第十三話 消えぬ魔術結界と嗤う仇敵
「――よし。こっちは解呪した。そっちはどうだ?」
「……、うん。こっちも終わりました」
問い掛けてきたリオンに返事をして、フローラがソレから手を放した瞬間――淡い紫の光を放っていた幾何学文様が、硝子が砕け散るような破砕音を立てて霧散した。
キラキラと宝石粒のように煌めいて散るものは、魔力光。美しくどこか幻想的なそれを暫く眺めていたが、やがて下ろしていた腰を上げる。ふう、と張り詰めていた集中を息と共に吐き出し、フローラは後ろで同じように立ち上がったリオンへ視線を向けた。
「次はどこですか? もう大分解呪したと思いますけど」
「ううむ……多分、この部屋で終わりの筈なんだが……ああ、あれもか」
リオンが指差した先には、高級感溢れる白のソファが。余裕をもって座る事を想定して作られたのか大きく重量感のあるソレをリオンは苦もせず引っ繰り返し、裏に隠すように描かれていた幾何学文様――魔法陣に手を当てる。
瞼を下ろして視界を遮断し、神経を研ぎ澄ませるようにリオンの呼吸が深く遅く変化した。
彼は今、魔法陣に組み込まれた魔術式――それを構成する情報を読み取っているのだ。
複雑に絡み合い、所々にフェイクを織り交ぜて作られた術式を一つ一つ解き明かし、余計な刺激を与えて罠を作動させないように気を付けながら丁寧に解いてゆき――やがて。
「――よし」
パリン、と音を立てて魔法陣は霧散した。
飛び散った魔力の粒子を手で払いながらリオンは立ち上がり、再び周囲に探るような視線を這わせる。新たな記号を探しているのだ。彼に倣い、フローラも部屋中に研ぎ澄ませた意識を向ける。
テーブルの裏。花瓶の底。カーペットに隠れた床板。壺の内側。本棚の端。――挙げればキリがないが、人目に付き難い隠し場所に記号はある事が多い。これまでも、かなりの数を見つけ、その度に解呪してきた。
――既に、結界を張って引き籠っていた寝室から出て、三十分近くが経過している。
あの寝室で、屋敷を檻のように閉じ込める魔術結界【紅薔薇ノ庭】を維持する記号が隠されているであろう場所にある程度見当をつけたフローラとリオンは、室内で見つけた道具――フローラは短剣一本に魔石三個、リオンは短剣二本に魔石二個――を持って、記号の解呪に取りかかった。
記号が使われた魔術結界の解除方法――それはとても簡単な事で、単純に記号を破壊すれば良いのだ。物理的でも可能だし、魔力を過剰に流してやれば魔術式が狂って爆発するのでそれでも良い。とにかく魔術を維持している記号――魔術式が無くなれば良いのだ。
ただし仕掛けた魔術師にとっては破壊されたら困るものなので、記号は往々にしてトラップが仕込まれている。その為、物理的に破壊や過剰に魔力を流して魔術式を崩壊させるなど、強引かつ無計画に記号を壊せば地雷が起爆する可能性もあるのだ。大抵は重傷を負うので、よほど切羽詰まっていない限りリスクの高いこの方法は取らない。
なので通常、魔術師達は記号を構成する魔術式を読み解き、それを解す事で安全に記号を解呪する。
そうすれば――仕掛けられた魔術式の難易度や解呪する魔術師の技量によって変わるが――上手く罠を回避して記号を消す事が出来るのだ。この方法なら少量の魔力と頭を使うだけで解呪出来るので物音も立たず、周囲に被害を出す事もない。当然、記号が消された事は術者に伝わるが、物理的などの強引な手段で破壊するよりはある程度誤魔化す事が出来る。
この方法での解呪はただ魔術式を弄っているだけなので、魔術を使っている訳ではない。他者の魔術に干渉するようなものだから多少魔力は必要だが、魔道因子が無くとも出来る事なので、魔術が発動しないフローラも解呪作業に協力する事が出来た。
