第十六話 白百合の夢Ⅲ
「……ここ、は?」
リオンの呆然とした調子の呟きが、薄暗い部屋に反響する。
まだ若干、五感を揺さぶられた不快な感覚が残っている。けれど少しずつ治まってきていて、周囲を見渡す余裕はなんとか確保できた。
等間隔に配置された発光ダイオードは数が少ないため薄暗く、また部屋には窓一つ無いらしく陽光が全く差し込まない。靴裏の感触は堅く、先ほどまでの床暖房の余熱は消し飛んでいた。熱源が無いからか、どことなく肌寒くも感じる。
(……今は昼だし、別段冬季な訳でもないんだが……?)
となればここは地下室だろうか。――いや、そもそもいかな手段でかあの金髪の少女に連れてこられたこの見知らぬ空間で、現実の気候など当てにして考える方が間違っている。そう思い直し、リオンは再び現在の状況を見直す。
(確か……あの金髪の少女を追いかけてたら、いつのまにか地球にあるような部屋に居て、それで窓の外を見たら……、――っ)
幼い、まだ五歳ほどのフローラがいた。金髪で、瞳も紅玉のような深紅だったが、リオンには分かった。
その周囲にいた子供達のことは分からない。しかし――恐らく、これは。
と、自分の身に降りかかる不可思議な現象の正体を曝こうとした――その瞬間。
『ああ、あ、ああああああああああああああああああああああああああ――ッッッ!!』
突如、空気を引き裂くような絶叫が、リオンの鼓膜を乱暴に叩いた。
不意打ち気味に上がったそれに、リオンは反射的に振り向く。その悲鳴は、この薄暗い部屋の中央からだ。何かを考えるより早く、足が勝手に動き出す。
『空間魔力値上昇。対魔力障壁AからCの破壊を確認』
『位相は?』
『第二層です』
悲鳴に紛れて、冷静な声が耳に届く。どこか実験経過を見守る科学者じみた会話。しかしその内容から、彼らが魔術師だと分かる。
だがこの部屋にいる人間は、リオンを除いて一人だけ。どこか別の場所から、悲鳴を上げる『彼』を観察しているのだろう。その時に交わされた会話が、マイクか何かを通して聞こえてくるのだ。
『ふむ……この数値と色、第八獄門か? だが、これでは……』
『狡猾なる太陽の王は、十三番には少々厳しいですね。情欲喰らう夜の魔女辺りならば、まだこの「器」でも堪えられるのですが』
『もとより、さほど強くもない器だ。壊れても構わん。むしろ、一度降ろすことに意味がある』
魔術師の不快なまでに冷静な会話など、すでにリオンの耳には入っていない。
そして、無意識に動いていたはずの足が、止まる。
目の前には、一人の少年が天井を仰いでいた。
緩衝マットが敷かれたベッドの上で、四肢を投げ出している。ただ眠っているように見えないのは、その瞼が限界までこじ開けられ、はち切れた血管から血液を滲ませているからか。
その腹に何重もの鎖を巻かれ、さらに魔術で固定されている。つまり少年は、ベッドに縛り付けられているのだ。しかし腹部周辺の鎖に罅が入って血がこびりついていること、そして少年の指の皮が剥けて爪が剥がれていることから、彼が必死にこの拘束に抵抗したということが分かる。
「何が――何が、あったんだ……?」
呆然と。ただ呆然とそう呟き、リオンは緩慢な動作で少年の周囲を眺める。
ベッドの周囲の床には、酷く複雑な魔法陣が描かれていた。その内容を読み取ることは、リオンにはできない。その知識がない。せいぜいが、これによって起こる魔術が生命の樹や邪悪の樹に関係することくらいだ。
だが、いっそ一種の芸術にすら思えるその幾何学文様よりも、目を引くものがある。
体の節々から赤黒い体液を噴く少年の、胸の上。そこに、黒と橙の絵の具を垂らして禄に混ぜていない混ざりかけの色をした球体が、浮かんでいる。
