表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第一話



『今より遙か昔のことだ。神代(かみしろ)に等しい時代、この美しい星は、今とは異なった姿をしていたという。自然は失われ、空は淀み、空気は穢れ万物はゆっくりと崩壊を迎えていた。ニンゲン、と呼ばれる忌まわしき種族が、その欲望の限り星からの恩恵を貪りつくしたのだ。業深きその種族は、星から奪った恩恵でもって更なる進化を望む。しかし星には、我々の祖先らも存在していた。汚れた種族の矛先は祖先らにも向かい、緑を穢すだけに飽き足らず迫害し、喰らい尽くした。圧倒的な力の前に、次々と祖先らは数を、種族を失っていった。絶望が降り積もった時だ。どこからともなく白い獣が現れた。白い獣は何も言わずに、悲しげなブルーの瞳で祖先らを見渡すと太く大きな咆哮を上げた。咆哮はたちまちに唸るような響きを帯び、風を起こし、雲を呼び、雷を轟かせ、巨大な雨雲でもって様々な災厄を運んだという。

 神の逆鱗とも言うべき、その白い獣の「嘆きの咆哮」こそ世界の創生の始まりである。』(『創生記』著者不明/原文より抜粋)





 ムツキは、とにかく急いでいた。迷路みたいにぐるぐるして複雑な街が嫌になったのは今日で何度目だろう。ムツキの余りの勢いにすれ違う人が驚いたり怒りだすのが見えたが、次々と視界の端に流れていく。


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 振り返らずに謝ったままムツキは全力で走った。斜めに掛けたお気に入りの赤い鞄ががしゃがしゃと賑やかな音を立てても、軒先から漂う美味しそうな匂いに空腹を刺激されてもムツキは足を止めなかったが、長く蛇のようにうねった坂を前にして竦んだように立ち止った。


 街の人々から「蛇の道」と呼ばれる坂を降りてそこから真っすぐに伸びる街一番の大通りの最奥、丁度T字路にぶつかるところにムツキの目指す集配所はある。


 ムツキは、集配所で働く手紙屋だ。集配所というのは、世界に点在する街や里、果ては秘境なんて所から届く色々な荷物を管理し配達する所で、手紙屋は文字通り手紙を管理し配達する役目にある。数が膨大なので手紙屋は同じ街にも複数存在し、中には手紙屋そのものを一族で受け継ぐ家もある。ムツキの家もその一つだが、当のムツキは今日から仕事始めの、いわば見習いだった。


 ゴーンゴーン、と背後で打ち鳴らされた鐘の音を聞いて、ムツキの顔が泣きそうに歪んだ。始業時間まで、あと少ししかない。確かに見える集配所をきっと睨みつけて、もうどうにでもなれとムツキは仕切りから身を乗り出すと下に飛び降りた。ごお、と強い風が下から吹き上げ元から乱れていた赤茶の髪をさらにかき乱していく。ムツキは情けない声で喚いた。


「くっそぉ、今日に限って父ちゃんも兄ちゃんも母ちゃんも、誰も起こしてくれないなんてえ!」


 体のバネを上手に使って次の坂に着地を決めると、数メートル下にある坂にも同じような要領で次々と飛び降りていく。小さな身体を風に任せるような荒技で坂を飛び降りるムツキを、大通りから誰かが指差した。危ない、と声がして坂の下から一気に人が捌ける。


「うっし! 完璧!」


 数えて八度目に大通りへと着地を果たすと、固唾を呑んで見上げていた街の人が歓声を上げてムツキを包んだ。すげえな、と掛けられた声にムツキは照れたように笑みを零し、嬉しげに明るい茶色の耳をぴんと立ち上げ尻尾をぱたぱたと振る。愛らしいその様子に、垂れた猫耳が付いた夫人が笑みを零した。


 獣人という存在がこの世界には多くいる。動物的特徴を持つ者の総称であるが、獣人たちは種族も数も大変多く存在している。ムツキもまた、獣人の中でも数の多い犬の種族であり、この種族の能力の特徴として足が速く力、特に脚力が強いといったことが挙げられる。身体には尻尾と耳があるが、大抵の種族がこうした身体的特徴を持っており原因は不明とされている。世界の始まりが記されているという『創生記』を始めどんな書物にも記されていないのだ。


