第十五話 Diamond Dust
ズドッ! と衝撃音を上げて、リオンの矮躯が壁に激突する。白塗りの石壁に蜘蛛の巣状の罅が入り、飛び散った血飛沫が斑に彩った。
「リオン様⁉」
反射的に名を呼び、フローラはぐったりと壁に寄り掛かる少年のもとへ駆け寄る。
彼の状態は正に満身創痍。幼い肉体は傷だらけで、意識を保つのも精一杯に見えた。
ずり落ちるようにして倒れかけたリオンを支える為に肩に触れた瞬間、べっとりとした感触にフローラは小さく悲鳴を上げてしまう。
「血が、こんなに……っ!」
尋常ではない量の血がリオンの体から流れ出ている。人間は約五分の一でも血を失えばショック死の可能性もあるというのに、これは五分の一など軽く超えているのではないだろうか。
血でドレスが汚れてしまうのも気にせず、抱きかかえるようにしてリオンの体を支える。大分血が流れ出てしまっている所為か、心なしか彼の体が軽く感じた。
「ぐ……ぁ、がふッ」
苦しそうに呻き声を上げ、リオンは込み上げる血反吐を抑え切れずに吐き出してしまう。
彼の姿は、今にも死にそうだと、誰が見ても明らかだった。
二の腕の辺りにざっくりと深い斬撃痕があり、片目は酷くぶつけたのか開けられない状態。震えと熱を発している脚は骨にも異常がありそうで、その他小さな傷を上げればキリがないほどだ。
おかしい。サイラスは設定上、リオンは殺さない筈ではなかったのか。
そう、ゲームであれば、リオンは殺されずにフローラだけが殺され、その事でリオンの心に闇を生ませて将来自分達の組織に勧誘する手掛かりにする、筈だった。――筈、なだけだったようだが。
もとよりここはゲームに似た世界なのであって、ゲームではない。ましてや前世の記憶を持つフローラやリオンというイレギュラーが居るのだから、ゲームの設定通りに進むとは限らないではないか。
何故、そんな事を忘れていた。
現実が見えていなかったから、彼は今、死にそうになっているではないか。
「……フロー、ラ」
かひゅっ、と赤い息を吹きながら、リオンはフローラに目を向ける。瞳孔が痙攣し、血濡れた唇が震え、瞼が開き切っていない様は実に痛々しく、思わずフローラは「喋らないでくださいっ」と悲鳴混じりに声をかけた。
だがリオンは苦しそうに顔を歪めながらも、少女に告げる。
「剣を、取って……くれ」
「――――」
その漆黒の双眸には、消えない炎が灯っていた。
彼はまだ、やる気なのだ。例え死にそうであろうともその手に剣を握り、憎き仇敵を討つまでは倒れられない。全身を血に染め、精神を限界を超えて摩耗させ、命を最後の一屑まで燃やし尽くし、一人の人間の命を奪う――その為だけに、彼は崩れ落ちる寸前の肉体を意志と執念の力だけで奮い立たせて立ち上がろうとするのだ。
体に宿る感情は殺意。――否、それだけではない。
「俺、は……奴を、殺す、まで……が、ぐはっ…………奴を、殺さ……ないと、お前が……ぁぐっ!」
――守りたい。フローラを、愛しき少女を守りたい――その強固な想いが、死に掛けの少年に剣を取らせた。
「リオン、さま……」
「ぐ、ふっ……フローラ。お前は、逃げとけ……ッ」
諦めるつもりは全くない。フローラに死の可能性がある限り、彼は命を賭して戦い続けるだろう。
もはや彼の心に渦巻いていたのは、愛する母親や使用人達の仇を討ちたいという殺意ではなく、初恋の婚約者を守りたいという一人の男の想いだけだった。
少女の命の危険があるから、戦う。――ただ、それだけ。
英雄願望でもヒーロー気取りでも騎士の真似事でもない。男として、少年は少女を命がけで守る。大切なものを、もう何も、失いたくないから――。
一向に止まらない血を流しながら、リオンは床に転がる二本の短剣を握った。フローラの腕の中から起き上がり、ふらふらの体を揺らしながら歩き出す。
向かう先には、にやにや顔のサイラスがいた。
