第十三話 見えない真意Ⅶ
「――――」
意識の覚醒は、まるで水中から顔を出すようだと、ダリウスは鈍い頭で考えた。
(……ここは)
縫い付けられているのかと思うほど重い瞼をこじ開け、未だぼんやりと霞む視界に映ったのは灰色の天井。やや水分が足りず動かす度に刺すような痛みを発する眼球を回して周囲を見れば、そこはすっかり慣れてしまった鈍色の空間だった。
(……、戻ってきた……のか?)
ダリウスが監禁されていた地下室に、再び寝転がされていたらしい。安心したような、残念なような、不思議な感情が胸に込み上げる。
――いや。
(……なんで、俺は……生きている……?)
死んだはずだ。――血の繋がった可愛い妹、フローラが放つ氷の剣に腹を貫かれて。
その壮絶な『死』の感触は今も克明に思い出せる。その時のことを意識しただけで、腹部に痛みを幻覚するほどだ。或いは、まだ痛みが残っているのだろうか。
腹部に手を当てると、カサカサとした感触が伝わってきた。触れた指を見ると、僅かに赤い。血だ。恐らく、肌や衣服に付着した血液がそのまま乾燥してしまったのだろう。どうやらダリウスは、傷を治療されたあと、少なくとも数時間は放置されたようだ。
――と、考えて。
(待て……それは、おかしいだろう)
心の中で否定する。
土手っ腹に大穴が空いたのだ。そう簡単に治るものだろうか?
――否。たとえ宮廷魔術師団の最高位治癒術使いが全力の治療にあたっても、その致命傷たり得る負傷を痕すら残さず完璧に治すことなどできる訳がない。ダリウスはあの時、内臓やその他重要器官が消し飛んでいたのだ。ワイズレット王国の保有する医療知識と魔道技術を総動員したところで完全修復は望めないだろう。無論、王国一の魔術師である父・アイザックですら不可能なはずだ。
――だが、ダリウスの脳裏に銀髪の少女の顔が浮かび上がる。
「……まさか、フローラ……なのか……?」
自分でも驚くほど掠れた声で呟いて、直後にダリウスはその考えを否定しようとする。
けれど彼女以外に、致命的な負傷を治しきる魔術を扱えるであろう魔術師を、彼は知らなかった。
下手をすれば一撃で一軒家を吹き飛ばす吹雪を操り、鋼鉄の壁を穿つ氷の武装を連続で撃ち放つ。その常識外れの――芸術とも評される魔術操作能力を有するあの少女であれば、或いは冥府の門を叩かんとする重傷者すら現世へ引き戻してしまうのではないだろうか。
さすがにそれは過大評価だろうか? ダリウス程度の実力では彼女の能力を到底読み切ることなどできず、その正否すら曖昧に終わる。
そもそも、フローラはダリウスを殺す気だったのだ。治せる治せないの話ではなく、まず治す気など到底起こらないだろう。だから彼女は、きっと違う。
「……そうだ。アイツが俺を治す理由なんて、ない」
「――果たして本当に、そうかしら?」
刹那、仰向けのままだったダリウスの体が、反射的に起き上がる。長時間固まっていたからか、急激な動きに節々から痛みが沸き起こるが、それに意識を傾ける余裕はダリウスにはなかった。
「誰だっ」
壁に背中をつけ、部屋全体を見渡すように誰何する。染みついた習慣で、すでに全身に魔力が巡っていた。魔力回路はフローラに殺されかける前よりずっと改善していて、もう全快していると言えるほどに調子が戻っている。むしろ今までよりずっと魔力の通りが良いほどだ。本当に、自分の身に何が起こったというのか。
ダリウスが僅かに逸れた思考を戻しているうちに、無風の地下室に突如風が起こる。
(どこから風が吹いている……っ!?)
