第十六話 砕け散る氷華
遅くなりました。
――魔術が、怖かった。
いつもそれを使う時は人の命を奪う時で、どれだけ彼女が嫌がろうとも、幸福を壊す事にしか振るう事を許されなかった。
それが花園月葉という少女の人生だった。
それが道具である彼女の全てだった。
上からの命令に従って理不尽に人を殺し、組織の力を強める為に他者の研究成果を奪い、穢れ切った屑達の欲望を満たす為に数多の血の海を生む。
彼女の利用価値が、それだけだったという話。
成り損ないでしかない彼女は、そうなる以外に道が無かっただけの話。
全てが赤く染まった『あの日』――暴虐に吞み込まれて失われた命に、血の涙を流して謝り続ける少年がいた。
確かにあの日の悲劇が生まれたのは、彼の所為だった。彼が脱出計画などという不確かな情報から組み上げた稚拙なお遊びに皆を巻き込んでしまったから、多くの子供達が無残に死んだ。それは疑いようもない真実である。
だが、それに乗った皆も悪い。
だから、『家族』を犠牲にしても結局逃げ切れなくて、組織の道具のまま生き恥を晒した月葉は、自業自得なのだ。
でも。
それでも。
その道に進む事が自分自身の所為だったと頭で理解していようとも、血塗れた道に忌避感を懐いてしまった。
魔術は人殺しの道具である。
醜い欲望を殺戮に昇華し、人如きが神に成り代わり、悲劇を面白半分に撒き散らす最高の叡智の業。世界に、それを包み込む宇宙に、全てを含む星界に、膨大に溢れる神秘を道具に変え、自由に振るう冒涜の業。
最初は、彼女も魔術が好きだった。
純粋に知識を求め、技術を磨き、新たな術を創り出すのが楽しかった。
けれど、それらは全て人を殺す為に利用され、幸せを壊す事は有れど生む事はただの一度もなかった。
だから彼女は、魔術が怖かった。
――否。怖くなってしまったのだ。
競って鍛えた親友がいた。
協力して研究した同士がいた。
互いの力を認め合った好敵手がいた。
――そのうち何人かは、月葉の手で血海に沈めてしまったけれど。
今更、謝罪の言葉など口には出来ない。否、するべきではないだろう。月葉がそんな事をしても、その行為は死者を冒涜するだけなのだから。
謝る事も許されず、血を流し、罪を重ねる日々。だから最期の瞬間になって、ああ、これでもう、自分は魔術なんて人殺しの業は振るわなくて良いんだ――などと自分勝手にも思ったのだが。
何の因果か、むしろこれが背負った罪に対する罰なのか、またも彼女は、魔術が社会を毒のように犯す世界に生まれてしまった。
そして皮肉にも、その世界は彼女が心の拠り所にしていた物語の世界だった。
唯一の精神の逃げ道を犯されて、背負った罪の数だけ心を嬲られて、今、体もボロボロに朽ちようとしている。相応しい末路だろう。前世の罪は今世の罪、などというのは酷いと思いはするが、それだけの事をしたという自覚はあるから何とも言い難い。
けれど。
だけれども。
嗚呼、なんという事か。
月葉が受けるべき罰に、無関係な少年まで巻き込まれてしまっている。
それは、駄目だ。
それは、認められない。
彼は関係ない。こんな罪に塗れた人殺しの少女を庇う優しい少年が、こんなところで彼女の代わりに死ぬ事なんて有り得ない――あっては、ならない。
死ぬのは自分だ。
けれども、簡単に死ぬ気など、いつの間にか無くなっていた。
どうしてだろうか。幾ら考えても、答えは出ない。
でも、そんな事はどうでも良い。
今、目の前で死を待つ少年を、この手で助ける。――それだけを、考えるのだ。
方法は、必然的に一つだけだった。
それは、魔術。星界の神理を一時的に改変し、超常の現象を引き起こす業。世の神秘であり、また神理を解く学問であり、そして人間を高次元存在――神に到達せし者に至らせる術技でもある。
花園月葉が、最も得意としたモノ。
最恐最悪の、人殺しの道具。
人類が編み出した、神をも殺す天魔の術。
怖かった。体が震えた。精神が泣き叫んだ。絶叫して、怨嗟を零して、呪詛を吐き出して――それでも。
嗚呼、嗚呼。
それでも、もし、その人殺しの道具で、あの少年が助けられるというのなら。
彼女は今一度、諸刃の剣に手を伸ばす。
◆ ◆ ◆
「【舞い踊る氷刃の小夜曲】――七本精製」
荒れ狂う細氷の嵐が止むより早く、フローラの周囲に生み出された氷剣達がサイラス目掛けて飛来する。
その速度は弾丸を超え、雪の暴風に吹き飛ばされて身動きが取れないサイラスへと無慈悲に突き刺さり、肉を易々と穿った。
「あが――ッ⁉」
堪らず血を吐き出し、氷剣達の衝撃に弾かれて宙を舞うサイラス。飛び散った血飛沫は床を紅く濡らそうとするが、そこへ近づいたフローラの周りに漂う冷気によって、一瞬で凍り付いてしまう。
