第八話 赤い記憶の彼方
しまった! 連続更新が途切れてしまった!
引き続きリオン視点です。
十分も経たないうちに薔薇を二本とも斬り倒したリオンは、急いで宝石部屋から飛び出した。
その手に握る長剣の刃は半ばから折れてしまっている。元々戦闘用に鍛えられた訳ではないのだ、肉厚な植物を三度も斬り裂けば使い物にならなくなるのは自明の理である。だからといって唯一の武器を手放してしまうのは心許無いので、刀身が短剣サイズになっても捨てはしないのだが。
扉を蹴破るようにして廊下に出た彼の胸中には、言いようもない不安が込み上げていた。
(母上達、遅すぎやしないか? 兵舎は屋敷のすぐ隣にあるんだから、少数の兵を連れてくるのに五分もあれば足りるだろうに)
もしくは異常に気づけた兵が自分から確認しにやってくる筈なのだ、それほど時間がかかるようなものではない。または戦闘能力のある使用人を途中で捕まえて助けに向かわせても良いだろう。二、三分もあれば武器を持って駆け付けてくれる筈だ。
だがリオンが自力で薔薇を二本とも倒しても、誰もやってこない。
何かおかしい――そう思い、焦りを顕わに廊下を走り出したのだが。
「……、なんだ? 誰もいないのか?」
リオンの足音と呟きだけが、寂しく廊下に木霊する。
廊下に人気はない。少なくとも、リオンが目に映す範囲に人影は無く、耳に届く音に他者のものは混じらなかった。
だが、それは有り得ない。
この屋敷にリオン以外の何者も存在しないという事は、それはリオンを見捨てて全員逃げ出してしまった事になるのだから。
確かにこの屋敷に居るのは一般家庭――この場合、貴族の事になる――とは少しずれた感性を持つ人達ばかりだが、流石に次期当主であるリオンを見捨てて本拠地から逃げ出すような真似はしないだろう。リオンはただでさえ賢くて将来を期待されているのだ、家族愛のある者なら勿論、情の薄い貴族でも――いや、損得勘定で考えられる貴族だからこそ、こんなところで死なせるのは惜しいと考える筈だ。
しかし事実、全く人に出くわさない。
「――――」
――否。
違う。そんな事はない。
彼は、既に多くの『人』に遭遇している。
ただ、リオン自身がその『人』を視界に映そうとしないだけで、靴裏の感触では『人』の存在を感じている筈だ。
認めたくない。
そんな事、あってはならないのだから。
「――――ぁ」
でも。
だけれども。
一度、僅かにでもその事を認識してしまえば、その事実は脳に情報として伝わってしまう。
「なん、で……」
桶の色水を引っ繰り返したかのように広がる赤い色彩。
掃除をする者の事を考えず自分勝手に散らかされたぶよぶよの物体。
花瓶にでも飾れば良いのに、わざわざ廊下に芸術を描いた美しき紅薔薇。
そう。
「あぁ、あ」
つまりは。
「あぁぁあ、あぁぁあぁあああ……ッ」
――屋敷の廊下には、『人』が無残な肉片となって散らばっていた。
「そ、んな」
視界が切り替わる。
認めたくない現実が、彼の脳にダイレクトに描かれ始める。
屋敷の廊下に撒き散らされた人肉と血潮。それらを狂気的に彩る薔薇は、間違いなく彼が宝石部屋で対峙したあの食人薔薇だろう。人を丸呑み出来る巨花と一般的に見かける両手で包める程度の大きさの薔薇とではサイズが違いすぎるが、その紅血色の花弁は誤魔化しようがないまでに一致していた。
恐らく肉片となったのは、屋敷の執事だろう。周囲に引き千切られてばら撒かれた衣類の残骸が見慣れた執事服だと、色や素材、所々に施された控えめながら美しい刺繍から判断出来る。
「あぁぁああ、ああああああああッ!」
特別、親しかった訳でもない。
だが、自分に優しくしてくれた人達である事に変わりはないのだ。
そんな人達が無残に食い殺された場面を見て、泣き叫ぶなという方がおかしい。むしろ絶叫し意識を手放してしまうものだろうが、彼は騎士になる為の訓練で幾らか死体を見せられて慣らされていたので、こうして意識を手放すには至らず、涙を流し、目の前に広がる死を直視して嘆いているのだ。