唯一の出入り口である扉は閉まっている。恐らく錠も解かれていないはずだ。
眼球の乾燥による痛みなど意識から追いやって、ダリウスは必死に部屋を見渡す。しかしどこにも風が入り込むような穴はない。――いや、今、ようやっと視えた。
「そこか――っ!」
霊器から魔力を熾し、魔術を紡ぐ。看破の魔術。或いは妨害とも呼ばれるものだ。特殊な波長の魔力をぶつけることで、魔力と魔術式を乱し、魔術を強制的に消滅させる。相殺や上書きよりも魔力を必要とせず、かつそれらよりも難易度に対して効果が大きいので、ダリウスはよく使っている。……もっとも、細かい魔力操作と術式構築を必要とされるので、ここぞという時にしか用いないのだが。
ブオン、という昆虫の羽音にも似た音が反響する。直後、ダリウスの妨害の魔術が壁の一部に掛かっていた魔術を滅茶苦茶に乱し、その効力を保てなくすると、魔術は保有していた魔力をまき散らして消滅してしまった。
そして――その瞬間、部屋の壁に穿たれた穴が、ダリウスの視界に映された。
「なっ――」
人が通れるほどの穴。まず簡単に隠せない大きさのそれは、ダリウスを絶句させるに足るものだった。
そしてその謎の穴から現れたのは、金髪ポニーテールを揺らす少女。
エーデルワイス邸に何度か訪れてきたことがあるので、その顔と名前は承知している。そして行く行くは妹の義妹になるはずの少女のことを、ダリウスが知らないはずがない。
だが――その雰囲気も、髪型も、目つきも、自分の知る彼女とは随分違って見えた。
そして何より――彼女の雰囲気が、体内の魔力の巡りが、ただの公爵家の娘だとは思えないほど魔術師に似ていて――。
「クリステル=スプリンディア……? どうしてお前が、ここに……?」
「疑問の解消は後よ、次期宮廷魔術師団長様。まずはこの陰気な場所から出るわよ」
気丈に言い放つ金髪の少女、クリステル。その魔術師然とした態度にダリウスは息を呑み、思わず鋭い視線をクリステルへと向けるが、しかし彼女は依然としてダリウスの瞳を見詰めている。
そしてなかなか動き出さないダリウスに、彼女は一つ溜息を吐いてから、こう言い放った。
「今、王都は荒れているわ。都民はそれほどじゃないけれどね。上層部がてんやわんやの大騒ぎよ」
「……それは、フローラが関係しているのか?」
「ええ。さすがトップに立つ魔術師様は、頭の回転が速いわね」
その回転速度は果たしてフローラに勝るものなのだろうか、と無意味な疑問が湧いてきて、すぐに思考を中断する。今は別のことに意識を割いている余裕はないのだ。
僅かに顔を顰めたダリウスの変化を流して、クリステルは続ける。
「フローラ=エーデルワイス……いえ、勘当されたから今はただのフローラね。あの人の脱獄により上層部は今一度全ての貴族を疑わなければならなくなり、そこへ追い打ちを掛けるようにギルガメシュの使徒……それもグラハム=ラルディオからの宣戦布告。勿論ラルディオ家は関与を否定して、今は彼もただのグラハムにされているけれど……ラルディオ家もエーデルワイス家も、被害を免れないわね」
まぁそこは別にどうでも良いのだけれど、とクリステルは言い捨てる。薄情なようだが、彼女にとって家のことなどどうでも良いのだ。大切なのは個人であって、所属するものではない。
「問題は、狙われた王族を守るために、騎士が最も防御力に優れた王城に集められたこと。でもフローラ様という王子や王女が信を置いていた者が裏切ったため、王子や王女を護衛する者を適当に決める訳にはいかなくなった。だから魔術による強力な制約を掛けた騎士を配備し、そして最も近い位置に王子と王女が指名した騎士を置くことになった。この意味、分かるかしら?」
彼女の言う王子と王女とは、第一王子と第一王女のことを指すのだろう。であれば、メルウィンとアイリーンが最も親しくしていた騎士の名を述べれば良い。
そう――幼い時分から政治的思想のもとに集められていた、あの子達の中から、騎士の名を――。
「ま、さか……」
一人は当然、王国の剣であるスプリンディア家の長男、リオン。
そしてあと一人、貴族の令嬢でありながら騎士となった変わり者がいたではないか。
――ダリウスの愛する、あの少女が。
「ヴァネッサ……なのか? ヴァネッサのことかっ!?」
否定して欲しい。間違っていると切り捨てて欲しい。けれどその願いは、届かない。
「ええ。彼女は、アイリーン殿下の護衛に就くことになったわ。本人は、フローラ様の捜索に注力したかったみたいだけれど」
ふふっ、と微笑むクリステル。その双眸は、どこか眩しいものを見るように細められている。
けれどダリウスは、自身の愛する少女が王女の護衛という危険な役目を負っていることに、頭の中が真っ白になっていた。
その様子を目にしたクリステルが、告げる。
「もう一度だけ言うわ。――早くここから出るわよ、次期宮廷魔術師団長様。守りたい女がいるのでしょう?」
その問いに対する答えは、とうに決まっていた。
「ああ。――ヴァネッサは、俺が守る」
監禁される以前より調子の良い魔力が昂ぶる感情に呼応し、魔力回路の上で力強く脈打った。
◆ ◆ ◆
地上まで続く土の道を進みながら、クリステルはぼんやりと思考する。
(一途ね、次期宮廷魔術師団長様は。ま、知ってたけど)
自分が生み出したキャラクターなのだ。その性質は、よく知っている。
もっとも、自分が入力した情報だけでこの世界の人間が成り立っている訳ではないことは承知している。けれども根っこの部分は変わっておらず、それが少しだけ、クリステルの感情を揺さぶった。
