2話:偏食王子の麦粥
翌朝。潮はやわらかく、港の石畳はまだ冷たい。
黒板の下に昨日の「成功」の札を下げ、カイが新しい題を書いた。
「きょうの実験——“三香麦粥”」
「三つ?って何?」
夏期ながらカイが首を横にかしげる。
「素・柑・燻。匂いの階段よ」
カイは“匂い帳”をめくり、空のページに小さく丸で囲んだ文字を三つ並べた。
骨湯は弱火で、麦は昨夜から水を吸わせてある。
私は塩棚から粉塩をひとつまみ取って、湯に溶かす。今日は派手な音はいらない。舌の緊張をほどく“素の線”が基準だ。
入り口の鈴が鳴く。入ってきたのは、昨日の薄紫の外套の奥方リーザだ。
今日は少し遠慮がち。肩の力が少し抜けている。手を引かれて、小さな子が半歩隠れて後ろから覗いている。
「いらっしゃいませ、おはようございます」
「……昨日は失礼を。あの、もし、子どもが食べられるものがあればそれを....」
「もちろんです。お名前は?」
「レネです」
子は私を見上げ、すぐ足もとを見た。指先が少し強ばっている。
「匂いが苦手?」
しゃがんで目線を合わせて問いかけると、レネは小さく頷いた。
「とくに“匂い”が苦手で、食が細くて。パンもスープも、いつも全部は食べきらないの……」リーザが言いよどむ。
「じゃあ、匂いの階段を上ってみる練習をしようか。段は三つだけ。どこで止まってもいいんだよ」
カイが目で合図し、黒板の下に木札を並べる。〈素〉〈柑〉〈燻〉。
席を入り口近くの風の通るところに案内して、厨房へ入る。
まずは一段目。
麦粥を小鍋で温め、骨湯で伸ばして、粉塩でごく薄く味を寄せる。器は温めない。湯気の向きが顔に当たらない高さで流れるように。
私はスプーンを二つ用意し、ひとつをリーザに、ひとつをレネに。
「これは“素”。何も足さない香りのものよ」
レネは鼻をすん、と鳴らし、慎重にひと口。舌の上で止めてから、喉へ送る。
カイが匂い帳に書く。
しん……やわ/塩は線だけ
奥方が心配そうに顔を覗いた後、子の表情を見ての肩の力を少し抜く。
「大丈夫?」
レネは黙ってもうひと口。こくりと頷いた。
レネは小さな器の中を全部平らげた。リーザの顔に喜びが薄く浮かぶ。
二段目。
私は柑橘の皮を薄く削ぎ、掌で温める。皮の油がわずかに光る。小さな乳鉢で粉塩と合わせ、香りの針をつくる。
麦粥を新しい器に盛り、皮を“蒸気だけで”通す。直接は落とさない。揮発の輪郭だけを借りる。
「“柑”。酸っぱくないのよ、柑橘の匂いだけ」
レネは器に顔を近づけ、そっと目を閉じた。
ひと口。舌が動き、眉がわずかに上がる。奥方が息を呑む。
「ふわっとしてる。ちょっと甘い?」
とレネ。
カイが笑ってメモに書き足す。
ふわっ柑/しずかな甘
「甘く感じるのは、塩が形を作ったから。柑の匂いがその形を作ってる」
私はレネにささやく。
リーザが小さく笑った。
「その講釈、まるで詩みたいね。でも、嫌いじゃないわ」
三段目。
北の壁の吊り棚から、昨夜の軽い燻材——干した海藻と少しの木の枝——を取り、煙を通さず香りだけを転ばせる小箱を火にかけた。
油をほんの一滴、小鍋で温め、その上を箱の蒸気がかすめる。香りの膜だけを油に移す。麦粥にその油を針の先ほど落とす。
「最後は“燻”。強ければ止めていいの。レネが決めるのよ」
レネは躊躇い、器を少し離して匂いを確かめる。目が動く。ひと口——。
沈黙。
次の瞬間、スプーンがもう一度動いた。
奥方が口元を押さえる。目に光がにじんでいた。
「なんかちょっと濃くなった。でもいい香り」
とレネ。
カイが書く。
濃い……まる/香り前にぬける
「三段、登れたね」
その言葉にレネは頷き、ふいに私を見た。
「さっきのとこれを、まぜたらどんな風になるの?」
どうやら、食べているうちに、もっと、となったようだ。
私は笑って木札を動かす。〈柑+燻〉。
「少しだけ、混ぜてみようか。でも、混ぜすぎると階段が壊れちゃうから、ほんの少しね」
私は柑の塩を指の腹でごく薄く湿らせ、香りの鍵をもう一度つくる。燻の油は半滴。三口分だけの小さな碗に仕立てて差し出す。
レネは三口、ぴたりと数えて食べた。
「もういらない」
その言葉に思わず私は笑みを浮かべた。
「十分よ。止まる場所を自分で選べたら、次も登れるわ。レネ、すごいね」
レネの嬉しそうな表情に、リーザがほっと笑い、深く頭を下げた。
「お代は……」
「今日の“実験”を、一緒にしてもらったのだからいただけないわ」
「いいえ、きちんと払わせて。これからも、ここに来る理由が欲しいから」
ちょうどそのとき、鈴がカラン、と鳴ってミーナが顔を出した。肩に柑橘の籠を担ぎ、もう片手には新聞の束。
ミーナは市場の行商人だ。
市場の行商人は、お得意さんを回って仕事をしている。
私がこの町に来た時、市場を調査している頃に出会って、それ以来の付き合いだ。