リオンは細かい作業が苦手なのか一つ解呪するのに大分時間がかかっていたが、フローラは魔術式の構築や制御が得意だったので解呪作業はかなり速い。更に複数同時解呪などという面倒かつ高難度の技術も楽々実践してみせ、リオンを驚かせていた。――それを見て、これで魔術が発動すればどれだけ戦力として期待出来ただろう、とリオンは複雑そうだったが。
ともあれ、そんな解呪作業も始めてもう半刻も経っている。屋敷の怪しい場所――宝石商と偽ったサイラスが行ける場所は虱潰しに回り、今二人が居るこの部屋が最後だ。
――パリン、と今日何度も耳にした破砕音が部屋に響く。
「……これでよし。あとは…………あれ? もう無くね?」
一部屋一部屋念入りに調べているので、見落としがあるとは思えない。だが、この部屋に隠されているであろう記号は全て破壊し尽してしまった。
不審に思ったフローラも意識を空間に集中させて魔力を探知してみるが、記号が設置された場所特有の魔力の偏った反応はどこにも無い。本当に、この部屋の記号は全て壊してしまったのだろう。
――いや。それならば、魔術結界は解除されている筈だ。
しかし、
「消えて……いません、よね」
リオンが結界を張っていた寝室を出てからずっと感じていた屋敷と外界とが隔絶された妙な違和感は、未だ消えず残っている。
魔術結界は解除されていない。つまり、まだこの屋敷のどこかには、記号が残っているという事だ。
「いったい、どこに……?」
エントランス、客間、食堂、庭、便所――その他、思いつく限り全て確認済みだ。二人で念入りに探したし、部屋周辺の廊下も調べてある。
しかし、それでも魔術結界は解除されない。まだ探していない部屋は、宝石商では入れない部屋のみだ。だがそこは除外して良いだろう。
となればもう、皆目見当もつかなかった。いよいよお手上げである。
「これだけの範囲を、一人だけで維持しているとは思えないですし……」
眉根を寄せ、フローラは呟く。
それもそうだ。外部機器の補助無しに、半径五百メートルを超える領域を食人薔薇をうじゃうじゃ生み出す結界に閉じ込め、更に別な攻撃魔術を使ってみせる事は現実的ではない。――この世界の魔術師は、地球に比べて酷く劣っているのだから。
そも、【植物】や【具現】などという魔術を使っている事が既にもうおかしいのだ。
この世界の魔術師は、殆どが五大元素から派生した、地球でエレメント系統と分類される魔術しか知らない。【火】【水】【氷】【雷】【風】【地】【光】【闇】――そう言った、眼に見える現象ばかり発展し、イデア系統と称される概念的な存在は無視されてきた。
その理由は『分からないから』の一言に尽きる。
古い魔道書を探ればイデア系統の魔術も見つかるだろう。また歴史書を掘り返せばそれを使っていた魔術師も存在するだろう。だが、どいつもこいつも有名ではなく、また弟子をとってもすぐ失伝する。考え方や知識面の問題で、この世界のこの時代の魔術師では、イデア系統の魔術は使いこなせないのだ。
が、サイラス=オルドナスは、イデア系統【植物】の魔術で、固有魔術を生み出すまでに熟練していた。
誰かから教わったのか自分で生み出したのかは知る由もないが、ともかく、発展していなければ効率化もされていないイデア系統の魔術の重複発動など、この世界の魔術師には不可能だろう。少なくとも、記号などの補助がない限り、だ。
「……奴が、記号を持ち歩いている可能性は?」
「ないでしょう」
リオンの言葉を即座にぶった切るフローラ。