死んでいたのは執事だけではない。その他にも侍女が着ていた給仕服の破片や、拉げた兵士の鎧も散らばっている様が目に入る。改めて周りを見渡してみれば、人や薔薇の残骸のほかに、剣や槍など、武器もあちらこちらに転がっていた。
食人薔薇と戦った後なのだろう。武器や服の所々に植物の破片が付着している。
彼らの遺体を一つ一つ丁寧に弔ってやりたいが、これだけ人体がバラバラだとどうにもならない。となれば墓に埋めるのは、そこらに残っている遺品――武器となるだろう。
リオンは一つ、折れた鑑賞用の長剣の代わりになる武器を選び、拾い上げた。
それは先ほどの長剣と違い、戦闘用の頑丈に作られた重量感のある武器だが、選択したのが現在のリオンの筋力でも振れる小剣なので問題ない。これなら長さ的にもわざわざ片手長剣を両手持ちする必要はないだろう。
「兵士の物か……いや、使用人達のやつもあるか。――誰のかは分かんないけど、借りさせてもらいます」
死者の持ち物を勝手に持ち去るのは道徳的に問題があるが、今回は緊急事態だから見逃して欲しい、とリオンは心の中で誰に聞かせるでもなく言い訳を呟いた。
因みに、この屋敷に努める使用人のうち、三割ほどは戦闘能力を持っている。
人の生活圏の外に少しでも出れば魔獣が闊歩するような世界なので、戦える者はそれなりに多い。更に使用人という立場上、主を危険から身をもって守らなければならない為、自主的に鍛えている者もかなりいるのだ。むしろ戦える事を前提条件に使用人を雇う貴族もいる。
半ば私兵のようなものだ。あまりに多すぎれば他貴族から戦争でもする気かと突かれるし、そもそもスペックが高く使える者を雇い続けるには必然的に給金も高くなっていき、大量に雇うのは経済的にも優しくないので、危険分子になりうる事はあまりないのだが。
それはともかく、こうして武装した者達が無残な死体になり果てている惨状から推測するに、廊下にも食人薔薇が出たのだろう。それも、リオンが戦ったやつより強いか、圧倒的に数が多かったか――。
「……いや、待てよ」
廊下にも食人薔薇が出現した。しかも戦える使用人や兵士を殺せるほどに強く、もしくは大量に。
つまり。
「――母上が危ないッ!」
囮になって逃がした筈の人達の危険に気付き、リオンは猛然と駆け出した。
乱暴に服の袖で涙を拭う。使用人達の死を悔やむ時間は後回し。今は目の前に迫る母の死を回避するのが先だ。
九年も暮らしたのだ、屋敷の間取りは完全に記憶している。代々当主だけに受け継がれる秘蔵の隠し部屋などは流石に分からずとも、基本構造は完璧だ。だからソラが通った道を予測する事は容易い。
血糊に足を取られそうになりながら廊下を駆け抜け、飛ぶように階段を下り、ただ愛する母を目指して足を動かした。
時折遭遇する食人薔薇は小さな体を利用して躱し、使用人達の原形を留めない遺骸を蹴散らし、途中何度も転んでもすぐに起き上がって、ただただ走る。
死なせたくない、と。
殺させてたまるか、と。
何か、自分ではない存在の想いが混じり、歪な感情を持て余しつつも、リオンは決して足を止める事はなかった。
――もう遅いのだと、気付かずに。
◆ ◆ ◆
「――――」
ひゅう、と。空気だけがリオンの口から漏れ出した。
ソレを見た瞬間、リオンの顔は病的なまでに蒼褪め、次いで奥底から湧き上がる憤怒に赤く変色させる。急激な変化は他人から見れば明らかな異常者か、もしくはそれだけ衝撃的な場面に遭遇したのだと悟るだろう。
この場合、当て嵌まるのは後者だった。
「ぐ、がふッ」
くぐもった吐血音が鼓膜を掠めた。
リオンのものではない。
彼の目線の先――二メートル越えの食人薔薇の花弁に捕らわれた、女性のものだった。
「――はは、うえ」
ぷつり、と。何かが切れた音が聞こえた。
それは幻聴。だが確かに、リオンの中にある『何か』が切り替わった音だった。
「母上を……」
