第七話 子供が守り、大人が逃げる
引き続きリオン視点です。
『それ』を目にして最初に感じたのは、後頭部を鈍器で殴りつけられたような衝撃。次いで世界がひっくり返る浮遊感と盛大な吐き気がリオンを襲った。
そして、頭の中に異物が雪崩れ込んでくるような感覚が立て続けに襲い来る。膨大な情報が、記憶が、経験が、意識を嵐のように犯し嬲り蹂躙していく。
――切っ掛けはいたって単純で、極度のストレスを受けた事だった。
「ギシャァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
耳障りな不協和音を奏でて大口を開ける食人薔薇。本来美しい筈の花が生理的な嫌悪感を懐かせるほど害悪な存在に変貌する様は想像以上に恐ろしく、更に開かれた花弁に歯が生えて周囲にいる人間をむしゃむしゃと捕食し始めたのだから、切っ掛けとしては十分な威力だっただろう。
「あ、ぁ、あぁ、ああああ」
明確な言語と成さない意味不明な呻き声。
堰き止める余裕も無く溢れ出すように声を漏らすリオンは、血走る目を見開き、みっともなく涎の零れる大口を開け、必死に衝動を抑え込むように頭を抱えていた。
――痛い。痛い痛い痛い痛い痛いイタイッ!
頭が割れそうで、脳が潰れそうで、頭蓋骨が吹き飛びそうで、血管がはち切れそうで、眼玉が飛び出しそうで、耳の穴から脳漿が噴き出しそうで、口から血反吐を吐きそうで――脳に雪崩れ込む膨大な量の情報が、ありとあらゆる痛みとして少年の肉体に還元される。
「リオンちゃんっ!」
女の声が聞こえる。
それは誰の声だったか。
肉親の声だった。いや、知らない声だ。母親はもっと柔らかい声を持っていた筈。いや、母親の声で間違いない。いやいやいや、しかし、でも、だが、違う、違わない、ナニが――?
「リオンちゃんッ!!」
「――――っ」
喝を入れるように耳元で怒鳴られたリオンは、ハッと顔を上げた。
お陰で頭痛が幾らか和らぎ、飛んでいた意識が帰ってくる。ある程度の落ち着きを取り戻した頭は、先ほどの情報の嵐を一時的に押し留め、正常な思考を取り戻した。
「早く部屋を出なさい!」
ソラの――母親の、声が響く。
ソラはやはり強い女だ。身の毛も弥立つような現象を前にしても、錯乱する事なく冷静に判断を下せる。
だが――いかんせん、実戦経験は乏しいようだ。
今一番やってはいけない事――それは、形振り構わず逃げ出す事である。
「ギシャアッ!」
食人薔薇は一目散に逃げだした侍女目掛け、その伸縮性に富んだ茎部分をバネのように使って食らいついた。その速度は、目を見張るほどに速い。茎の長さの問題でリーチに限界はあるが、あの薔薇の周辺に居れば、正しく一瞬で花弁に飲み込まれてしまうだろう。
侍女は刹那の間に背後から肉薄してきた食人薔薇の花弁にあっさりと捕らえられてしまい、抵抗するも空しくバキバキゴリゴリと人骨が粉砕する音が部屋に反響する。食人薔薇が咀嚼するリズムに合わせて噴き出した血潮が周囲に撒き散り、花弁から零れた血肉がぼとぼとぶちゅぶちゅと不快な音を立てて豪奢な絨毯を汚した。
「背中を見せるな! 食われるぞ!」
既に遅いが、リオンは声を張り上げて注意を喚起した。しかしあまりにグロテスクな惨状に侍女達は我を失っており、甲高い狂乱の悲鳴に塗り潰されて彼の声は届かない。皆、一様に扉だけを目指して我先にと逃げ出している。
守るべき主達を置いて危険から遠ざかろうとするのは、使用人としては失格だ。例え戦闘能力の皆無な侍女であっても、ソラとリオンの盾となるべく薔薇の前に立ち塞がらなければならない。
実際、そういう忠義ある行動を取れる使用人はスプリンディア公爵家には数多く存在している。が、つい先ほど屋敷に到着したフローラ=エーデルワイスの対応に向かわせてしまった為、今この場に居るのはこの家に仕えた経験の浅い者や、元より己の身を挺して主を庇う覚悟を持ち合わせていない者ばかりになってしまっていたのだ。
「いやぁぁぁあああああ――ッ!」
また一人、薔薇の餌食となる。