「この魔術は、調べた感じ、設置型ですよね? 術者本人を中心にして広げるように結界を展開するならともかく、展開範囲を場所で区切っている場合、記号が移動するのは拙いです。術式処理効率も落ちますし、最悪、魔術が強制終了してしまう可能性もありますからね」
「あー、それもそうか……」
記号の弱点の一つだ。そもそも記号は設置を前提にしているので、持ち歩く利点は少ない。先ほどフローラが言った、魔術師を中心に結界を展開するのであれば話は別だが、この【紅薔薇ノ庭】は屋敷と庭を範囲に指定しているので設置型だろう。
その可能性が潰されれば、本当に行き詰まりである。
二人は暫く頭を抱えて唸り続けていたが、ややあってリオンがヤケ気味に提案した。
「……いっそ、探索系の魔術でも使うか? 奴に見つかる可能性が高まるが」
「それは拙いです……けど、本当にもうそれしかありませんよね」
別にソナー状に魔力を広げて返ってきた反応で探す、みたいな、いかにも敵に気付かれそうな感じではない。一応そういうものもあるが、リオンが使おうとしたのは、使い魔を飛ばすタイプだ。
探索系魔術の中では最も気づかれ難く、かつオーソドックスでかなり効率化された魔術なので扱い易いのだが、難点は結界が発動中だと相手に気付かれ易い事か。術者の技量が高ければ関係ないが、リオンは探索系が苦手なので難しいだろう。
――そうして、なけなしの意見を出し合っている時だった。
「――あれあれ、もうネタ切れなのかい?」
ザッ、と反射的に二人は身構える。
――前世から染み付いたその反応速度が、功を奏した。
ガギギンッ‼ と、猛々しい金属音が鼓膜を叩いた。
「――――ぐぅ」
二本の銀刃が宙を舞う。
一本は突如不意打ち的に飛来した長剣。もう一本は、フローラの使っていた短剣だ。一度目の使用だというのに刀身は半ばから折れ、無残に破片を散らしている。
フローラは即座に僅かな刃しかついていない短剣の柄を投げ捨て、殆ど勘と本能に任せて後ろへ跳んだ。
直後、先ほどまでフローラが居た場所へと長剣が突き刺さる。
「おうおう、素晴らしい反応ですねぇ。今の動作、ちょっと猫みたいで可愛らしかったですよ?」
本当に感心したような男の声。危機的状況を生み出した本人とは思えないほど緩い言葉を口にしながら悠然と近寄ってきたのは、バラバラになったカードを手から零すフードマントの男――サイラス=オルドナス。
その姿を捉えた瞬間、音もなくリオンが躍りかかった。
「――シィッ!」
「っ、くおっ⁉」
軌跡を残して宙を泳ぐ銀刃が正確にサイラスの喉元を捉えた。しかしサイラスは首を捻り、体を半回転させる事で難を逃れる。
(今のは……騎士というより、暗殺向きの技ですね)
前世において、フローラが最も得意としていた技だ。たった一撃といえど、その程度読み取る事は容易い。
フローラの分析をよそに、リオンはそのままの勢いで斬りかかる。両手に短剣という二刀流スタイルだが、恐らく彼の主流ではなさそうだ。攻め切れていないように見える。
対するサイラスはレイピアだ。華美に薔薇の装飾がされているのを見るに、彼は薔薇好きなのだろうか。
しかしサイラスのレイピアは貴族に多く見られる見た目重視の芸術武器に見えるが、そうではないようだ。リオンと打ち合っても刃毀れせず、逆にリオンの短剣の方が刀身が欠け始めている。ゆっくり二人の動きに注視しながら後方に下がっていたフローラが遠目に見るに、サイラスのレイピアは魔術的効果が掛かった霊装だろう。どんな効果かは分からないが、薔薇に関係するものな気がするのは奴の性格故か、武器の見た目の所為か。
ガギギギギッッッ‼ と凄まじい刃の応酬が繰り返される。