目利きだし、何より情報通。必要な話もそうでない話もなんでも手に入る。
「リリア! 頼まれてた柑皮、香りが強い“冬橙”が手に入ったよ。それとさ——銀砂、また値が下がってる。安すぎ。嫌な感じ」
私は目だけで礼を言い、話を耳で拾う。
「ミーナ、“柑皮”はこの壺に入れておいて。今日は、“冬橙”の薄いところだけ使うわ」
「毎度!」
ミーナがレネに手を振る。レネは少し遅れて、小さく振り返した。
ヨナがいつの間にか入り口に立っていた。巡回の途中らしい。
「朝から客が静かに笑ってる店は、港街には珍しいな」
「ふふふ。この小さな王子が、三段の階段を上れたの」
レネの頭に手をやる。
「坊主。この店の常連二号になるか?」
ヨナがそう声をかけると、レネがコクコクと首を縦に振る。
「気分じゃないときは“素”で座っていればいいわ。匂いのない席を用意するからね」
私はレネが座る入口近くの風の抜ける席を指した。
「黒板、書き替えるぞ」
カイがチョークで追記する。
三香麦粥(素/柑/燻)
*小さい碗で三段まで。止まってよし。
リーザは気持ちばかりのお代を机において、レネの手を握った。
「レネ、明日も、三段のどこかまで楽しみましょうね」
そう声をかける。
「うん」
レネは頷き、振り返らずに外へ出た。足取りは来た時より随分と軽い。
昼どき。
「三香麦粥」は年配の客にも受け、航海帰りの若者は“燻”から始めて“素”で終わるという変化球を見せた。
再びミーナがやって来て、空になった籠を置き、昼食を注文する。
「ね、銀砂の話、後で詳しく話しよ。絶対、卸の帳場が変だよ。……それと後でパン屋の旦那が来るかも。小麦が“苦い”って困ってた」
「苦い?」
「塩田が荒れてる。明日、見に行かない?」
私は頷き、骨湯の火を落とす。
黒板の「味の地図」で、甘と塩の間の線に、柑と燻の小さな印を付けた。
今日は“やさしい前抜け”。
明日は、苦味をどこへ置くか。
夕方、奥の席に忘れられた木札が一枚。〈柑〉。
カイがそれを拾い、机に置く。
きょうのレネ——柑二口、燻三口、柑+燻でひと休み。
私は札を指で弾き、音を確かめた。軽い音。
階段は、もう一段、増やせるかもしれない。けれどそれは、またもっと後に。
——港の風は、少し柑橘の匂いがした。
◇◇◇実験メモ◇◇◇
三香麦粥〈素/柑/燻〉
【0】 ベース粥(2〜3人分の基準)
押し麦:1
液体:7(= 骨湯4:水3)
粉塩:出来上がり総量の0.30〜0.35%(子ども基準の薄め)
前夜の下準備:押し麦を水で6〜8時間浸す(麦:水=1:2)
炊き方:弱火で20〜25分→火止め5分。仕上がり温度**60〜65℃**に保つ(湯気が顔に当たりにくい高さで提供)
【1】一段目「素」—“何も足さない香り”
塩分:ベースの0.30〜0.35%のみ。追い塩なし
合図:最初のひと口で“舌に線、喉はすっと”が合格
メモ:ここが基準線。以後の香りはすべて“ここからの差”で感じさせる
【2】二段目「柑」—“光で形を見せる”
“柑の鍵塩” 配合(ごく少量を都度作成)
粉塩:10
乾燥柑皮粉:1
海藻粉(出汁の骨格用):0.5
使い方(蒸気通し)
鍋の湯気に“鍵塩”を8〜12秒かざし、直投入はしない
器の縁に“指先ひと撫で分”だけ落とす(1椀120gに対し0.05〜0.08%)
狙い:塩で“甘さの形”を立て、柑の揮発で前方に抜ける座標を作る
失敗回避:柑が勝ったら、熱い蓋の裏で一呼吸だけ香りを逃がしてから供す
【3】 三段目「燻」—“膜だけを転ばせる”
“燻の香り油” 仕込み(前日〜当日)
中性油:1(菜種/綿実など)
燻材:干し海藻:小枝=3:1(極軽い香)
方法:60〜70℃の低温で3〜5分、小箱内の蒸気だけを油に当てる(煙は通さない)。粗熱を取って密閉
使い方:1椀120gに対し0.15〜0.25%(0.5〜1滴)を点で落とす
狙い:旨みの“奥行き”を足すが、重さは残さず前抜けを保持
失敗回避:強すぎたら“素”の粥で10:1に割った油に差し替える
【4】ミックス可「柑+燻」(子ども用は半量ルール)
配合目安(1椀120gあたり)
柑の鍵塩:0.03〜0.04%
燻の香り油:0.08〜0.12%(半滴〜0.5滴)
順序:柑 → 燻(順を逆にすると燻が勝ちやすい)
止めどきのサイン:眉間に力/呼吸が浅くなる→そこで終了
【5】 提供プロトコル(階段の作法)
一椀量:80〜120gの小椀で素→柑→燻の順
スプーン:親子で二本(“自分で止める”選択のため)
席:入口側=風抜け、奥=香り強め。子どもは入口側へ
黒板表記:
三香麦粥(素/柑/燻)*三段まで。どこで止まってもよし
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