その歪な色に顔を顰めて、それから球体の放つ濃密な魔力に、リオンの思考は吹き飛んだ。恐怖。それしか、頭に入ってこない。
『これはもう駄目だな。しかし狡猾なる太陽の王が一部とはいえ降ろせたのは大きい。次は、黒橙の適正値が高い奴を入れろ』
『十七番ですね。了解しました』
『恐怖心は大分溜まっているか?』
『十分でしょう。この光景を見て怖じ気づかない子供はいません』
当然だ。大人だって血の気が引く。それから、憤怒に身を焼き、絶望に押し潰され、そして抑えようもない殺意を爆発させるだろう。――これから被験者となる者なら、なおさら。
何の事情も知らない――いや何も事情を知らないからこそ、リオンはこの光景に衝撃を受けた。激情を滾らせた。
けれどすぐに、彼は思い出す。ここが、『何』なのかということに。
まだ予想でしかない。けれどたぶん、正しいはずだ。
「――フローラ……ッ!」
愛しい少女の名を呼んで、リオンは視線を部屋中に巡らせた。その視界に、ベッドの上の死体は映らない。――もう何をしても無駄だと気付いてしまったから、せめて心の中で死後の安寧を祈り、そして惨劇を起こした人間に怒りを抱くだけに留める。
今は、何よりも優先したいことがあるから。
『ああああッ! やめろ、クソがッ! あああああああッ!! コニーを戻せよ! 治してくれよッ!』
『早く縛って寝かせろ』
『はい』
『クソがああああッ! ふざけんな、ふざけんなよテメェらッ! 殺す、殺す殺す殺してやるよ! ああああああッ! あの人が……真白さんが、ぜってぇテメェらを許さねぇッ!!』
ありったけの怨嗟を叫びながら、次の子供がベッドに寝かされる。今からまた、先ほど少年を殺した魔術を起こすのだろう。
止めたい。今すぐクソ以下の魔術師どもをぶっ飛ばして、自らの死を前に絶叫するこの少年を助けたい。
でも、できない。
なぜなら――。
「クソッ、クソクソクソッ! 何でだ……何で触れないんだよッ!」
淡々と、慣れた作業のように少年をベッドに寝かせ、鎖を巻きつける外道魔術師――その横っ面を殴りつける。全力で、手加減などする気はない。魔力で強化すらしたリオンの一撃は、七十キロを超える大人であろうと十メートルは吹き飛ばしてしまうだろう。
しかし、魔術師の体は揺るがない。
それどころか、リオンの拳は魔術師の体をすり抜けたのだ。
攻撃を透過させる魔術だろうか? そう思ったリオンは魔術を用いて魔術師の奇妙な防御を破ろうとするが、しかし彼の者を守る魔術はまるで見当たらなかった。
ならば目的を切り替え、リオンはベッドに寝かされた少年へ目を向ける。
そして少年をベッドに拘束する鎖に手を伸ばし、それを魔術で破壊しようと試みる――が、肝心の物質に触れない。まるで実体のない霧のようで、魔術で破壊する対象に鎖を選択することすらできなかった。
「なんで……何なんだよぉッ!!」
喉を潰さんばかりに叫喚するリオンの目の前で、魔術が起動する。
個人で運用するような量ではない膨大な魔力が魔法陣に注がれ、複雑怪奇な幾何学文様が網膜を灼くほどの輝きを放つ。色とりどりの燐光が踊り、果てしない重圧が部屋を押し潰す。尋常ではない――決して喚んではならない存在が顕現する、その前兆。
『おお……おおおッ! 来る、来るぞッ!』
『空間魔力値急上昇、限界値を突破しました! 対魔力障壁、D、Hを残して消失! 保ちませんッ!』
『【神界の聖壁】を起動しろッ! 魔力をケチるなよ!』
