第十七話 白百合の夢Ⅳ
『……僕達は、間違えたんだ』
その腹に大きすぎる穴を開けた真白が、自嘲気味に呟いた。
血色に染まった空の下。大人達の魔王を降ろす計画――『反霊樹の王』計画に合わせて策を張り巡らせ、そして見事にイレギュラーによって蹂躙された子供達を眺めながら、血を吐くように真白は告げる。
『別に、草案を作ったジゼルが悪い訳じゃない。僕達全員が悪かったんだ。いや……違うな。全ての指揮を執った僕のせいだ』
『そんな訳ねぇだろッ!』
ボロボロの真白に肩を貸す銀髪の少年、大智が腹の底から叫ぶ。それは、全ての責任を一身に背負おうとする真白への怒りと悲しみが抑えられなかったから。
『お前のおかげで、ここまで犠牲が少なく済んだんだ。それなのに、自分が悪いだなんて言うんじゃねぇよッ! つぅか悪いのは全部あの大人達だ!!』
『……はは。そう、だね。……でも、』
『でもじゃねぇッ!』
なおも拘泥する真白に、大智は怒鳴る。その目の端に、僅かに涙を滲ませながら。
『月葉を助けられた。カルネを救えた。ガンショウを犠牲にさせなかったッ! 全部、お前の功績だ!』
『…………、ありがとう』
でも、と。
真白は、どこか影の差した笑みを浮かべて。
『……大智。後を、任せて良いかな』
『……は?』
意味が分からない、といった調子で聞き返す大智。覗き込んだ真白の顔は、今まで見たことのない歪な笑みを浮かべている。
そして真白は、まるで命を振り絞るようにして、告げた。
『僕はもう、駄目みたいだ。だから、後は……僕達の中で……一番強い、キミが……みんなを……ま、も…………』
――言葉は、最後まで続かなかった。
『ま……しろ……?』
真白の体を支えていた大智に、真白の全体重が預けられる。その顔を覗き込めば、瞳から光が消えた。呆然とした調子で大智の口から零れた名に、反応する少年はもう――この世にいない。
『お前……妹に、会うんだろ? 守ってやるって約束したんだろ!?』
返事はない。かつて大智に『箱庭を出た後の夢』を語った親友は、ただただ安らかに眠っている。
それを、理解して――。
『ああ……ああああああああッ! ああああああああああああああああ――ッッッ!!』
少年は、悲痛な絶叫を上げる。
全てを救おうとして、結局自分が助からなかった少年を想って。
そんな少年に全てを任せようとしていた自分達に、狂おしいほどの怒りを抱いて。
「…………」
自らの無力を噛み締める少年を、少し離れたところから眺める影がある。
かつてこの事件を経験し、そして絶望に落ちた、金髪の少女だ。
「……ありがとう、真白さん」
呟き、目を伏せる。
自分達を命懸けで救ってくれた、お人好しの少年を想って。
――そして。
「……ごめんなさい」
◆ ◆ ◆
まるでテレビのチャンネルを切り替えるようだと、リオンはぼんやりと考える。
二度目のノイズが晴れた。五感、五体ともに良好。ただ――心だけが、酷く痛む。
「……ここは?」
呟き、周囲を見渡す。
一度目は、孤児院なのか小学校なのかは分からないが、子供達がのびのびと暮らしている場所だった。
二度目は、外道魔術師の研究所で、子供達が得体の知れない超常存在をその身に降ろされて、そして子供達かそれとも降ろされた『ナニカ』か、それらによって全てが蹂躙された場所。
そして三度目は、どこぞの街の路地裏らしい。
濃密な霧が天の月を覆い隠し、歴史を感じられるものや現代風のものが入り交じった美しい街並みに深い闇を落とす。周囲に街灯はない。ただ――ゴミが散乱し、猫や鼠の死骸が隅で朽ちる細い路地で、退廃的なここには似合わぬ可憐な少女が二人、リオンの視界に映る。
一人は赤茶色の髪を後ろで三つ編みにして下げる、眼鏡がトレードマークの少女。第一印象は、クラスの委員長といったところか。少なくとも、衛生的にも治安的にも良くない路地裏にいるような人間ではない。口の端や衣服の節々にべっとりと血液を付着していなければ、の話だが。
そして――もう一人は、リオンの見慣れた人物。
天から光が注がない時でも輝きを失わない美しい金色の髪を腰まで伸ばした、まるで神が作ったとでも思うほど美麗な容姿の少女。その手には、彼女が実戦では決して抜かなかった漆黒の刀が握られ、闇に溶け込むような暗色の刃で獲物の首を狙っている。
フローラだ。その年齢は、十二、三歳ほどだろうか。髪は相変わらず銀ではないし、瞳もアメジストとは似ても似つかない深紅をしているが、やはりリオンが見間違えることはない。
『くッ。月葉さん……貴女、なぜ私を狙うのかしら……?』