リオンが腹部を狙って横に斬り払ったかと思えばサイラスが弾き、その流れで突きを放つ。それを身を捻って回避したリオンが蹴りを繰り出し――だが子供の脚力では大した力も生まれず、サイラスがリオンの脚を掴んでしまう。
が、それを狙っていたかのように、リオンは両脚を蛇のようにくねらせてサイラスの腕に巻き付き、腹筋だけで上体を起こして勢いのまま短剣をサイラスの左肩に突き立てた。
「が、ぐ――ッ」
呻き声を漏らしながらも、すぐにサイラスはリオンを振り払おうと腕を振る。
そのまま引っ付いていてもレイピアの餌食になる事は知れているので、リオンは絡ませていた脚を放して跳び上がった。まるで忍者の如く天井を蹴って瞬時に床につくと、彼は短剣に付着した血液を払いつつ後ろのフローラに声をかけてくる。
「アイツは俺が殺る。だからフローラ、お前は残りの記号を破壊しに行ってくれ」
「リオン様…………はい、分かりました」
彼の意志は固い。どれだけ反抗しようと、意味はないだろう。むしろ時間を取られて勝率が下がるだけだ。
だからフローラは無駄を省き、即座に部屋からの脱出を図る事にする。
「おやおや、逃がすとお思いで?」
だが、リオンと剣をチラつかせて睨み合っていながら、サイラスは血が流れ落ちる左手でカードを抜き取っていた。彼が【具現】の魔術に使う、タロットカードのようなものである。
描かれていた絵柄を確認する間もない。
カードをバラバラに粉砕して出現した槍が、フローラに迫る――。
「フローラッ!」
魔術の発動に気づいたリオンがハッとして叫んだ。だが、あまりに遅い。
はなからサイラスの目的はフローラの殺害であり、隙があれば、リオンよりもフローラを優先して仕留めようとしていたのだ。燃え上がる赫怒と抑えようもないドス黒い殺意に身を焼かれていたリオンは、それを失念していた。
――だが。
そんな事、比較的冷静だったフローラは忘れていない。
ガドンッ‼ という衝撃音を立てて、槍が木製扉を粉砕した。
一気に木屑と埃が舞い上がり、視界がもうもうとする。
扉に槍が激突したのは偶然ではない。フローラが扉を開いて、盾にしたのだ。
ちょうど良い目眩ましが晴れるより早く、フローラは部屋から飛び出した。
「――、良くもまぁ、躱しますねぇ。本当に彼女、令嬢ですか?」
煙ったい埃が晴れた頃、サイラスの若干苦笑い気味の声が零れた。
彼にとっては予想外なのだろう。当然と言えば当然だが、幼い貴族令嬢が亜音速で飛来する剣や槍を回避するなど普通は不可能だ。だがそれを、フローラは何度もやってみせている。
「……流石、フローラだな」
フローラが無事にこの場から脱出した事にほっとしつつ、リオンが軽く笑った。
彼は、彼女の前世の事を殆ど何も知らない。だから、このくらい出来て当然だ、更に反撃まで出来なければ落第点、と彼女が内心思っている事など考えもしないし、事実前世ではそれが普通の世界で生きていた事など全く以って知らない。
いや、そんな事は、今の彼にはどうでも良い事か。
「――サイラス=オルドナス」
「おやおや、私の名を知っているのですか」
地の底から響くような低音でその名を呼び、リオンは仇敵を鋭く睨み付ける。短剣を握る両の手に力が入り、ギリリと音を鳴らした。
対するサイラスは、フードマントの下で笑みを浮かべたままだ。だがレイピアの構えは本気で、いつでも攻撃に対応出来るように備えられている。
「――テメェは、絶対に許さねぇ」
「ふ――はははっ」
憎悪と、快楽と。相反する感情を声に乗せた二者が、同時に躍りかかった。
銀刃と銀刃が交錯し、火花が、剣戟音が、屋敷に響き渡る――。
起承転結の、そろそろ転かな?
次回も宜しくお願いします。




