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第三話



 それから何日経っても、職場でムツキは相変わらずマヒコに怒鳴られていた。不慣れな仕事をムツキなりに一生懸命こなそうとするのだが効率が悪い、仕事が遅いと細かなミスの度にどやされる。そうする内にムツキは家でもマヒコを避けるようになったし、マヒコの方もムツキに対して言葉をかけなくなっていた。


 配達の時間だけが、ムツキにとって救いだった。特に、初日に仲良くなったラビィや狼への配達物がある日はそれだけで嬉しくなる。


「ラビィのお兄さん、随分遠くに居るんだね。消印見ちゃったんだ」


 兄からだという配達物を久しぶりにベッドの上のラビィに差し出しながらムツキは首を傾げた。ラビィの両親や友人から来る配達物の消印は一定の地域なのに、ラビィの兄はどうやらかなり離れた所にいるようだった。


「ああ、こないだは南の方に居たみたいなんだけど……。今は東なんだね。兄さん、随分移動してるみたいだ」


 ラビィが少し陰のある笑い方をしたので、ムツキは前から気になっていたことを尋ねてみることにした。


「ラビィはどうして入院してるの?」

「……僕、生まれつき足が悪いんだ。数年前から酷くなって、今はもう歩くことも出来ない」


 ムツキが眉を顰めて謝ろうとすると、ラビィはゆっくりと首を振った。


「いつか聞かれるとは思ってたから。昔はね、兄と一緒に野原を駆け回って、よく遊んだんだ。兄さん、どこから知識を得てくるのかすごく物知りで、色んなことを教えてもらったりしたんだよ」

「……あのさ、ラビィのお兄さんってどんな人なの?」


 ラビィは軽やかな笑い声を上げて、ブルーの瞳をそっと細めた。


「兄さんはね、自惚れが強くて空気を読まなくて、だから誤解もされやすくて、いつも一人ぼっちだったかなあ」


 ムツキが驚いて目を見開くと、ラビィは優しく笑った。


「でも僕にはいい兄だったよ。兄さんは母さんとも父さんとも仲は悪かったけど、小さかった僕と遊んでくれたし、兄さんの話はどれも面白かった。なにより、強い人だと思ったから」

「強い?」

「うん。兄さんは異質だったから、村では疎外されてたんだ。実際、母さんでさえ僕に兄さんと一緒に居る事を色々言ってきたしね。けど兄さんはいつだって前だけを見ていたし、泣くことも弱音を吐くこともしなかったよ。ずっとずっと、前だけ見てるんだ。僕はそれが羨ましくて、少し寂しかった。兄にとって僕は、通過点に存在しているだけのちっぽけな小石のように思えたから」


 ムツキは思わず、シーツの上に投げ出されていたラビィの手を強く握りこんだ。戸惑ったように、ブルーの瞳がムツキを映し出す。


「ムツキ?」

「違うんじゃ、ないかな」


 ぽつりと、ムツキが呟いた。ラビィが先を促すようにうさぎの耳を揺らして首を傾げると、ムツキは言葉の続きを探すように視線を宙に向けて、少しして柔らかそうな両耳をへたりと垂らした。


「だって、小石に本や手紙を送ったり、一緒に遊んだり話を聞かせるなんて、そんなこと普通はしないじゃないか。ラビィはお兄さんにとって、手を繋いで一緒に歩いて行く存在じゃないのかな」


 ラビィは少し悲しそうに眉を寄せて、諦観の色がはっきりと浮かぶ微笑みを見せた。


「僕にはもう、一緒に歩ける足が無いのに?」


 ムツキはブルーの瞳を見つめて、しっかりと頷いた。ぴんと立った犬の耳は、まるで怒っているようにも見えた。


「それでも、きっと」


 ムツキの両手が、握りこんでいたラビィの手を包んだ。温もりがラビィの少し冷たい手に温度を移していくのを感じて、ラビィはブルーの瞳をさざなみ立つ湖面のように揺らした。


「本当は、本当は僕も兄さんと同じように色々な所を見て回りたかったんだ。村を友人と駆け回って、図書館で一日活字に埋もれたり、時々は女の子と過ごしてドキドキしたり。本や手紙を見ながらベッドの上で一人空想に耽って、ただシーツに埋もれるだけなんて考えもしなかったんだ!」


 ラビィは、十六歳の少年だ。大人びて見えても、それはたくさんのことを我慢して我慢して、自分を押し殺しているだけだ。想像するよりも、それはラビィに影を落としている。ムツキは、どうしようもなく悲しくなって、今にも千切れそうな紐に触れてしまったことを少しだけ後悔した。ラビィの足を治すことはムツキには出来ないのだ。知識もないし、医者である狼にだって出来るのか分からない。ラビィの望みを、叶えてあげることはムツキには出来ない。


 黙り込んだムツキを、ラビィは唇を引き結んでじっと見つめた。ムツキはその時初めて、白い獣の瞳に居心地の悪さを感じた。


「……ごめん。いいんだ、忘れて」


 頷くことも、首を振ることも出来なかった。





 どうやって仕事を終え、家に辿りついたのかまるで覚えていなかった。ぼんやりしていた所為だろうか、いつにも増してマヒコに怒鳴られていた気がする。


 坂の上の、その中でも高い所にムツキ達の家はある。ベランダからは大きな街を見下ろすことが出来て、その景色は小さな頃からのお気に入りだった。夜なんか、満天の星空で模様のついた濃紺の空が広々と裾を広げているのだ。冷たい夜風で煮詰まった頭を冷やし、幼い頃は特別に感じた夜の匂いを吸い込んでいると、ちっぽけな自分の悩み事が全て吹っ飛んでいくみたいでムツキは時折ベランダに来ては何をするでもなくぼうっとしていた。今日もいつかと同じように手摺にもたれかかり夜に抱かれていると、背後から微かな音がした。