よほどの激戦だったのだろう。隠蔽効果の魔術が掛かった黒いフードマントはとうに脱ぎ捨てられ、その下に着こまれていたこれまた黒尽くめの衣服はあちらこちらに斬り込みが入り、所々から血が流れている。リオンも相当重傷だが、サイラスの方もすぐに手当てしなければ大量の傷が一生残ってしまうほどだ。
サイラスは薔薇のレイピアの切っ先をリオンに向け、油断なく構えていた。対してリオンも、失血の影響で痙攣を起こす肉体を意志で捻じ伏せて、二振りの短剣を手に戦闘態勢を取っている。
「うわうわ、よくそんな状態で立っていられますねぇ。諦めてしまえば楽になれるのに」
「『死』イコール『楽』って方程式が成り立つ訳ないって、俺は良く知ってんだよ」
一度死を経験した者が語る『死』には重みがあった。リオンの転生の事など知らない筈のサイラスも、「確かにそうですねぇ」などと宣うくらいにはその重さを感じているようである。
「お姫様を守る騎士としては格好良いですよ。自分の命を犠牲にするなど、私には理解しかねますが」
「テメェみたいな外道はとっくに捨てた感性だろうよ」
「元々有ったかどうかも分かりませんけどねぇ」
「そうかい」
会話はそれだけだった。
痛いほどの静寂に包まれる中、鋭い視線が交錯し、双方が放つ強大な殺意が火花を散らす。互いが互いの呼吸を読み合い、一筋の筋肉の動きに注目して、先手を潰そうと静かに激しく戦いを繰り広げた。
唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
無音の戦闘。高度な次元に有るその戦いは、今の貧弱なフローラには出来ないスタイルだ。眼はそれほど弱化していないのでやっている事は分かるが、同じ動きをしろと言われても到底出来そうにない。だからこそそれを実践してみせるリオンもサイラスも、そこらの騎士など相手にならないほどの実力者だと分かる。
やがて――じり、と。どちらかの体が、僅かに動いた気配がした。
――次の瞬間には、屋敷の白い石壁が、真っ赤に染まっていた。
「がァ――ッ⁉」
ブシャアアアアッ! と激しい飛沫音を立てて鮮血が飛び、周囲を紅く染め上げていく。
斬られたのだ。リオンの左腕が、サイラスのレイピアによって。
どちゃ、と血溜まりの中に切断された腕が落ちる。そこから更に血が広がり、命の雫で出来た海を形成していく。
生命の危険があるのは血液の全体量の三分の一を失った時だったか。ここにぶちまけられている赤い液体を掻き集めれば、簡単に届きそうな量である。
だが怯みはしない。動きが止まればリオンの首は斬り落とされ、その次に死ぬのは背後の少女なのだから。
「痛、ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ‼」
痛みに抗い、捻じ伏せ、血液混じりの唾液を飛ばして放つ獣の咆哮。
脳内麻薬が爆発的に分泌され、思考が数十倍にも加速する。体感時間は十分の一、いやそれ以下か。もはや痛みすら彼の中には無く、ただ守るべきものを守る為に目の前の男を殺そうと命を燃やした。
火事場の馬鹿力、というやつだろう。この場合、最期の力、という意味になるが。
片腕を失ってバランスが取り辛いなか、リオンは上手く重心を動かして剣撃を加速させ、威力を底上げして短剣をサイラスの腰辺りに突きつけた。
しかし単調な刺突など簡単に読み取られる。サイラスはリオンの突撃をレイピアで弾くと、お返しとばかりに流れるような刺突を繰り出した。
「づぁぁああああッ‼」
リオンは胸元を狙って放たれた一撃目を体を半回転させつつ短剣の刃でレイピアの刀身を削るように逸らし、続く右肩狙いの二撃目を掬い上げるようにして弾く。そして脇腹目掛けて飛んでくる三撃目をサイドステップで回避し、着地と同時にサイラスへ強く踏み込み斬撃を放った。
だがその攻撃はサイラスの予想の範囲内だったのか、軽く体を逸らすだけで躱されてしまう。しかしそれはリオンも分かっていた事なので、すぐに体を回転させて斬りつけようとして――その回転の途中で、片手が無い事で中心軸の取り方をしくじったリオンは、バランスを失って無様に床に倒れ伏した。
「終わりですねぇ」
