大気中の膨大な魔力が突如猛烈に揺れ動き、津波の如く容赦なく周囲を呑み込んでいく。その余波だけで屋敷が傾くほど極度に濃密で膨大な魔力は、本来生物が持てる限界を超えてしまっていた。
有り得ない魔力量――だがその事に、リオンは心当たりがあるどころか、つい先ほど体験したばかりの事象だ。
「ま、さか……ッ!?」
ある一つの考えに至り、リオンはギッと歯を噛み締める。
転生者が、目覚めた。これは、流れ込む膨大な記憶の嵐に耐えられなくなった脳が異常命令を体に下し、体内魔力を体外に爆発的に放出してしまっているのだろう。先ほどのリオンと同じように。
この場合、誰が前世の記憶を取り戻したのだろうか。
屋敷の使用人か、公爵家に仕える兵士か、それとも――。
「……っ、何でも良い。ともかく今は、フローラ=エーデルワイスのところへ……!」
覚悟を決めるように口にして、彼は足により一層力を入れた。
暴流の如く襲い来る魔力の波動に逆らい、リオンは歩を進める。幸い、屋敷自体は外からくる衝撃に対して防護機能がある魔術結界が張られていて被害はそこまで酷くはないが、そこから一歩でも出ればもう嵐の中だ。リオンの矮躯など一瞬でミキサーに掛けられたようにぐちゃぐちゃの肉体に早変わりだろう。
それでもリオンの行動は変わらない。体に付着していた血液を使って胸部に五芒星を描き、簡易的な防護魔術を自身に施すと、吹き飛んで通気性抜群になった扉から躊躇いなく外へ踏み出した。
「ぐ、うぉおッ」
途端、全身を嬲る衝撃にリオンはぐらついてしまう。
圧倒的質量を持った、強烈な魔力だ。もしかすると、リオンが放出した量よりも多いのではないだろうか。
それでも歩みを止める気は無い。一歩一歩、絶大な質量に押し戻されつつも足を動かす。
――だが。
「あぐッ!?」
まるでジェット気流のような威力で以って襲い掛かってきた魔力の波に逆らえる筈もなく、リオンは蹴飛ばされる空き缶のように無様に転がった。
激しく全身を打ち付け、脳をシェイクされ、内臓をぐずぐずに掻き混ぜられ、――やがてその勢いを保ったまま屋敷の壁に激突すれば、潰れた肺から押し出された空気を血と共に吐き出してしまう。
全身に走る痛みが酷い。いつ出来たのかも分からない傷口から血が流れ、土汚れで黒ずんだ服は破れている。まさに満身創痍であった。
「く、そが……ッ」
だがそれでも、彼は立ち上がる。
別にヒーローを気取っている訳でもなく。
誰かを救う為にボロボロになってまで動く自分に酔っている訳でもなく。
『大切なものを失いたくない』という自己の願望から動いているだけなのだ。
「ああぁ、あぁああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!」
轟く魔力の嵐の中心で、哀れな姫が叫びを上げた。
まるでその悲痛な声に呼応するかのように魔力がうねり、波打って、更に周囲の空間を穿った。
「なんだ、あれ……?」
ズザざズざざザざ、と押し返される力に地面を抉って対抗していたリオンの視線の先に、愛しい白百合が映った。
だが彼が最初に囁いた言葉は喜びでもなく、安堵でもなく、愛でもなく、困惑と驚愕だった。
魔力の嵐の中心――それはもう、疑いようもなくフローラの事だ。
力の本流が荒れ狂う中でも美しさを損なわない白銀の髪。脳を、精神を襲う峻烈な痛みに絶叫し、狂気的に見開かれていても輝きを失わない紫水晶の瞳。月下に咲く華を連想させる、可愛らしくも将来の美しさを約束された顔。陶器の如く白い肌も、小さな手も、足も、その全てが、リオンが惚れた少女で間違いなかった。
彼女が、この馬鹿げた量の魔力を放出している。
つまりは。
「フローラ=エーデルワイスは……転生者、って事か?」
驚愕に目を剥き――そこで、一瞬にして彼の視界が白く塗り潰された。
(なに、が――?)
その言葉を口に出す前に、リオンは体の自由を失い崩れ落ちてしまう。
地面の冷たい感触が肌に触れる。変な体勢から倒れた為か、傷口が圧迫されて焼けるように体が痛い。
何が起こった。
どうして自分は倒れているのか――?
当然懐いたその疑問に、答えは唐突に齎される。
「――さてさて、少し寝ていてくださいねぇ、リオン=スプリンディア」
「――――」
誰何の問いを発する事すら、震えぬ声帯は許さない。
だがどうにかこうにか痛みに抗い動かす事が出来た双眸で、声の主を捉えた。
彼――と呼ぶべきか彼女と呼ぶべきかは判断が付き難いが、恐らく声からして男――は顔を上手い具合に隠してしまうフード付きマントを羽織っていた。魔術的効果の掛かった衣服なのだろう、下から見上げても顔立ちを伺う事は出来なかった。
突如現れた不審人物に最大限の警戒と威圧の視線を向けているリオンに、しかしフードマントの男は気にした素振りも見せず、聞かせる為に話しているのか独り言なのか分かり辛い口調で喋り出した。
「私はこれから、貴方の『設定』を整える為の仕上げとして、フローラ=エーデルワイスを殺します。母親が死に、使用人が食い殺され、兵士が無様に息絶え――そして、自分が我儘を言って婚約を取り付けた令嬢が、自分が屋敷に呼んだが為に死ぬ。中々面白い『設定』ですねぇ、私、そういうの嫌いじゃないですよ」
「――――」
「ふむふむ、しかし【紅薔薇ノ庭】ももう少し改良した方が良いですかねぇ。結局、薔薇で殺し切れなかった奴らは私が直接殺さなきゃならなかった訳ですし……ま、良いでしょう。魔術ばかりではなく、たまには直接剣を振るうのも悪くありませんし」
こいつが口にする言葉の意味が分からない。
気でも狂っているのか、と最初は眉を顰めるだけだったリオンは、しかし彼の話を聞くうちに、その顔色を灼熱の赤へと変えていった。
(こいつが、母上を……使用人達を、殺した……?)
その事実が、彼の思考を赫怒で染め上げる。
だけれども、体は言う事を聞かない。ただ無様に地面に這い蹲って、憎い男を殺意の瞳で睨み付ける事しか出来ないのだ。
「さてさて、良く分からない魔力の暴走も収まったようですし、私は仕上げに行きましょうかねぇ」
あえてリオンの神経を逆なでるように、フードマントの男は軽い調子で言ってのける。
更に――止めとばかりに、虫けらに向ける嘲りの視線で以って、彼はリオンを嗤った。
「そこで見ていなさい――貴方の大切なものが無残に死を遂げるところを、ねぇ?」
そして。
そして。
――そして。
今回で一応、リオン視点は終了となります。
あと、第一話の死体で、屋敷から落ちてきた背中に深い斬撃痕のある執事は、フードマントの男が斬り殺した奴です。
次回も宜しくお願いします。