3話:塩害のパンと嵐
朝、黒板に新しい札を掛ける。
きょうの実験——“灰×海水の比”
寸胴の骨湯は静かに揺れ、港は曇天。潮は重い。
作業台にあった小麦粉の粉塵が、雨の前の空気で少し湿っている。
この後、嵐が来ることを知らせてくれる。
入り口の扉の鈴が大きくなって、転がり込むようにパン屋のトマスが入ってくる。
「リリア、助けてくれ。小麦が苦いんだ。生地にしても後味が残っちまう。塩風にやられたのかもしれない」
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昨日、ミーナと一緒に塩田を見に行った。
鏡みたいな浅い池に、白い「塩の花」が縁に厚くついている。塩づくりの親方が額の汗を拭きながら言う。
「この何か月も、風がきつくてな。塩が畦から“内側”へ回ってるんだ」
ため息をつくようにそう言っていた。例年にない海風に内陸の畑に向かって塩が散っているのだと言う。
ミーナが指で塩の縁をつまむ。ぺろり。
「にがりが強いね」
畦の近くから降りてきた小麦畑では、葉先が紙みたいに丸まった小麦を見つけた。
一本折って、先を指で湿らせる。舌に当てると、苦い痕だけが残る。
「苦味はここに来てるんだわ。これは...外へ追い出さなきゃダメね」
汲んで帰った海水を一舐めしたカイは、「濃いね。喉が渇く」と、ウェっと舌を出し、その後水をがぶ飲みしていた。
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ミーナの話と塩田の様子から、いずれトマスが店に来るだろう、とは予測していた。
だから、今日は灰を使った”灰汁抜き”をする予定だったのだ。タイミングがいい。
「粉、見せて」
トマスとは、ミーナを通じて知り合った。
この辺りでは、パンは主食だがそれ自体は栄養を取るものであって、”旨さ”が求められるものではない。
日持ちがするように硬く焼しめられ、噛むとぼそぼそとしている。
薄く切ってスープに浸して食べるのが一般的で、特に子どもはその食感を嫌う。
出会った日、子どもにウケの悪い昔ながらのパンに悩んでいる彼に、種に水を含ませてパンを焼く手法を教えたところ、その美味しさに驚き、そして彼の店は大繁盛している。
それ以来何かとよく頼りにされているのだ。
トマスの持ってきた袋を開くと、ふすまの粒が妙に舌にひっかかる匂いをしている。
横からそれを摘まんだカイが、眉間に皺を寄せてそれをペッペッと吐き出しながら、“匂い帳”に走り書きをする。
にが/あとねば すこし渋→舌に残る
「なぁ、どうしたらいい? リリア。これじゃ、店に並べられない」
トマスが泣きそうな表情で縋るように言う。
「灰で揉んで、海で戻そう。それで“苦い”を外へ追い出して、酸で座標を元通りにしてみようか」
「灰? 食いもんに?」トマスの眉が跳ねる。
「灰水よ。麦殻を焼いた灰から抽出するの。苦みを押し出すことができるわ」
北の壁の灰桶を下ろし、麦殻灰と熱湯で淡い灰水を取る。
上澄みだけを別壺へ。港で汲んだ海水を混ぜ、さらに真水で薄める。カイが黒板の端に比を書いた。
灰水:海水:真水=1:3:6
「ふすまだけ、先に灰揉みするわ」
別の袋に入っていたふすまを灰水に沈め、木べらで数えるほど撹拌(いち、に、さん)。
待つ間にいつのまにか空が暗くなり、雲が厚くなってきている。
私は布でふすまを濾し、真水でさっと洗って絞る。指先に残るのは、粉の匂いと、ごく弱い潮。
「戻したふすまを粉に返して、湯種は海のほうで作るわ」
海水で煮た小さな湯種を落とし、店で使っている酸の強い種を合わせる。
こうすることで発酵時間を短くして、生地の落ち着きを早くする。