にたりと笑って放たれた勝利宣言が、嫌に廊下に響く。
そして、鋭利なレイピアの切っ先が、リオンの心臓を差し穿つ――その瞬間を、フローラはただ呆然と見ている事しか出来なかった。
「あ、ぁあ、ぁぁあああああぁあああッ」
アレはもう駄目だ。あのレイピアで刺されたら、リオンはもう助からない。穴が開いた心臓から大量の血が噴水のように噴き出し、取り返しのつかない惨状を作り出すだろう。
無理だ。不可能だったのだ。例え魔術結界を解除したとしても、子供の体では、成熟した大人には敵わない。その体での戦闘経験に差が有り過ぎるのだし、筋力、思考力、瞬発力、リーチ、どれをとっても大人の方が上なのだから当たり前の事だ。
一対一でも敵わないのだから、魔術結界を解除した事も無意味だった。というか最初から二人で戦えばよかったのだ。フローラは魔術は使えないしドレスで動き難いし何より全く鍛えていないから攻撃力に乏しいが、相手の隙を突いて致死部位に短剣を刺し込むくらいの芸当は出来る。投げナイフでもあれば、正確無比に急所を穿つ事も出来ただろう。
そのように二人で挑んだ方が、まだ可能性はあったのではないか。――少なくとも、今みたいに各個撃破される形にはならなかった筈だ。
後悔先に立たず、とは良く言ったものだ。今更あれこれ考えたところで、どうしようもならない。
終わり。そう、チェックメイト。人生終了だ。短い短い、二桁にも届かない幼少期で幕を閉じる。
でも、それまでの期間を幸せに過ごせたのだから、良いではないか。
少なくとも、前世よりは幸せだった。家族は愛してくれていたと思うし、こうして最後には婚約者も出来た。愛しい人との甘く蕩けるような日々は無かったが、そこまで望むのは強欲が過ぎるだろう。
(……もとよりそんな資格、わたし――『私』には、有りませんし)
そうだ。何を望んでいる。最期が訪れるまで目立った命の危険が無い、守られた優しい生活を送れたのだからそれで十分だろう。むしろそれでも贅沢だ。花園月葉は、幸せを甘受して良い人間ではないのだから。
『フローラッ!』
――誰かが名を呼んだ気がした。
違う。フローラ? いや、自分は花園月葉だ。罪無き人を殺し、他人の成果を奪い、多くの幸せを壊してきた、外道だ。
そう、外道。リオンがサイラスに言った通りではないか。月葉は、紛う方なき外道の人間。最低最悪の殺人者、普通に考えて幸せになって良い人間ではない。
地獄に行け。悔い改めろ。謝罪なんかで許されようとするな。死ね。ここが墓場だ。無残に、惨めに、惨たらしく、死ね。死ね死ね死ネ――。
『フローラ! くそっ、死ぬな、フローラ‼』
――声が、聞こえた。
誰かが『誰か』の名を呼ぶ声。そこに籠っている感情がとても暖かくて、思わず泣き出しそうなくらい嬉しくて――酷く、幸せで。
もしそれが、自分に向けられたものだったらな――なんて。乙女チックな妄想を、人の死を前にして思い浮かべる自分は、やはり外道だ。
「……ふざ、けるな」
――何を、言っているのか。
自分が花園月葉だったのは、知っている。そうだ、その記憶も技術も感情も全て、引き継いでいる。
だから何だ。
現世は、フローラ=エーデルワイスだろう。
花園月葉でもあり、フローラ=エーデルワイスでもある、歪な存在。だがそれがどうした。前世が外道であろうと、償い切れない罪があろうと、現世は何もしていないだろう。それとも何か、この世界でも奪う事を続けるのか――?
「そんな訳、無い……有り得ないッ」
そうだ。
もう二度と、あのような事はしたくない。――あのような思いは、したくない。
――それに。
今、目の前で死にそうになっている少年――自分を守る為に己の命を投げ打ってまで戦った彼を、見捨てるのか。彼の生き残って欲しいという想いを、無駄にするのか。
――否。断じて、有り得ない。
だから。
少女は、その力を解き放った。
「――【蒼き氷麗の世界】」
刹那――暴虐なる鋭利な細氷の嵐が猛然とサイラスを襲い、その体を消し飛ばす勢いで飲み込んだ。
次回も宜しくお願いします。