ベッドの上で仰向けになりながら背中を仰け反らせる少年を中心に、魔力と瘴気の嵐が巻き起こる。周囲の床が抉れ、事前に張り巡らせていた魔術の障壁がまるで飴細工のように次々と打ち砕かれた。その、あまりに凶悪な力に、何やら別の部屋からここを覗く魔術師達が新たな障壁を築く。
――それをリオンは、少年のすぐ傍で見ていた。
「俺には……効いていない? いや――まさか」
魔術師には、拳が届かなかった。鎖にも、触れられなかった。そして今、物理的な被害を齎す規格外の魔力が荒れ狂う中でも、全く被害を受けていない。
それらをヒントに、リオンは出かけていた答えに確信を持つ。
ここは――ここでは、リオンは何も干渉できない。ただ、過去の光景を、傍観するだけなのだ。
「は、はは……なんだよ、何なんだよ……これ」
得体の知れない『ナニカ』を身に宿してしまった少年が別の部屋に運ばれ、そして次なる被験者がまた魔術の犠牲になる。死ぬか、或いは『ナニカ』を宿したら次が。何人も何人も。死ぬ数の方がずっと多い。
そして――番号が二十四を刻んだ時。
『嫌……やめて、佳夜ちゃんを連れて行かないでっ!』
――フローラの声だと、リオンはすぐに気付けた。
気付いて、そして絶望した。
「あいつも……これの、犠牲になるのか?」
扉が開き、魔術師に手を引かれて蒼銀の髪の少女が入室する。前の光景で、幼いフローラの横で一緒に本を読んでいた少女だろう。しかしその体は成長し、十歳前後のように見える。
『月葉。私、絶対に生き残る。そうしたら……後は全部、真白さんに任せて』
『――っ、で、でも……っ!』
『お願い。……私は大丈夫だから。ね?』
金髪の少女に微笑みかける蒼銀の髪の少女の目は、決意した人間のそれ。金髪の少女は溢れる涙を流しながら、それでもなんとか蒼銀の髪の少女の言葉に頷いた。
扉が閉じ、被験者となる蒼銀の髪の少女だけがベッドに寝かされる。きちんと拘束したのを確認してから、魔術師が去っていった。
『……絶対に、生き残ってやるんだから』
そしてまた、魔術が――悲劇が、起こる。
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッッッ!!』
喉を潰さんばかりに叫んで、目玉が飛び出さんばかりに見開いて、必死に生にしがみつく。その血の滲む絶叫は、きっと、その身に過ぎた存在を降ろす蒼銀の髪の少女だけのものではない。
『おお……っ! これで、これでついに……ッ!』
『ええ、ええっ! 揃います! 魔王が、全て!!』
絶望的な力が荒れ狂う中で、歓喜の声を上げる者達がいる。魔術師達だ。子供達を実験動物のように扱う、正真正銘の外道ども。
「クズが……ふざけるのも大概にしろよ……ッ!」
ギリッ!! とリオンの歯が鳴る。血が滲むほど拳を強く握り締め、心の底から湧き上がるどす黒い殺意に促されるまま、はしゃぐ魔術師どもの声が聞こえてくる方を睨み付けた。
けれど――直後に、リオンの意識は圧倒的な衝撃によって上塗りされた。
『 、 。 !!』
何か、音が鳴ったはずだ。
けれど何も聞き取れない。
同時、視界も白く染まる。
全てが消え失せる純白。目玉が潰れたのだとリオンは錯覚した。
しかし、違った。
これは――魔王をその身に宿した子供達が起こす、逆襲。
その、最初の一手。
「――――ぁ」
意味のない声がリオンの口から零れる。
――どのくらい経った頃だろう。いや、或いは数秒だったかもしれない。だんだんと視界が晴れてくると、ようやくリオンは現状を認識する。
周囲は全て、文字通り吹き飛んでいた。ベッドなど跡形もない。今リオンが立っているこの床すら、元の綺麗に張られたタイルなどではなく、むき出しの土なのだから。
どのくらい深く抉り取られたのか、想像もつかない。けれど陽光が届かないのだから、相当深いはずだ。――いや。