「どうかした? 兄ちゃん」

「それはこっちのセリフだ」


 振り返りもせずに言うと、父とよく似た渋面で兄が隣に並んだ。横目で見上げると、細い眉の間に深い溝を刻んで睨むように正面を見据えている。何か考えている時の父と同じ顔だ。ムツキの唇は知らず噛みしめられていた。どうして兄はこうも父に似ているのだろう。兄は母親に似た小奇麗な感じの女顔で、体型すら父と違い縦にすらっとバランス良く伸びている。単純に顔立ちだけならば、髪色も同じムツキの方が似ている。


 それなのに、兄が時折見せる父と同じ仕草が小さな胸に妙に刺さった。


 ムツキの胸中なんて知ることもなく、夜空を睨んでいた兄が振り返る。ムツキは咄嗟に視線を反らした。


「どうしたんだ、お前。今日は特に様子がおかしい」

「べつに、おかしくなんてないよ」


 咄嗟にムツキがそう言い返すと、兄の纏う空気が揺らめくのを感じた。明らかに、苛立っている。ムツキは兄の不可解な様子に内心で首を傾げた。たしかに兄はキレっぽいが、この程度でどうかする程ではない。それに、考えると此処に兄がいるのも不自然だ。普段はムツキが頼るか、どうしようもなくなるまで放って置いてくれる人なのに。兄の顔を見ると、苦り切った顔をしていた。


「いいから、話せ。おかしいのは、此処にお前がいる時点で決まりなんだから」

「だから、」

「そんな事が聞きたいって言ったか? 聞かれたことを素直に吐けばそれでいいんだ」


 兄が妙に凄むので、ムツキも不承不承話すことにした。ラビィとの出会いに始まり、今日の事。後半になるにつれムツキの口は重くなっていったが、兄は辛抱強く聞いてくれた。相槌も無かったが、ただムツキの語る話しにピンと立てたお揃いの色の両耳を傾けてくれている静かな存在が心地よかった。纏まりきらない感情はそのままに話を締めくくると、兄はやっと口を開いた。


「それで?」

「それでって……。兄ちゃんが話せって言ったんじゃん」


 あまりに素っ気ない返答に拗ねたように唇を尖らせると、兄は己の黒髪をがしがしと掻きまわして尻尾を荒く振った。やがて溜息を吐きだすと、弱ったように両耳を伏せる。


「そうなんだよなあ……。あー、俺はこういう類の話は苦手だから、あまり深く考えるなよ。あくまで俺の意見だ」

「……うん」


 本格的に様子のおかしい兄にどうしたのか尋ねたい気持ちを抑え、ムツキは素直に頷いた。兄の言葉をとり零すまいと、赤味を帯びた茶色の髪の中から両耳がピンと覗く。


「俺は、おまえがどうしたいかが一番大事だ、おまえにしか出来ない事がある、なんてそんな甘っちょろい事言ってやらないぞ。お前がその子に何かをしたいと思うこと自体がおこがましいんだよ。お前は未だほんの小さな、世界が思うよりも広いことを知らないような乳臭いガキだぞ。大体、何様のつもりなんだお前は。人様の領域に土足で踏み込んでやっぱりいけなかったのかもしれないって、なんだそれは。みんな誰かしら不可侵の領域ってヤツが存在するのに突っつくことしかせずにそのまま帰ってくるんじゃねえ、無神経が。せめてその小さい頭使ってアフターケアしてこいよ」

「……にいちゃん、ぐさっときた」


 無口という訳ではないが、決して口数が多い方ではない兄からの長ったらしい暴言混じりの説教に、思わずムツキは胸を押さえた。ムツキの心を代弁するように耳がへにょりと折れたが、兄の言葉の波は続く。


「いいか、ムツキ。これは分かれ道だ。琴線に触れちまったもんはもう仕方ないんだから、諦めてどちらかを選べよ。お前の前には二つしか選択肢が無いし、選ぶことを放棄するのはその子への冒涜だ。努力するか、しないか。単純明快な問いだな」

「……努力、するかしないか?」


 兄は何も言わず、涼やかな目元を緩ませ三日月の形に唇を吊り上げる。闇夜の中で月の光に浮かび上がる兄の笑みは、ぞっとさせる何かを孕んでムツキに二つの道を突きつけてくる。


「……俺が努力すれば、何かラビィにしてあげられる事が見つかるのかな。狼にだって、ラビィの足を治すことは難しそうなのに?」


 兄は何も言わない。その代わりとでも言うようにムツキの頭に拳骨が降ってきたので、ムツキは思わず笑ってしまった。こういう所も父にそっくりだ。後ろから押し上げられた水の膜がぼろりと零れ落ちて、熱をもって頬を伝ってゆくのを感じながらムツキは笑い声を上げ続けた。


「そう、そうだね。道は二つしかないんだ。なら、俺は努力する方を選ぶよ」


兄は満足そうに歯を見せて笑った。


「ギリギリ合格ってとこだな。お前は誰よりも鼻が利く。鈍いなんて事はないんだから、それを信じればいいんだよ。……友達なんだろう?」


 うん、うん。鼻を啜りながら何度も頷いて、それ以上は言葉にならなかった。



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