ぼきりぼきりぐちゃぐちゃと嫌な咀嚼音を立てて植物が人肉を啜る様子は、人間の脆弱な神経を崩壊させるのに十分だった。
普段何気なく育て、愛でて、気付かぬうちに踏み潰していたモノに逆襲される。トラウマになってもおかしくない光景だ。
そして、一人分の血肉をしっかり養分として吸収し終えた食人薔薇が、尽きる事のない食欲と殺意で以ってして、再び茎をバネのように撓らせ襲い掛かってきた。
狙いはリオン。その事に気付いたリオンは、すぐさま花弁から逃れる為に横へと身を投げ出した。
「キシャアッ!」
本当にギリギリのところを掠めて薔薇が通り過ぎる。血臭の混ざった生暖かい風が、リオンの黒髪を強く揺らした。
「リオンちゃんっ!?」
「大丈夫です、母上!」
ふわふわの絨毯の上で素早く受け身を取り、体勢を立て直したリオンは薔薇の攻撃によって引き離されてしまったソラの声に答えつつ、薔薇の歯から距離を取るように後退した。
が、下がったところで解決方法は無い。ただ、逃げ場である部屋の出口から遠ざかっただけだ。
この食人薔薇は、魔術によるもので間違いないだろう。
となれば、この魔術を操る術者がいる筈だ。だがこの宝石部屋に居たのは、リオンとソラ、そして数名の侍女だけ。その中に、魔術が使える者はいなかった。
ならば、必然的に外部から屋敷全体に魔術が掛けられているのだと考えられる。どうやら最初に感じた違和感は正しかったようだ。
術者を倒せば魔術の制御が利かなくなって薔薇は自然消滅する――稀に暴走する事もあるが、恐らくこれはそういった類のものではないと思われる――だろうが、しかし術者はこの場に居ない。となれば薔薇を焼き尽くすか切り刻んでしまえば良いのだが――。
「何か、武器は……」
赤いものが混じった涎を零す食人薔薇から意識を放さないようにしつつ周囲を見回すも、しかし目ぼしいものは見当たらない。そもそもここは母の趣味で宝石や水晶など高価で壊れやすい装飾品を収納しておく部屋なのだ、血腥い武器などおいてある筈がなかった。
――いや、
「あるにはある、けど…………まぁ、無いよりはマシか」
若干の躊躇いを見せつつも、リオンは壁に飾られていた長剣を手に取った。
九歳の子供が持てるほどに軽い。当然だ、性能ではなく見た目を重視された鑑賞用の剣なのだから。
しかし鑑賞用といっても、剣である事に違いはない。鉄を裂く切れ味は無くとも、植物を切り裂く程度は問題無い筈だ。
「ふ――ッ」
その煌びやかな装飾がなされた長剣の柄を固く握り、短く息を吐くとともに動作の邪魔になるだけの鞘から抜き放つ。
シャランッ、と凛々しく空気を振動させ、外気に美しい銀刃が晒された。
「長い……けど、問題ないか」
いつもリオンが訓練で使っている小剣より二十センチほど長く、子供の小さな体では扱い難いが、体積に反して軽いので使えない訳でもない。二、三度振って調子を慣らすと、長剣を両手で構えた。
リオンの最も得意とするスタイルは片手長剣なのだが、リオンの小さな手とこの長剣ではバランスを取る為にも両手で持つ方が安定するので、この構えになっている。ワイズレット王国の騎士は基本的に片手長剣+盾もしくは長槍+盾を主としているので両手剣は少数派なのだが、『武器に拘らず、戦い抜く事に重きを置く』という信条のスプリンディア家では全ての武器を最低でも二流程度は扱えるように訓練される為、リオンは両手剣での戦闘もある程度は可能だ。
とはいっても、まだ経験は浅い。本職とは比べ物にもならないが――しかし、的の大きい植物を両断する程度の腕はある。
「はぁあ――ッ!」
長剣を上段に構え、勢い良く床を蹴り出した。身長がまだ低く必然的に脚も短く歩幅が小さいので普通は肉薄する速度は遅くなってしまうのだが、リオンは訓練された足捌きのお陰で数秒のうちに長剣のリーチの中へと茎を収めてしまう。
そして、一息の気合とともに――斬る。
「ふッ!」
ズダンッ! という肉厚の紙束を切り裂くような音。両手に物質を斬り裂いた確かな手ごたえが伝わってきた。
切り口を見れば、大人の腰ほどもある茎は綺麗な切断面を描いて両断されていて――。
(斬れたっ!)