と、少しだけ意識を逸らしていたクリステルの脳に、直接男の声が響く。
『おい。コイツを助ける必要があるのか?』
傲岸不遜な超越者の問いかけに、クリステルは溜息を零した。ダリウスにバレないよう、こちらも契約の繋がりを辿って言葉を返す。
『……タンムズ。勿論あるわよ。今の私じゃ十全に力を振るえないのだから、戦力確保は大事なの』
先日の鮮血の茶会事件の折、クリステルは魔術薬品で怪物化したモルドバーグと戦闘し、手酷い傷を負った。幸い体の傷はすぐにタンムズが治してくれたのだが、酷使した魔力回路はいくつか故障してしまい、自然治癒を待つしかない状態になってしまったのだ。そのせいでクリステルは今、十分な実力を発揮できず、これから起こる戦いに単独で臨むのは非常に厳しいのである。
だから、戦力を補充する必要があった。それも、ギルガメシュの使徒に立ち向かえる、とびきり強力な人間が。
幸いクリステルの脳内には、前世で作ったキャラクター達のパラメータが残っていた。それを掘り返し、今現在最も活躍できるであろう人物を検索し――そうして白羽の矢が立ったのが、ダリウスだったというわけである。
しかしクリステルの返事に不満があるのか、返ってきたタンムズの声はどこか荒い調子だった。
『ふんっ。そんなもの、我がいれば十分であろう』
『あまり貴方に頼りたくないのよ。差し出せる対価が私には少ないんだから』
『そんなものっ――……いや、なんでもないッ』
言いかけ、突如タンムズは荒く言い捨てる。クリステルは何事かと眉を顰めるが、タンムズから返事はなかった。
これ以上その会話を続けると不利だと感じたのか、ややあって、タンムズは話を変えてくる。
『……そういえば一つ、貴様に忠告しておくことがある』
『何かしら?』
『あの銀髪の小娘についてだ』
ぴくり、とクリステルの眉が動く。彼の指す人物は、間違いなくフローラのことだろう。クリステルは『続けて』と話を促した。
するとタンムズは、低い、警戒するような声音で以て、告げる。
『あの銀髪の小娘に遭遇したなら、決して争うな』
『……どういう意味?』
もとより、クリステルの読み通りにフローラが動いているのなら、クリステルにフローラと争う意志はない。
けれどタンムズは、まるでまるきり敵だと決めつけているような調子で続ける。
『しかし逃げるのは無駄だと思え。あの銀髪の娘は、貴様など片手間で殺せる力を持っている』
『そりゃ……まぁ、フローラ様は強いと思うけど』
鮮血の茶会事件の時、幾度か彼女が戦う場面を目にしたが、その実力は端的に言って凄まじいの一言だ。魔術の扱いも、体捌きも、戦況の読みも、何一つクリステルには真似できそうにない。
だがそれだけで、タンムズが警戒を促す理由になり得るとは思えない。
なにせタンムズは、神の一柱なのだ。【死】と【再生】、そして【植物】を司る超越存在。およそ地上に対抗できる存在などいない、絶対的強者のはず。
『貴様は一つ勘違いしているようだが』
と、タンムズの絶対有利を疑わないクリステルに、神様は現実を言い放つ。
『所詮神と言っても、その始まりはその辺の人間とさして変わらない。大半の旧き神を除いて……すなわち序列二十位以降は、人間及び類似種族からの成り上がりなのだからな』
「なっ――」
思わず声に出ていた。後ろのダリウスが何事かと訊いてくるが、何でもないと返し、タンムズの話に意識を注ぐ。
『それって、どういう意味?』
『言葉のままだ。我のような序列二十位以降の神は、始まりの神……双祖神が起こした「再構築」の後に星界戦争によって天上の第三域に上った、ただの人間。いや、魔術師だ』
すなわち、とタンムズは至って平坦な口調で述べる。
『魔術師とは、神になれる可能性を秘めた存在である。そして神になれるということは、神と同等の力を有するということ。つまり――才能如何によっては、神を殺し得る魔術師は存在するのだ』
「――――」
クリステルの中にあった認識が、粉々に砕け散った。
誰が普通、神がちっぽけな人間に殺されるなどと突拍子もないことを考えるだろうか。
実際問題、世界の事象を自由に操る超越者たる神々が、法則に縛られる人間に負けるなどあり得ない。なにせ勝負の土俵が違うのだ。初めから勝負にならないだろう。
けれど――神が元々人間で、人間は神になれる可能性を持つというのなら、話はまた変わってくる。
でも――。
『そんな……そんな人間、いるの?』
『いる。少なくとも、あの銀髪の小娘は、すでにその域に到達している』
神は断言した。己と同等の霊格に、フローラはいると。
『……が、まだ不確定だな。だが警戒しておく必要はある。……もっとも、この世界においてあの小娘は、我など塵芥のように屠るであろうが』
『え? それって、どういうこと?』
しかしクリステルの疑問に対する答えは、一向に返ってこない。代わりにタンムズは、最後にこう告げる。
『肝に銘じておけ。この世界において、あの小娘は最強だ。絶対的強者だ。神々すら、この世界ではあの小娘にとっては矮小な動物と変わらない』
『は、はぁ? ちょっと、どういうことよっ!?』
返答はない。いくら問いかけても、タンムズは沈黙を返してきた。
結局、ダリウスの救出に成功し、戦力確保を完了しても、クリステルの中には疑問が残っており、モヤモヤとしたものを抱えたまま戦いへと臨むこととなる。
――この一秒すら惜しい局面では、悩んでいる暇などないというのに。
次回も宜しくお願いします。