生地はつるりとまとまった。苦味は、奥のほうへ追いやられ、輪郭が丸くなる。
「苦味が顔を出す前に、窯に連れて行こう」
私は生地を分け、表面に細かな切れ目を入れた。トマスがじっとその手元を見つめている。
その真剣な表情に笑みを返す。
「ふふふ、後でレシピを分けるわね」
「そりゃ、助かる。いつもありがとよ、リリア。で、このパンの名前は?」
「灰海パンよ」
——その時、店の灯が一瞬だけ、ふっと弱まった。風が向きを変え、港の端から低い唸りが這ってくる。初夏の嵐。大粒の雨が、屋根を叩き始め、あっという間に大音量になる。
轟轟と風が隙間の多い壁をすり抜けて入ってくる。
吹き込む風で窯の火が流れてしまう。
「窯が……火が引いちまう」トマスが顔色を変える。さすがパン屋。
高火力で短時間での焼き上げが、外はパリッと中はふっくらの基本だ。
「北壁に運ぶわ。灰棚の下は温いから。火が上がるまではそこでこの子に待ってもらおう」
私は生地を木の板に載せ、庇の下を伝って北壁へ。吊り棚の下、微かな燻の走る通路に一時避難。ここは風が巻かず、熱が逃げにくい。
「カイ、焚き火の遠火を。煙は通さないで、熱だけ欲しいの」
「りょうかい!」
カイが窪んだ石組みに即席の竈を作る。手慣れたものだ。
かまど部分からしっかり煙を逃せるように設えられた。
「カイ。天才」
「へへへ」
カイは照れて耳を赤くした。
嵐の音に混じって、板の上のパンの生地が膨らむ微かな音が聞こえる。
大丈夫、まだまだ元気。
「今よ」
火が強く上がったところで板を窯へ滑り込ませる。
生地が息を吹き、切れ目から白い湯気が抜けた。
通りの人が庇の下に雨宿りに集まってくる。
その中にヨナの広い背中も見える。外套の肩に、雨粒が点々。
入り口を大きく開けて人が入れるようにした。
フードについた水滴を散らさないようにヨナが店に入ってくる。
「嵐で港の炊き場が止まった。大勢の腹が、待ってるぞ」
「そうだったのね。任せて。間に合わせるわ」
パンが焼けた。
表面は灰の色を一滴だけ含んだきつね色。割ると、香りは軽く、舌には苦味の影だけがうっすら走るが——、すぐ消えた。カイが匂い帳に書く。
かすにが→すぐ塩の輪郭/やわ旨
焼き上がりをトマスとカイとで手分けして抱え、店先の小卓へと切り出しを並べた。
「公開のひと口。嵐の間は無料よ。持ち帰りは一人一塊までね」
子どもたちが手を伸ばし、老人が笑って頷く。嵐の音に混じって、ちぎる音が次々と立った。
「……苦くない」
誰かの言葉に、トマスが小さく肩を震わせる。
「苦味はゼロじゃない。居場所を変えただけ。前には出てこないように躾けたの」
「は。食いもんを躾けられるのはリリアだけだな」
私の説明臭い話にトマスが笑う。
ヨナがちぎって口へ運び、短く言う。
「嵐の昼に、これは助かるな」
その言葉に周囲の漁師たちが、口々に「いや、腹がもつ」と頷き合う。
そのとき、雨の幕の向こうから、濡れ鼠の使いが走ってきた。ギルドの印をつけた革袋を抱えている。
「通達! 月末に査察! 保存粉“銀砂”の使用状況、各店報告せよ——」
私は袋を受け取り、封を切らずに表を見る。ギルド主のロシュの署名。
ミーナが肘でつつく。——銀砂。
食材の売り買いで栄えるこの港町で、保存粉である『銀砂』の取引価格はすべての商品の値段の指標になっている。
それを握り利権を思うままに扱っているのが、商人ギルドの主ロシュだ。
野心家で金になることならなんでもするので有名だ。
ミーナの話を聞く限りでは、この町で銀砂の値段を好きに操り、まるで王のように振舞っているらしい。
海の見える高台にそびえる白い壁と真っ青な屋根の御殿は、『銀砂御殿』と呼ばれている。