こふっ、と内臓から迫り上がるヌメリとした血を吐き出して、赤茶髪の少女が金髪の少女を睨む。ぱっくりと刀傷が開いた左腕の先、握られる短剣の刃は金髪の少女を狙っている。――けれどその先端は、小刻みに震えていた。
『…………』
金髪の少女は問いに答えず、その手に握る漆黒の刀を赤茶髪の少女へ向ける。
『……そう。黙りなのね。……いいわよ、何としてでも口を開かせてみせるから――ッ!』
ザッ! と下げた右足を踏み締める。けれど前へ突き出された左手は震えていて、短剣の刃――そこから魔術で放射された風の刃は、フローラの頬を浅く掠めて通り過ぎる。
『次は外さないわ』
覚悟を決めた、と言外に告げる赤茶髪の少女。けれど――その声は、やはり震えていて。
『……カルネちゃん』
『……ッ』
小さく名を呼ぶ金髪の少女に、赤茶髪の少女がギリリッ! と奥歯を噛み締めた。金髪の少女も、そして赤茶髪の少女も気付いている。――外したのではなく、当てられないのだと。
けれど、赤茶髪の少女は刃を下ろさない。カタカタと情けなく凶器を握る手を震わせたまま、その鋭い切っ先は金髪の少女の心臓を狙う。
『……はず、さない。外すものですか。私は……裏切り者に、容赦はしないわ』
『…………』
『そうよ。裏切り。どうして? ねぇ、どうしてなの? 貴女もあの絶望を覚えているでしょう。忘れた訳がないでしょう? それなのに――なんで貴女は、まだそちら側にいるのッ!?』
カチャリ、と金髪の少女の刀が鳴る。静寂を保っていた漆黒の刀身が、僅かに震えた音だった。
赤茶髪の少女は、それを聞き逃さない。どこか先ほどよりも歓喜の気色を含んだ、けれど余計に困惑が深まった表情を浮かべて、
『佳夜さんも大智さんもガゼルさんも、貴女と仲の良かった者達は皆、《教会》から離れているわ。特に佳夜さんや大智さんなんて、貴女の故郷の日本に帰ったそうじゃない。あっちは《天道三大家》が幅を利かせているから、《教会》の手も届きにくいはず。それに《天道三大家》は真白さんの実家で――……ああ、いえ。何でもないわ』
言って、途中で赤茶髪の少女は口を噤んだ。
真白の実家。それは、『箱庭』の子供達の間では禁句だった。いや、真白だけではない。皆、親や兄弟のことは口に出してはならないのが暗黙の了解だった。
親なんていない。兄弟なんて知らない。家族は、『箱庭』の仲間達だけ。
――中には真白のような家族に未練のある者もいたが、ほとんどの子供達が生家のことを覚えていなかったため、『箱庭』にいる歳の近い皆で本当の家族のように暮らしていたのだ。
『……とにかく、月葉さん。今からでも遅くないわ。戻りましょう』
赤茶髪の少女は、刃を下ろした。これ以上凶器を家族に向けていると、気が狂いそうだったから。
『…………』
金髪の少女は答えない。刀の切っ先を赤茶髪の少女に向けたまま、ただ沈黙する。
けれど赤茶髪の少女は諦めない。何度も何度も、真剣な表情で、目の端に涙さえ浮かべて、真摯に手を差し伸べる。
『今ね、私、降霊術の研究をしているの。これが完成すれば、皆の中に降ろされた魔王どもを追い出せるかもしれない。でも恥ずかしながら私には、邪悪の樹関連、特に魔王周りは難しくって……けれど貴女がいれば、「箱庭」で最も魔術の知識を持った貴女がいれば、きっと好転するわ』
『…………』
『そうしたら、皆を救える。大智さんも、佳夜さんも、ペーレイシェアさんも、兎祇さんも……他の皆も。全員、魔王どもから解放してあげられるの!』
だから――と、願うように口にした言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
ズッ……と。赤茶髪の少女の腹から、刀が生える。
『……あ、ぇ?』
直後、水平な漆黒の一閃が闇夜で閃き。
ばしゅうううぅぅッ!! という強烈な勢いで以て、鮮血が路地裏を染め上げた。
『――な――ん、で……?』
べちゃり、と水音を立てて、赤茶髪の少女が頽れる。顔と地面に挟まれた眼鏡がパキリと割れた。破片によって眼球でも傷ついたのか、顔からも血溜まりが広がり始める。
『――つ、きは……さ、ん……』
ごぼり、と口腔から血塊が溢れる。
なんとか震えながら顔を上げ、金髪の少女と目を合わせる。その顔を――恐らく怒りと絶望に染まった表情を見たくなかったのか、金髪の少女は顔を逸らした。
けれど赤茶髪の少女は、己の体から流れ出る命の源を気にするよりも、かつての仲間に――家族に殺されるという理不尽に憤怒するよりも、目の前の少女の行動を信じたくないという顔をしていた。