 ゴーンゴーンともう一度鐘の音が響き、愛敬を振りまいていたムツキの顔色がさあっと青くなった。


「やっば、遅刻する!」






「このっ、馬鹿野郎!」


 怒声と一緒に頭に振り落とされた拳骨に、ムツキは小さく呻いた。すっかり縮こまって垂れ下がった耳と尻尾がぴくぴくと震えているのがなんとも情けなく、ムツキに拳骨をくれた男は溜息を吐きだした。


「ご、ごめんなさい父ちゃん……」

「此処は職場だ。父ちゃんなんて呼ぶなと教えただろうが!」

「すみませんでしたあ! マヒコ班長!」


 ムツキが半泣きで叫んだ。見ていて可哀相に思ったのか、牡鹿の角が生えた壮年の男性がマヒコを宥めようとするが、まだまだ言い足りないらしくすっかり委縮しているムツキに険しい顔で怒鳴り散らす。


「大体お前は何もかもがなっていない! 今日から仕事始めだってのに遅刻するとはどういう了見だ! 自覚のねえ奴に仕事なんか任せられるか!」

「はい……」


 マヒコの言うことは全て正しい。分かっているけれど、昨日まで子供だったムツキが心まで納得出来るかといえば話は違った。優しく起こしてくれる母親も、寝癖のついた髪をかき乱す兄も、おはようと言う父も、昨日までは当たり前だった。それらが無性に恋しくて、今日を待ちわびていた昨日までの自分がひどく馬鹿らしかった。


 けれどムツキは、もう子供ではない。今日からは大人の仲間入りを果たしたのだから、泣いたって後悔したって自分でどうにかしなければならない。唇を噛みしめて、ムツキはマヒコを見上げた。


「マヒコ、もう十分だろう。その辺にしておけ、お前の怒鳴り声は煩くてかなわん」


 所長、とマヒコが非難するような声を上げた。ムツキが父の視線を追って振り向くと、髪と同じ色の白い犬耳の男がいた。離れた所に住んでいる祖父と同じ年くらいで、無意識にムツキの尻尾がぱたりと揺れる。


「……わかりました。ムツキ、お前はもう配達に行け」

「……はい」


 溜息と同時に言われた言葉に、ムツキがあからさまにしょんぼりとした様子で頷いた。マヒコは落ち込む息子をそのままに、不機嫌そうに眉間にシワを刻むとそのまま持ち場に去ってしまう。父の頑なな後ろ姿を眺めてさらに肩を落としたムツキに、所長と呼ばれた男が励ますように小さな背中を叩いた。


「まあ、そうしょげるな。お前さんにはまだまだチャンスがあるさ」

「そうでしょうか……」

「そうとも。マヒコだってお前さんを邪険にしたい訳じゃない、むしろ逆だ。可愛い息子を目の前にするとつい甘やかしてしまいそうになるんだろうさ」


 父親ってのは損な生き物だと所長が笑うので、ムツキも本当にそうだったらいいなと小さく笑った。


「さあ、仕事はもう始まっている。小さな手紙屋さんもそろそろ初仕事と行こうじゃないか」

「はい! ありがとうございます、所長。お陰でちょっと元気が出てきました」


 ムツキがにっこりと幼さの残る相貌を弾ませてぴょこんと頭を下げると、所長は微笑ましいものを見るように皴だらけの目元を緩ませて笑った。


 所長と別れロッカールームに行くと、ムツキは茶色い仕事着に着替え、配達物の入ったお気に入りの赤い鞄を斜めに下げて、履き慣れたスニーカーのまま配達所を飛び出す。ポケットに突っ込んだリストを頼りに迷路のように入り組んだ街をぐるぐると回って、色とりどりのレンガ造りの家々に手紙を届けた。そうする内にお昼が過ぎて、日が西へと傾いていく。赤い鞄は随分と軽くなって、残りの配達物は一つになっていた。確認の為に取り出してみると、それはずいぶん分厚い本だった。『創生神話の真実』と素っ気ない文字で題された本に宛名と住所が書かれた封筒が細い縄でぐるぐる巻きにされている。


「うげぇ、これ郊外じゃん……」


 長旅でもしてきたのか、薄汚れた封筒を見ると明らかに街外れの住所だった。区域間違えたのかな、とムツキがリストを見直しても最後の欄にきっちり載っている。どうやら、この住所までがムツキの受け持ちらしかった。


「オルフ病院、かあ」


 この街にずっと住んでるけど聞いたことないな、と首を傾げつつムツキは配達物を届ける為に走りだした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