(ま、関わらないでいれば火の粉は飛んでこない)
争いごとはもう懲り懲りだ。命にかかわることでなければ、多少の不正は見て見ぬふり。
できる限り穏便に平和に日々を過ごしたい。
嵐の風が一段と強くなる。私は黒板に線を一本引き足し、甘と塩のあいだ、さらに小さく“苦の置き場”と書き込んだ。
灰は苦味を外へ、海は形を戻す。
嵐の間にも、パンは膨らむ。
トマスは濡れた髪をかき上げ、深々と頭を下げた。
「このレシピ、明日から共同で焼かせてくれ」
「もちろんよ。港の朝は、美味しいパンで目覚めるのがいいに決まってるわ」
そう笑って言うとトマスに「リリア―♪」とギュウと抱きしめられた。
トマスのふくよかな腕に抱きしめられて苦笑いしていると、その肩の向こうでヨナと目が合う。
相変わらず表情は無いが....ん? 機嫌が悪いように見える。
じっと見つめた後、フードを被り直し、ヨナは店を出て行った。
仕事に戻ったのだろう。
屋根を叩く雨の音がまだ大きく響く。けれど店の中は、ちぎったパンの湯気と、人の声で温かかった。
◇◇◇実験メモ◇◇◇
灰×海水の比率パン(通称:灰海パン)
目的:塩害小麦の渋・苦を“外へ追い出し(アルカリ洗い)→形を戻す(塩と酸で座標を補正)”。
合言葉:「灰で揉む→海で戻す→酸で締める」
【0】 主要比(粉100基準)
小麦粉(塩害ロット):100
総加水:68
うち 海水:20(塩分≈0.7%相当)
真水:48
塩(追加):1.1(海水分と合わせて総塩分 ≈ 1.8)
サワー種(100%水分の老麺/前発酵生地):20(=粉10+水10/“酸の戻し”要員)
油(任意):2
イースト(併用可):0.1(嵐や低温時の保険)
【1】 灰水(上澄み)の作り方
麦殻灰:1
熱湯:20
手順:灰に熱湯を注ぎ10分置く→濾す→上澄みのみ使用。
作業液(希釈):灰水:海水:真水=1:3:6
目的:強すぎるアルカリを避け、短時間で表層だけを洗う。
【2】 「灰揉み」—ふすまの前処理
対象:ふすま(粉の外皮分、目安として粉の**10%**分)
手順:
ふすま:作業液=1:3で1分撹拌
3分静置(“にが/渋”を外へ)
布で濾し、真水で軽くすすぎ→軽く絞る
本体の粉へ戻す
注意:揉みすぎると風味まで抜ける。「1、2、3」で止める。
【3】湯種(海で形を作る)
配合:粉の8・海水の8
手順:65–70℃で糊化→粗熱をとり本生地へ
狙い:海の塩で**生地の“輪郭”**を先に作り、苦味の居場所を限定する
【4】本捏ね
ボウル:
粉(ふすま戻し済み):100
湯種:8
真水:残り分(総加水が68になるよう調整)
サワー種:20
塩(追加):1.1
油:2(任意)
捏ね:滑らかにまとまるまで。叩き込みは控えめ(苦味を再拡散しない)。
一次発酵:25–27℃/40–50分(短め)。
分割・成形:小型(1個60–80g)推奨。
最終発酵:28–30℃/20–30分。切れ目を浅く。
【5】 焼成
予熱:230℃
スチーム:初段入れて5分→以降200℃で10–12分
狙い:表面は灰の気配を帯びたきつね色。中は軽い。
嵐対応:北壁の煙棚下で遠火保温→窯へ。煙は通さず熱だけ借りる。
【6】 風味診断(カイの“匂い帳”を目安)
合格:
かすかな苦→すぐ塩の輪郭→旨みが前へ抜ける
補正:
苦が残る→サワー種+5/最終発酵短縮
風味が抜けた→灰揉み時間短縮/湯種を7に
【7】 提供と名付け
名称:灰海パン(はいかい)
提供:公開のひと口をちぎって配るのが港流。嵐の日は一人一塊まで。
トマスのパン屋で常時販売
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