海の如く広がる鮮血に沈み、力なく床に横たわるリオンを介抱してあげたい気持ちを押さえて、フローラは敵のもとへ歩み寄る。その紫の双眸は氷よりも冷たく、放たれる殺気は先ほどまでリオンやサイラスが放っていたモノが霞むほどに研ぎ澄まされていた。
叩き付けられるようにして床へ落ちたサイラスは、常時フローラ達の前では崩さないでいたにやにや笑いをとうに消しており、苦悶に顔を歪めながら体に刺さった氷剣を抜いている。すぐさま止血しなければ無事では済まない傷だが、しかし応急処置の暇などフローラは与えない。
「十二本精製」
数は増えて十二本。うち三本を槍として創り出し、九本の氷剣と共に撃ち放つ。
ダダダダダンッッッ‼ と機関銃にも似た衝撃音を打ち鳴らして床を穿つ氷の刃。恐ろしい破壊力を生み出す【氷】の魔術は標的を正確に追い詰めていき、確実に致死部位を刈り取ろうと中空を切り裂いて襲い掛かる。
だが相手も容易にやられるような魔術師ではないのは、これまでの行動で分かっている。
「く――出でよ、黄金薔薇ッ!」
サイラスが懐から取り出した小瓶、そこに保管されていた金色の種が脈動し、異常な成長速度で以って巨大な薔薇へと早変わりを果たす。その美しき黄金の花弁を魅せるように咲かせ、――しかしそれは慈しまれる間もなく氷剣の餌食となった。
盾として利用したのだから正しい使い方だが、しかし紅薔薇のような狂気に染まった美ではなく、純粋に綺麗と思えた花が無残に散る様は少し寂しく映る。――が、そんな事で攻撃の手を緩めるほど、フローラの脳内はお花畑ではないのだが。
「氷の嵐よ」
舞い散る花弁を無視して踏み出し、フローラは右手をタクトのように振るった。その動作に合わせて空気中の水蒸気が一瞬にして氷結し、荒ぶり渦巻く細氷の暴風と成ってサイラスに襲い掛かる。
「舐めるなッ!」
しかしサイラスは豹変した口調で叫びながら懐より盾の絵が描かれたカードを取り出し、【具現】の魔術によって生み出した大盾で吹雪を防いでしまう。が、あまりの低温度に大盾は凍り付き、使い物にならなくなった。
もとより使い捨ての予定だったのか、サイラスは大盾を放っておいて魔力が切れて自然消滅するに任せ、新たな魔術式を構築している。
フローラも同じく魔術式を構築――するように見せかけ、前もって組み上げていた魔術を不意打ちで発動させた。
「全てを呑み込め――【蒼き氷麗の世界】ッ」
瞬間、場は蒼氷によって支配された。
先のモノとは比較にならない密度の吹雪が荒れ狂い、唄った呪文の通りに全てを呑み込まんと、ただでさえ広くはない廊下を一瞬にして埋め尽くしてしまった。
視界が青白く染まり、何も見えなくなる。肌に付着した水分が凍り付くほどの冷気が充満するこの場は、今や三十センチ先も見えなくなってしまっていた。
悲鳴も絶叫も命乞いも聞こえない。だが、サイラスは恐らく死んでいないだろう――そう推測した直後、フローラの頬を刃が掠った。
「――ッ!」
真紅の真珠が宙に飛び散る。ピリッ、と一瞬走った痛みに少しだけ目を細めつつ、フローラは横へ大きく飛んだ。
――刹那、ズドドドドッ‼ と数多の刃が先ほどまでフローラが居た場所を蹂躙した。
「ちッ」
舌打ちが耳に届いたと同時、窓硝子が割れた音が響く。恐らく、狭い廊下は不利だと判断したサイラスが、窓を突き破って外へ出たのだろう。
誘いに乗るメリットはない――が、そうしなければサイラスに逃げられてしまう。
別にリオンや自分の命を優先している以上、逃げてくれるならそれに便乗するのが自然だ。しかし、奴を今仕留めないと、もっと酷い事になりそうだという予感があった。――そう、例えば、逃げ延びた彼が、フローラの家族を惨殺しに行くなど。
だから逃がす気は無い。本当は一秒でも早くリオンの手当てをしたいのだが、後顧の憂いは早々に刈り取っておくに限る。
「リオン様。もう少しだけ、待っていてください」
優しげな声色でそう微笑みかけ、フローラは返事も聞かずに粉砕された窓から外へ出た。
直後、そこを狙って放たれる長剣。【具現】の魔術で生み出されたであろうソレを、フローラは【氷】の魔術で生成した氷剣で弾く。お返しとばかりに三本の氷剣を長剣が飛来した方向へ放っておき、安全に外の土に足をつけた。
間もおかぬうちに金属音が響く。恐らく、フローラの放った氷剣をサイラスが斬り払った音だろう。
「……お見事です、フローラ=エーデルワイス」
標的の人物、サイラスが姿を見せると、素直に感情の籠った称賛の声を掛けてくる。皮肉とも取れるそれに対し、フローラは淑女の礼で返す。
