4話:緊急燻製庫
朝からじめっと暑い。
ようやくの雨上がり。
数日続いた嵐の名残で、港の空気は少し生ぬるく重い。
黒板に新しい札を書く。
きょうの実験——“炙り”
材料はチーズとナッツ。そして、昨日、ヨナがくれた鶏。
警備中に撃ち落としたのだそうだ。——仕事中に大丈夫なのだろうか
「姉ちゃん、今日の合図は?」
「“煙は見せない。熱と香りだけ借りる”」
「なに、それ。かっこいい」
カイが吹けない口笛を吹こうと唇を尖らして、プヒューと情けない音を出す。
その姿がひどく可愛くて思わず声を出して笑ってしまう。
そんなやりとりのちょうどその時、通りの向こうから煙たい匂いが漂い、建物の奥で声が上がった。
市場の一角から、薄い煙。
幸い、すぐに消火されたけれど、市場の暖取り小屋から火が出たようだ。
隣の魚屋の倉庫に延焼があったらしい。
ほどなくしてミーナに連れられて、魚屋の親方が駆け込んできた。
「リリア、どうにかならねえか。青魚がもったいねえ」
「やってみるね。緊急の大型燻製庫を作るわ。カイ、今日のお題を変更。”炙り”から”燻し”よ」
店の裏から大きい木樽と金網、浅い鍋、ぬれ布を引っ張り出した。
北の壁の“灰棚”の下は風がやさしい。ここに簡易の燻し場を作る。
「カイ、干し海藻と細い枝、配合は3:1ね」
「りょうかい!」
魚屋の親方を連れてきたミーナを振り返る。
「ミーナ、香りを整える柑橘の皮、少しだけもらえる?」
「わかった。持ってくるよ!」
浅い鍋に海藻と枝を入れ、ごく弱火で温める。
むやみに煙は出さない。下手な煙は大切な香りを連れて空に旅立ってしまうから。
木樽の底に鍋、その上に金網を三段。上段にナッツとチーズ、中段に青魚、下段に塩麹で下味した鶏肉。
樽の口はぬれ布でふわっと覆う。隙間は少しだけ。香りが逃げていかないように。
「今日は三つの温度で分ける。
上段は“冷めたぬくもり”でチーズ(とろけない程度)
中段は“ぬるい風”で魚(身がしっとりする程度)
下段は“あったかい息”で肉(火は通すけど焦がさない)」
カイが“匂い帳”に書く。
香りの雲/風一筋/天の息吹
通りの人がのぞきに来た。
子どもたちが香りにつられ、顔を出す。
「煙、見えないね」
「いい匂いだけする!」
カイの友達もいるようだ。中見せて、とねだられて困っている。
普段聞き分けの良いカイの、子どもらしい姿が微笑ましくて嬉しい。
「煙は見せないの。香りをちょこっと”借りる”だけだからね」
私は指を口に当ててウインクした。
ちょっと大げさに言うと、「香りは借りれないよ~」と子どもたちが笑う。
時間を置いて、ひとつずつ確かめる。
チーズは薄く色づき表だけすべすべ、切ると中はやわらかい。
青魚は皮がぴん、と張って、身はしっとり。
肉は塩麹のおかげでやわらかいまま、ふんわり香る。
「さあ、公開のひと口」
小さく切って、つまようじを差す。店先に集まって来た人たち用に小卓に並べる。
まずはナッツ。
「かりっかりだ!」「すごい。ナッツなのに潮の香りする!」
子どもたちに大好評。
青魚は薄い甘だれをとろり。
チーズは柑皮をほんのひとかけ。
カイのメモを覗き込むと、良い書き方をしてあった。
ナッツ/こつこつ→香りぱっ
青魚/しっとり→前にぬけ
チーズ/ひそひそ→あとから柑
「よし、港の即席燻製盛りで出そう。三点セット、小皿で」
カイにそう声をかけて、店先の黒板おススメにメニューに名前を加える。
人が集まり始める。火事の後片付けにおわれていた人も、手を止めて並んでいる。
ミーナが声を張る。「今だけ! “香り借り借り(カリカリ)セット”あります!」
さすが行商人。客引きが上手い。
その時、外套姿のヨナがひょいと顔を出した。
「“香りだけ”って、ずるいな。警ら中に匂いに追いかけられるじゃないか」
「ふふふ。鼻から口の中に向かって香りが立つ感じ、狙ったから」