「……違う。これは、深いのが原因じゃない」
口に出して否定する。
おもむろに空を仰ぐリオン。天井ではない。そんなもの、とうに消し飛んでいる。
だがそれでも温かな太陽の光が降り注がないのは――きっと、空が紅く染まっているからだろう。
空が血色に染まった日。それを目撃した魔術師は、こう呼ぶ。
「――『終末の天使が降りた日』」
魔術師の間では有名な出来事。《聖星教会》のエリート魔術師が禁忌を破り、バチカンとその周辺諸国を吹き飛ばした悪夢の日。魔術を認識していない一般人ですら最悪の日だと認識する、天災が世界を揺らした事件。
『――逃げろ、月葉! 真白と大智が外にいる! 佳夜を連れて、早く!』
『クソッ、クソがッ! 僕が、僕があんな無責任なことを言ったから……ッ!』
『あああああああッ! ミ、リア……ミリアッ! なん、で……いやぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッッッ!!』
『ごえ、グおあッ!? あぅえっ……い、たい……痛い、痛いよぉ……っ』
『たす、けて……助けて、月葉ちゃん――』
ふらふらと、まるで夢遊病者のようにリオンは歩き出す。その視界に映るのは、鮮血と、炎と、雷と、酸と毒と肉片と骨と目玉と闇と影と光と土と氷と水と風が舞って踊って狂って散って――。
駄目だ。これ以上は見たくない。悲鳴の一つも聞きたくない。五感の全てを断ち切って、この悪夢から解き放たれたい。
炭化した魔術師の死体がある。脳天から罅の入った子供の生首が転がっている。原型の留めない人肉がグズグズに溶けている。未知の生物が毒素に犯された体液を噴出している。スライムみたいなぐちゃぐちゃのナニカが呪詛を吐き出しながら地を這っている。
全てが、元々は人間だと、リオンは認識できなかった。
――こんな地獄、知りたくなかった。
「――――ぁ」
ふと天を仰いで、リオンはそれを目にした。
――鮮血で塗りたくった空を背後に、手を繋ぐ二人の少女が下界を睥睨している。
一人は漆黒の翼を、もう一人は純白の翼を。彼女達が自由な手を振るうだけで、子供の腹が裂け、魔術師の脳天が割れ、人肉が酸に溶かされ、内臓が毒に壊され、倒れ伏した人間が潰され、頭をもぎ取られ、四肢が刻まれ、心の臓が抉られる。
「――終末の……対天使」
前世、秋里春斗の魔術の師匠だった人物の口から聞いたことがある。世界を、いや、それを内包する星界を終わらせる、二体の祖神の力――その権化の存在を。
絶望的なまでに圧倒的な力を無感情に振るう超越存在を、呆然と見上げるリオン。その耳に、ふと声が届いた。
『――なんで……こんな、ことに……?』
その声に、リオンはびくりと肩を跳ねる。ゆっくりと振り返れば、そこには美麗な金髪を血と土で汚した少女がいた。
『なんで麻衣ちゃんは、死ななきゃいけなかったの? なんでネモットちゃんは、死ななきゃいけなかったの? なんでマノロくんは、キペンくんは、ラーナさんは、死ななきゃ……殺されなきゃいけなかったんですか?』
そこには、憎悪があった。憤怒があった。決定的なまでの殺意があった。
彼女の世界は、絶望で動き出す。
『ゆる、さない』
重く、冷たく。少女は吐き捨てる。
『世界も……天使も、魔王も、あの魔術師どももッ! 全部全部、許さないッ!!』
血を吐いて、絶望を抱いて、怒りを放って、殺意を滾らせる。
そんな、幼い愛しの少女を見て――リオンは。
「…………」
何も言えず、ただただ、五感を侵食する覚えのあるノイズに、身を委ねるだけであった。
次回も宜しくお願いします。