ぎりりッ、と音が立つほどに強く小剣の柄を握り締め、憤怒に身を焦がす少年は獰猛に牙を剥く。
「母上を、放せェェェえええええええええええええええええええええ――ッ!!」
爆発的な威力で以って床を蹴り、リオンは勢いのまま薔薇の茎目掛けて小剣を振るう。
烈火の如き怒りが籠った一撃は一陣の風と成って宙を奔り、ズダンッ!! という切断音とともに肉厚な茎をものともせず斬り裂いてしまった。
唯一の支えを失って倒れ始める花弁。その中に捕らわれた人間もろとも、痛々しい衝撃音を立てて廊下に激突した。
「母上!」
剣を捨て、形振り構わずリオンはソラのもとへと駆け寄った。
「母上、しっかりしてください母上!」
虚ろな眼を見せるソラの肩を揺さぶり、何度も何度も呼びかける。
だが、ただの一度も返事はなく、焦点の合わない瞳はリオンではなく虚空を見つめていた。
「意識を強く持って! 母上、意識を……い、しき、を……ッ」
その目は、二度と彼を映す事はない。
その耳に、二度と彼の声は届かない。
何度名を呼ぼうと、幾度体を揺さぶろうと、彼女の心は、彼を想ってくれる事はないのだ。
「はは、うえ…………あ、ぁああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!」
――分かっていた。
そんな事、とっくに気づいていたのだ。
彼女の意識が戻らない事なんて。
彼女の心臓が動いていない事なんて。
――愛した母が、もうこの世にいない事なんて。
「あァァァァあああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッッッ!!」
悲哀の咆哮が響き渡る。
嘆きの絶叫が屋敷を震わす。
――そして。
堰き止められていた膨大な情報の嵐が、決して消せない記憶の痛みが、再び彼の脳を、心を、精神を襲い――それが、明確な切っ掛けとなって。
長年嵌められていた枷を外すかのように、彼は体内の魔力を解放した。
◆ ◆ ◆
夢を見ていた。
いや、夢というと語弊がある。正確には、彼が見ていたのは記憶だ。
過去の記憶。
今世が始まるより前、輪廻を遡った先にある――前世。
今時日本でも珍しい黒髪黒目をした彼は、秋里春斗という名だった。
春斗は生粋の日本人だったが、魔術を学ぶ為にロンドンへと渡り、半生をそこで過ごした。〝黄金の夜明け団〟という世界三大組織の一つに属し、そこそこの地位を得て魔術と神理の研究に没頭していた彼は、二十七という若さで命を落とす。
死因は出血多量によるショック死。ある魔術師の男との相打ちの結果だった。
そんな魔術ばかり関わっていたように感じられる春斗だが、彼は無類のゲーム好きでもあった。
自分でよくプレイしていたのはアクションゲームやロールプレイングゲームだ。……二歳離れた妹に、無理やり乙女ゲームや美少女ゲームをやらされた過去もあったが。因みに妹は乙女ゲームだけでなく美少女ゲームも大好きだったらしい。
しかしそれも、とある事件が起きるまでは、の話だが。
それは、秋里春斗の記憶の中で、最も鮮明に残っていた。
赤々と燃え上がる家。
無残に散らばる家族の死体。
そして――その惨状を引き起こした、魔術師の男の姿。
父も、母も、妹も――産まれてからずっと暮らしてきた思い出も、全て纏めて灰燼に帰してゆく。
しかし春斗から全てを奪っていったのも魔術師だったが、彼を助けてくれた者も魔術師だった。
それから春斗は助けてくれた魔術師から魔術と戦闘技術を学び、ロンドンへ渡って魔術を研究し――最期に復讐を果たして死ぬ。そんな、思い返せば酷くつまらない人生だった。
だから。
ああ、だからこそ。
「もし来世があるのなら、平和な……そうだな、青春溢れる学園生活でも送りたいなぁ」
――それが、秋里春斗の最期の言葉だった。
やっと前世の記憶のところまで来た……。
恐らく、次回でリオン視点は終わると思います。
次回も宜しくお願いします。