――或いはそれは、金髪の少女を一番傷つける表情かもしれない。
『なん……で? わた、しは……わたし、は。た、だ……み、なを……救う……ため、に……家族、を……救い……たく、て……』
《聖星教会》に全てを壊された。
けれどその《教会》が作った『箱庭』で、皆と本物の家族のように暮らしたことは、間違いなく人生の中で最高の時間だと思えるし、一生忘れたくないとも思える。
たとえ《教会》の意志の元に集ったメンバーだったとしても。魔王などという得体の知れない存在を無理矢理その身に降ろされてしまった彼らを救いたいと、本気で思えるほどに彼女は家族を愛していた。
でも。
家族を救うためだけに命懸けで逃亡生活を続け、細い糸を手繰るように研究を続けていた少女は、最後は救いたいと思っていた家族の一人の手によって、地に伏せている。
『そう……したら、みな……また、むか……し、と……同じ……ように……へい……わに……な、かよ、く……すご、せる……って……し……ん……じ、て……』
ぱちゃん、と。少女の顔が血溜まりに沈む。
相変わらず血流は止まらない。けれどやがて、それも止まるだろう。もう、血液を体に巡らせるポンプが、止まってしまったのだから。
『…………』
カララン、と高い金属音が鳴った。――金髪の少女の手から取り零れた漆黒の刀が、アスファルトの上で跳ねた音だ。
『――あ、ぁあ……』
膝をつき、握った拳をアスファルトに叩き付ける。少女は非力だから、アスファルトが砕けたりはしない。鈍い音が鳴って、僅かに赤いものが飛び散るだけ。
はらりと揺れる金髪が、少女の頬を撫でる。ぽたり、と雫が落ちた。アスファルトに黒いシミができる。
『あぁ、あぁああ、あああああああああああああああああああああああ――ッッッ!!』
押し殺したはずの感情が、爆発した。
喉を潰さんばかりに叫んで。止めどなく溢れる涙を零して。何度も何度も、壊れるのも気にせず拳を堅いアスファルトに叩き付けて。――それでも絶望は晴れなくて。
『なんで、なんで、なんでッ!? 私は! 私は、こんなことッ! カルネちゃんは、なにも悪くないのに……ッ! みんな……みんなを救いたくて、それだけのために……魔術を、研究していたのに……ッ!! それだけで!!』
《教会》がクズの集まりだということくらい、少女にも分かっていた。
何の罪もない子供達を集めて魔術実験の材料にする研究が認められ、多額の予算が注ぎ込まれる場所なのだ。その研究に参加できることを泣いて喜び、神の名の下に子供の腹を開いて異物を詰めて魔術を刻んで取り出した臓腑を煮込んで機械と取り替えるような狂人どもの集まりなのだ。まともなはずがない。
だから当然、《教会》から下りる任務が、真っ当なものである訳がなかった。
『なにが神罰者です。なにが邪悪な実験をする魔術師の制裁ですかッ! お前らの方が何千倍も邪悪ですッ! 家族を救うためにあくまで人道的な手法で実験を進めていたカルネちゃんが、何千何万の人類を虐殺するための種になる……そんなはずがない!! 彼女は殺すためじゃなくて、救うためだけにその知識を! 技術を! 駆使していただけだというのにッッッ!!』
幾度となくアスファルトに叩き付けた代償に、手の肉が抉れて骨が露出する。しかしそんなこと、少女は気にしない。気にならない。――だって、彼女が殺した赤茶髪の少女は、もっと痛かったはずだから。
体も。そして――心は、もっと。
だから、止まらない。止められない。
そして。
「…………ッ」
――再び振り下ろされ、ついに骨に罅まで入った少女を、リオンは歯を食い縛って眺めていた。
声を掛けられない。いや、声を掛けたところで返答はないだろう。ここは、そういう世界だから。
それでも、自分で自分の体を傷つける少女を止めたかった。絶望に飲まれて抜け出せない少女を抱き締めたかった。たとえリオンの温もりで癒やせなくとも、少しでもその絶望を払ってやりたかった。
けれど、触れられないから。その熱を共有できないから。いくらリオンが少女の体に手を伸ばしても、すり抜けていくだけ。
「……クソッ」
悪態を吐いて、リオンは拳を握る。爪が掌を抉って血が零れるが、気にしている余裕などなかった。
――無力だと、これほど痛感したことはない。
ただただ己の無力さを噛み締める少年の前で、金髪の少女の慟哭が響く。ずっと。いつまでも。聞くだけで胸が張り裂けそうなほど悲痛な嗚咽が、夜霧の街に溶けていく。
――そして。
立ち尽くすリオンの五感を、三度目のノイズが塗り潰した。
次回も宜しくお願いします。