と、そう胸中で歓声を上げた――その時だった。
「キシャァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
「ギュァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
重なる二つの奇声が、宝石部屋をびりびりと震わせた。
「――――」
それに続いて轟いたのは、ベリベリベリッ! と何かを力任せに引き剥がそうとする音。
次いで所々に赤い染みを作る豪奢な絨毯が床から吹き飛ばされるようにして剥がされ、その下からナニカが生えてきた。
深い緑色の茎。先ほどまで地面に埋まっていたからか、しっとりと湿った葉。そして何より目立つ、圧倒的な――赤の花弁。
絨毯を強引に引き剥がして出現した二メートル強の二本の食人薔薇が、宝石部屋に残っている人間達をぬらぬらとした視線で舐めまわしていた。
「……くそっ」
吐き捨て、リオンは二本の薔薇に向けて長剣を構え直す。
「リオンちゃん! 貴方も早く逃げるわよ! ……リオンちゃん!?」
少数の忠義ある使用人達――顔が蒼褪めていて、今にも逃げ出しそうだが――の背中に庇われつつ出口の前に立ったソラが必死に叫んでいるが、リオンはそちらに走っていく事は出来なかった。
理由はいたって単純で、最初の一本を倒した事により、リオンは薔薇達にターゲットされてしまったからだ。背中を見せて逃げ出せば確実に食われるし、仮に出口まで着けたとしてもソラもろとも飲み込まれてしまう可能性が高い。それは絶対に避けたかった。
「母上! 俺は大丈夫ですから、早く逃げてください!」
「貴方はッ…………いいえ。――なるべく早く兵を連れてくるわ。絶対に死んでは駄目よ」
ソラは何かを言いかけたが、すぐに飲み込んで硬い声でそう言った。
本当は愛する息子を危険に晒したまま逃げたくないのだろう。だが、この状況ではこの場をリオンに任せて置いていくのが最良の判断なのだ。――道徳的に問題があろうとも。
先ほどの一本目との戦闘でも分かる通り、リオンは二本が相手でも問題ないだろう。防御に徹すれば、万に一つも怪我を負いはしない。彼が時間を稼いでいる間に屋敷に居る兵を連れてきた方が賢明だ。
だからソラは決断した。本心を捻じ伏せ、冷静な理性で体を制御する。
「――――はぁ」
ソラ達が部屋を出たのを横目で確認して、リオンは溜めていた息を吐いた。
――実は先ほどのソラの決断。本人は気づいていないが、間違っているところがある。
いや、最初から狙われている人を囮にするという考えは正しい。
が、問題はリオンの存在だろう。
リオンは、順調にいけばスプリンディア公爵家の次期当主となる存在なのだ。もし次男、三男が生まれたとしても、彼が次期当主候補として最も優位な場所にいる事には変わりない。そんな存在を危険に晒しておくのは非常に問題だ。
それに、彼はまだ九歳なのである。普通なら、目の前で人が植物に捕食されている姿を見て泣き叫び、震えあがって動けない筈の弱い子供なのだ。
その辺りをソラが失念してしまったのは、半分……いや、三分の一くらいはリオンの所為だったりする。
リオンは昔から大人びていた。――あまりに大人び過ぎていたのだ。
十歳にも満たない年齢で大人との会話に自然と混ざり、得意な片手長剣での戦いでは指導している騎士に勝ってしまうほどに強い。その小さな体――といっても、同年代の子と比べれば大きいのだが――を目にしなければ、うっかり大人と間違えてしまうくらい、普通の子供とはかけ離れていた。
気味が悪いと言われて隔離されても仕方がないほどであったが、親馬鹿の影響なのか特に問題に上がる事も無く現在まで育ってしまった為、時々屋敷の者達はリオンを大人として扱ってしまう事が有った。
世間一般の常識から考えたらそんな環境は確実に異常だろうが、ともあれ、大人のように扱われてもリオンが気にしなかった――というより、そう扱われないとどこか居心地悪そうにしていた――為に、常識のある者なら子供に任せるような事はしない筈の事を押し付けてしまっていたのだ。
それが今も当て嵌った。
当て嵌まって、しまったのだ。
「――――」
だが、リオンは気にしていない。
否――気にする必要もないのだ。
自分がそのように振る舞っていたからそうなったのだし、わざわざ自業自得な事を人の所為にするほど腐ってもいない。子供ならまだ許される事だし、常識的に考えれば大人の方が間違っているのだが、心の根の辺りで、リオンはそのような『子供みたいな事』をする事を嫌がっていたのだ。
思春期の可愛い反抗なのかと問われれば、否だろう。
そういった普通の人に訪れるような簡単な事ではない。心の奥の奥、底の底――『自分』という存在を造る根幹が、子供である事を無意識下に禁じていた。
だから。
両の手で剣を握り、リオンは二本の薔薇と相対する。
「はぁぁぁァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!!」
例えそれが、自分の身に危険のある事だとしても――彼は『子供』を捨て、『大人』のように誰かを生かす為に戦うのだ。
――それでも、やはりというべきか。
その可能性に気付けなかった辺り、彼はまだ子供だったのだろう。
な、なかなか話が進まない……私の力不足ですね、すみません。
リオン視点はあと二話くらいで終わらせる予定です。(予定は予定であって変わる可能性も無きにしも非ず……本当にすみません)
次回も宜しくお願いします。