挿話:令嬢、知の盾を降りる①
リリアが港で食堂を開くまで、を綴りました。
【0】知の盾【ノースヘイブン】
ノースヘイブン侯爵家の壮麗な館は王都の北にあった。家紋は、天秤と薬匙と羅針。
家訓は——分けて(分離)見よ。収めて(固定)守れ。運んで(転移)生かせ。
その家系は、建国時より王国の“知の盾”として錬金術を素に、鉱石・鋼・軍用機器の研究と供給を担ってきた。
男系に多くその能力が受け継がれる中にあって、リリアナは異彩を放ち、5歳の時にはすでにその家訓を工作台の上で言い換えていた。
王国が隣国と長い戦争を続ける中、国家の軍需の中心となっていた父ハロルド、長兄セドリックを前にして拙い声で言い放つ。
「混ぜるんじゃないよ。物質は“収める”んだよ」
彼女は、熱と冷、硬と軟、匂いと無臭の境目を、指先の温度で見つける天性を持っていた。
【1】公開試験
王立学院にて、研究者選抜の公開試験。
学院の卒業試験の会場で10歳のリリアナの姿は、小さく、頼りなく、目立っていた。
試験課題は“異なる二素材を安定させる”こと。
リリアナは台に立って手を伸ばし、与えられた机の上に三つのチョーク線を引く。
分ける→収める→運ぶ。
それから道具を丁寧に扱いながら黙々と作業をしていく。
まず不純物を分け(目に見えない澄まし)、次に粒の向きを揃えて固定、最後にごく少量の媒介で性質を次の段階へと運んだ。
その迷いのない手順に、審査官は言葉をなくし、父は掌を握りしめ、兄はこっそり笑った。
——その日から、リリアナは、王国において稀代最高の工具として扱われ始めた。
【2】誉れと影
10代半ば。
リリアナは、王立兵器局の軍需研究の先陣に立っていた。
リリアナの得意は、物質融合。微細化、軽量化、そして“意図した瞬間にだけ働く”という緻密な設定。危うい魔法のような制御をまるでおもちゃのように扱った。
父は言う。「おまえの知恵は多くを救うだろう」
兄は言う。「その才能は勝つためのものだ」
王は言う。「知の盾よ、国民の為に尽くせ」
当代で1人にしか与えられない国家錬金術師の叙勲の夜、廊下の陰で、衛兵が小声で戦果としての死者の数をやり取りしていた。
「とにかく今回の圧倒的勝利は、ノースヘイブンの令嬢の兵器ガスで……」
その言葉が硝子のように薄く心に膜を張り、そして日を追うごとに胸の奥でひび割れていく音がした。
軍が輝かしい戦果をあげるごとに、リリアナの心のひびは深く修復しがたくなっていった。
【3】前線視察
17の春、リリアナは父と兄に食い下がった。
「現地を見たい。机の上の線だけではその成果は信用できない」
戦況は圧倒的に自国に有利となっており、その立役者はリリアナだった。
王からの許可が下り、最大構成の護衛を連れて、隣国との戦地となっている渓谷の街へ向かった。
風は乾き、土は白く、空が近かった。
遠くに薄い幕が揺れていた。そこから一陣の風が吹きあがる——それはこちらへと向かう砂嵐のように見えた。それに気づいた兵は、布を口に当て、皆を風上へと走らせた。
風上の丘へと上がり切って振り返ると、眼下にあったのは不毛の地。
崩れた建物の残骸は、背後を追いかけてきた砂塵に半分埋もれ、その隙間に穴の開いた甲冑やそこからまろびでた骨が見える。
「ご指定の通り、すでに風に含まれるガスは10分の1以下になっております。こちら側での人的被害は無く、避難は念の為ということで...」
護衛の言葉は自分の中をすり抜けて行く。
(これが、私の線が運んだものなの?)
ふと、視界の端に動くものが見えた。
リリアナは護衛の制止を振り切り、さっき上がって来た道を戻り路地へと降りた。
石の影に、肩をすぼめた子どもがいる。怯えて逃げようとするその姿に声をかける。
「動かないで」
彼女は風向きを見て、子を風上へ抱えて移し、湿らせた布をそっと顔に当てた。
「息は浅く、鼻から。ゆっくり」
子はうなずき、震えながらも匂いを探すように鼻を動かす。
「……だいじょぶ……におうときは……いきしない」
(この子、匂いで世界を測ってる)
「名前は?」
「カイ」
「カイ、あなたの鼻があなたの命を救ったのね」
それからほどなく、隣国は全面降伏を告げ、彼女の研究成果は“王国の勝利の礎”と記録された。
リリアナは、その知らせを視察中の現地で聞いた。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
自分のもたらしたものが、助けた子どもをただの死者の数にしようとしていた。
そのことが胸に重くのしかかり、どうしても拭えない。
野営の灯の下で護衛たちと温かいスープをすするカイを見つめる。
心に浮かぶものがあった。
(私の作る線は、人の生きる線であってほしい)
【4】帰路の決断
王都に戻る馬車で、父は黙っていた。兄は優しく言った。
「おまえは国を救った。胸を張れ」
リリアナは、膝で眠る小さな男の子の頭を撫でながら首を振る。
「いいえ。わかってしまったの。私の線の先に何があったか。
——私は皆の“盾”だと思ってた。でも、本当はただの“槍”だった」
その言葉に父は目を閉じたまま静かに言った。
「ノースヘイブンの知は、王国のものだ」
リリアナは、その言葉を真っ暗な馬車の外を見ながら反芻する。
「それは、王の物、国の物であって、国民の……人のものだとは思えない」
兄は思いを含むように、ゆっくりと告げる。
「国を守ってこそ、国民のためではないのか?」
リリアナは、静かに窓の外を見続ける。そして、ようやく思いを固め、前を向く。
「私は、私の作る物が命を奪うものであって欲しくない。ただそれだけ」
向かい合って座る車内に緊張が走る。
目を閉じてこめかみに手を置いていた父が、ゆっくりと目を開ける。
「では、どうありたい」
父の目を見つめたあと、膝に頭を置くカイの髪に触れた。
「家訓を……人を生かすためのものにしたい。化学反応を台所で活かしたいわ」
冷静な兄が、驚きのあまり柄にもなく高い声を上げる。
「台所?」
「分けて、収めて、運ぶ。この家訓は台所でこそ生きるのよ」
「おまえ、料理などしたことがないだろう」
目を丸くして叫ぶように言う兄の声に、眠っていたカイが身じろぎする。
起こさないようにとリリアナは口に指を立てた。
「料理は化学反応でしょう?別に今までやっていたことと同じよ」
黙って座っていた父が、口に手を当てて笑っている。
リリアナも兄も父が笑うのを初めて見た。おかげで二人とも口を閉じることができた。
「そうだな。それがいい、リリアナ。戦争は終わりだ。おまえのしたいように生きればいい」
父の言葉にリリアナは笑みを浮かべ、兄は目を丸くしたまま押し黙っていた。
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