楊枝に刺した肉をヨナの前に差し出す。
「こんなの、腹が減って仕方なくなるだろ」
そう言いながらヨナは、私の手首を掴んで楊枝についた肉を口に運ぶ。
「軽いのに、満足するな。安定の旨さだ」
ミーナが横でニヤニヤしながら見ている。
掴まれていた腕を引きはがすようにして、ヨナを軽く睨んだ。
ヨナは相変わらず笑いの無い口元を崩さない。でも、機嫌は良さそう。
その後、燻し樽はフル回転。
魚屋の親方が胸をなでおろす。
「廃てずにすんだ。助かった」
「もともといい魚だからね。私は傷んでない部分に香りを足しただけ」
「格安で卸しとくよ。ありがとな、リリア」
親方はご機嫌で帰って行った。
夕方。
通りの先から、商人ギルドの男がゆっくり歩いてくる。
「ここは今日、“煙仕事”をしたのか?」
「煙は出してませんよ。香りを移しただけです。市場の小火のあと、在庫を守るために」
「ふん……。今月、査察がある。覚えておけ」
男は踵を返す。私は肩の力をすっと抜いた。
危ない、危ない。面倒ごとはごめんだわ。
保存粉である銀砂の価値を下げないために、この町では保存食づくりにはひどく規制がある。
”塩仕事”と呼ばれる”塩漬”や”煙仕事”と呼ばれる”燻製”がそれだ。
それらを行う商売には、特別な税が取られる。
隣の乾物屋の主人ボルグは、いつもそれに泣かされていると言っていた。ギルドの検査官に袖の下を渡すのが欠かせないのだそうだ。
カイが去って行く男の後ろ姿にあっかんべーをしている。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「平気、平気。この店はただの食堂よ。睨まれるようなことは何も無いわ」
黒板の端に小さく書く。
今日は“香りの前抜け”。
明日は、海の夜祭の準備。
港の風が、やさしく入ってきた。
樽から匂い立つ、見えない“おいしい空気”が、店の中をすべっていく。
◇◇◇実験メモ◇◇◇
緊急燻製庫(その場で作れる・香りだけ借りる方式)
目的:小火や湿気で“におい負け”しそうな食材を救う。重くしない
合言葉:火は弱く 煙は見せない 香りだけ運ぶ
【0】用意するもの
大きい木樽 or ふた付きの大鍋(※火に強い容器)
浅い鍋(下に置く)
金網(1〜3段)
ぬれ布(ふわっと覆う)
燻し材:干し海藻:小枝(または木の葉)=3:1
柑橘の皮(仕上げの香り直し)
【1】 温度ざっくり三段
上段:手を近づけて「あったかい風」を感じる程度(目安50〜60℃)
中段(青魚):指先に「ぬるい息」を感じる程度(60〜70℃)
下段(塩麹の小さな肉):湯気が見えるくらい(70〜80℃)
※どれも強火はNG。焦げない・乾きすぎないことが大事
【2】 セット手順
浅い鍋に海藻+小枝(3:1)。弱火で温める
木樽(または大鍋)の底に1を置く。上に金網を段にしてのせる
具材を薄め・小さめに広げる
口をぬれ布でふわっと。隙間は少し
ときどき開けて様子見。香りがのったらすぐ出す
【3】 目安時間(小さめカット)
ナッツ:8〜12分
チーズ:10~15分
青魚:12〜18分(皮がピンとしたらOK)
塩麹の小さな肉:15〜25分(中心がぬるい→ほんのり熱いに変わるまで)
【4】 仕上げ
柑橘の皮を最後にひとかけ。重さを消して“前に抜ける”香りに
すぐ食べない分は粗熱を取ってから保存(湿気を避ける)
【5】 安全メモ
火から目を離さない。水の入った小さな桶をそばに
風の強い日は北壁の下など、風が巻かない場所で
燻し材を足しすぎない(煙モクモクは失敗の合図)
【6】 メニュー名(店内表記)
港の即席燻製盛り(ナッツ・青魚・チーズ・鶏)
*香りが弱くなったら終了
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