挿話:令嬢、知の盾を降りる②
リリアが港で食堂を開くまで、を綴りました。
【5】離脱の工程(見えない書類)
リリアナは、戦争への貢献に対する褒賞として、兵器局からの離職と国家錬金術師という地位からの隠居を願い出た。
表向きは「貴族としての姻戚得るため」とした。
リリアナは、名家ノースヘイブンの令嬢である。
家長である父からのこの申し出には、王も反論はできなかった。
書斎から、研究日誌の公開可能な部分だけを抜き出して王立図書館へ寄託した。
秘匿技術は封印した——敢えて“誰にも見抜けない形”で”再現できないほど”手順を間引き(リリアナにしかできない“逆固定”)をした。
自分の編み出した技術が、二度と誰かの命を奪うことのないように。これが自分なりの矜持だった。
父は家を出る時に「ノースヘイブンの名を捨てて行け」と言った。
ノースヘイブンの名が王国の盾であることを知らない者はいない。だからこその言葉。
そして、兄は一言だけ書いた手紙を渡した。
「帰る場所は消さない。いつでも戻れる」
リリアナは、拾った弟カイを連れて旅に出た。
荷車の中で肩を寄せ合って、カイが聞く。
「姉ちゃん。旅の名前、なんにする?」
一緒に旅をしようと誘った時、カイはとても喜んだ。
嬉しそうなその表情にリリアナも目を細める。
「そうね。ただのリリア。リリア・ノースで」
【6】ふたりの始まり
屋敷にカイを連れ帰った当初。家人は皆、彼をどう扱うべきか迷っていた。
母は、もともとリリアナとあまり関わらない。
高位貴族の令嬢である母には、父や兄やリリアナのやっていることが何一つ理解できないし、他の娘と違うリリアナが恐ろしくもあった。
父と兄が傍観している中で、リリアナはかいがいしくカイの世話を焼いた。
今まで他人と親しくする姿を見せたことのないリリアナが、連れ帰った子の世話をしている。
その姿に家人はさらに2人を遠巻きにした。
カイは少し前の戦闘で、侵入してきた敵兵に家を焼かれ、両親を失ったのだという。
兵器ガスによる攻撃が無ければ、自分も敵に殺されていたと思うと告げた。
「カイはガスを吸わなかったのね」
「うん。ガスが来る前には、変な匂いと風があるからね。それが去るまでは息を止めてた」
リリアナの作ったガスは、風に放つ直前に融合されるため、無臭に近い。
「カイは鼻が良いのね。それは大きな武器だわ」
そう言って頭を撫でると、嬉し気に笑う。
家に来てすぐの頃は、静かな夜に慣れないのか、夜中にうなされて良く泣いていた。
リリアナは、そんな彼に小さな飴を渡した。
玉ねぎをごくごく低い温度で長く温め、涙を呼ばない甘さだけを残した“涙止め飴”。
「甘いのに軽い」とカイ。
「軽い、だなんて。よく知ってるのね」
「さらっとした甘さで味が上に抜けてく。さらっ甘、すぐ上へ ってやつだね」
その表現力に目を見張る。
「カイは、舌も良いのね」
彼は鼻を鳴らして照れたように笑った。
「ね、一緒に行こう。私のしたいことには、カイの鼻と舌がいるわ」
そうして、カイと旅に出ることを決めた。
【7】北の港へ(台所の錬金術の始まり)
旅の途中で出会った行商人のミーナの紹介で、港町の空き家を借りた。
カイと2人で、あちこち傷んだところを修繕するのに時間をかけた。
大変でなかったわけではないが、時間はたくさんあり、リリア自身が様々な思いを自分の中で融合させるには必要な時間だった。
窯の横にある大きな壁に、拾ってきた大きな黒板を立てかけた。
そしてそこに味の地図を描いた。
カイと2人で腰に手をあててそれを眺める。
「これ、姉ちゃんの頭の中がわかっていいよね」
「そうよ。思考は整理して並べて分析して回収するの」
カイはしばらく考えて、大きな声を出した。
「俺も!俺も“匂い帳”書く!」
店の火口は三つ。味の変化の時間差は、研究で身につけた温度の階段そのまま。
石壁の奥には煙の走る棚、入口には見える鍋。扉の横の小さな窓の前には小卓。
そして黒板の端に、小さな誓いを書いた。
“ここでの知恵は、人の命のために”
【8】手紙
店の開店が目前になった頃、リリアは父と兄に短い手紙を書いた。
『父上、兄上へ。
私は、リリア・ノースとして、港街の台所で生きることになりました。
家訓に従い——
分けて恐れをのぞき、
収めて居場所をつくり、
運んで明日へ味を渡します。
いつか、機会があれば、ひと匙だけでも、ここへお越しください』
封には、家の紋章の蝋は使わなかった。
落とした蝋の上に軽く押したのは、スプーンだった。
【9】現在へ
——朝一番の塩は、海よりも軽い。
港の小さな食堂。
黒板の下でカイが“匂い帳”を開き、ミーナの荷車が石畳を鳴らし、
衛兵ヨナが扉の影で静かにうなずく。
リリアは看板を返す。
「本日開店」
こうして、知の盾は、この町の匙になった。
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