「お褒め頂き光栄です、サイラス=オルドナス様。貴方様こそ、素晴らしい術技の数々、惚れ惚れ致します」
こちらは完全に感情など籠っていない言葉だ。まぁ、貴族の称賛の言葉など、八割がた本心を隠したスカスカのプレゼントか、完璧な皮肉と決まっているが。
きちんと皮肉として受け取ったらしいサイラスは、若干苦笑いしつつ口を開く。
「いやはや、こんなにも実戦的な魔術を扱えるとは、エーデルワイス公爵家の白百合の姫は実に恐ろしいですねぇ。本当に八歳なのか疑ってしまいますよ。……というか、本当に八歳ですか?」
「……、はい、勿論」
事実、肉体年齢は八歳でも、精神年齢とは一致していないので正直八歳とは言い辛いのだが、この世界に生を受けてからは八年なのでここは素直に肯定しておく。
相手も別に本気で疑っていた訳ではない――にしては、声色がマジだったが――ようで、サイラスはフローラの言葉にただ「そうですか」とだけ返すと、いつものニヤニヤ顔を浮かべて言葉を続けた。
「しかし、それならなおさら貴女が欲しくなる。……どうか、私達のところに来てくださいませんかねぇ?」
「ロリ……幼女趣味の変態のところに行く気はありませんよ」
「それは残念です」
言葉尻と同時、チカッ、とサイラスの右手の辺りが光った気がした。
自然に警戒を高め、すぐにでも回避行動を取れるように備えるフローラ。その反応を愉しむように眺めながら、サイラスが呪文を紡ぐ。
「出でよ、翡翠薔薇!」
それを合図に閉じていた右手を開き、そこから植物の命を削るように爆発的に成長した巨大薔薇が咲き誇った。
花弁の色は優しい緑。だが、不気味な赤紫の茎から伸びる無数の同色の蔓に、棘棍棒のように数多の毒の棘を生やしている。眼に良い色合いの花弁も、しかしその中央から滴り落ちるドロドロの溶解液が台無しにしていた。
食人薔薇の第三段。一体全部で何種類あるのかは知らないが、金色を除いてどれも生理的な嫌悪感を覚える気色悪さだ。
「喰らいなさい!」
サイラスの命令に従い、緑色食人薔薇が溶解液を飛ばしてきた。同時に毒の棘塗れの蔓も振るい、着実にフローラの逃げ道を塞いでくる。
が、その程度では生温い。
「凍れ」
たったその一言だけで、溶解液は結晶化して地面に落ち、蔓は茎の方へ侵食するように凍り付いてしまった。
「ギャギュイ⁉」
毒のように植物を犯していく冷気。周囲には霜が降り、やがて茎まで到達した氷は、地中に伸ばしている根までをも凍り付かせてしまう。
薔薇は一瞬で無力化された。だが、サイラスの攻撃はそこで止まらない。
「ふッ」
カードがびりびりに破けて三本の長剣が飛び出してくるのと同時、サイラス自らレイピアを握って斬りかかってくる。
(近接戦……やむを得ない、ですか)
サイラスの行動は確実にフローラの弱点を突いていた。
前世の肉体ならともかく、今世の令嬢の身体能力で近接での高速戦闘は辛い。おまけに武器も無く、嬲り殺しになるのは確実だった。
――だが。
そもそもの話、近付けさせる気などさらさらない。
(……それに、)
魔術はとうに仕込み済みだ。近接戦闘が弱点な事は自分が一番知っているのだから、それに対して策を講じているのは当然の事である。幸いフローラは魔術式の構築は得意なので、緑色食人薔薇を凍らせている間、サイラスに気付かれないように魔術を仕込むのは難しい事ではなかった。
フローラは、獲物がそこまで来たら、仕上げに合図を起動すれば良いだけ。
三歩、二歩、一歩――そして、零歩。
「咲き誇れ!」
――瞬間。
強く踏み込んだサイラスの足が、半ばより折れた。
「――――は?」
疑問の色を孕んだ声が間抜けに漏れる。
その間にも、バキリ、ボキリ、と彼の体は折れてゆく。
「な、ん、んんんッ⁉」
訳が分からず困惑していた声は、途中から驚愕に変わった。
――サイラスは、自分の体が凍り付き、支えきれなくなった自重によって崩れていくところを目にしたからだ。
彼は罠を踏んだ。フローラが仕込んだ魔術に掛かり、魔術抵抗力など無視するかのような勢いでその体を急速に凍らせて、力が掛かった脆い箇所から壊れている。
氷の彫像が崩れ去るように。
硝子細工が砕け散るように。
サイラス=オルドナスは、その肉体を氷に変え、バラバラに破壊されてしまった。
次回、第一章のエピローグです。
……よくよく考えたら、第一章って、殆ど登場人物三人で完結してますね。
因みに、フローラの呪文のルビは、フランス語です。なんちゃって感が半端ないですが、まぁ単語は一応フランス語からとっています。(固有魔術の名称は違います)
次回も宜しくお願いします。




