8話:香りの道標(誘拐未遂)
朝。黒板に新しい札。
きょうの実験——「甘麹チーズクリーム」
まだ、少し苦味の気になる灰海パンに合わせるクリーム。
カイが匂い帳に矢印を書いている
ほの甘→ふわミルク→懐かしい匂い
「これ、トマスの店のパンに入れるの?」
「そうよ。パンがおやつに転移するわ」
先日、トマスと、パンを楽しめるモノにしたいという話で盛り上がった。
組み合わせ次第で楽しめるモノはいくらでも作れる。
味も匂いも“楽しむ”という五感に繋がっているから。
昼の客がはけた後、倉庫の鍵を点検。やっぱり半回転だけ遊ぶ。
昨夜、鍵穴につけた粉が、下に落ちている。
(夜に、誰かが動かしてる)
店に戻ると、ミーナが裏口から顔を出す。
「市場で、オルド商会の印つきの“銀砂”の袋、また出てる。そんでもって、値がさらに下がってる」
払い下げ品が必要以上に出回っているということだ。
安い粗悪品に人が流れると、中央から持ってくる上質な銀砂は売れなくなる。
それを今度はロシュが仲介してオルド商会が買い占め、流通量を操作して値段を釣り上げていく。
理屈はわかっていても、買う側にはなかなか抗いがたい。
「それからさ。最近、怪しい奴らが増えてる。リーザが子どもらを遊びに出すのが怖いって言ってた」
この町では、戦時中に子さらいが横行していたという話を聞いた。
オルド商会がその裏にいる、と皆思っているが、確たる証拠がないのであくまで良くない噂の一つに過ぎない。まぁ、その噂のせいで、皆、オルド商会に逆らえないというのもあるのだろう。
完璧な平和などないのはわかっているから。
多少の不穏と背中合わせで過ごすのが日常だ。
夕方。パン屋へ試食のクリームを持っていくカイに、小袋を渡す。
「すぐに暗くなるから、寄り道しないで。危なかったら、これを」
「りょーかい!道標ね」
カイは元気よく飛び出して行った。
町には、港祭の名残で観光客が多く滞在している。
こういう時は、見知らぬ人への警戒心が薄れがちだ。
カイを見送って、視線を海の方へとやると、夕暮れの防波堤の向こうで同僚と交代をしているヨナが見えた。
私に気づくと、ヒラヒラとこちらに手を振って来る。小さく手を振り返した。
カイが、倉庫の鍵の件を彼に漏らしてしまったので、毎日、朝・昼・晩と店に食事に来ては、「危ないから」と長居している。
特に夜は、閉店して店の片づけが終わるまで手伝いをしてくれたり、カイと遊んだりしてくれている。
とても、助かるのだが、なんだか、申し訳ない。
申し訳ないので、夜のお代はいらない、と伝えているが、帰り際きっちり机の上に置いてある。
だから、その代わりにいつもほんの少しおまけの一品をつけている。
店の常連第一号は、良い客すぎるのでは無いか。
考え事をしながら、夜の仕込みを終えた時には、すっかり外は夕闇に包まれていた。
カイの帰りが遅い。
気になって外へ出た瞬間、鼻の先をみかんの香りがくすぐる。
——これ、うちの柑。
はっと周囲を見回して、匂いをたどると、店と防波堤の間にある石畳の角に、粉になったクッキーの欠片。
近寄って触ると、指がすぐ香る。
胸がぞわっとする。すぐに近くの衛兵詰め所に駆け込む。
「ヨナ!」
帰り支度をしていた彼が振り向く。私は、指につけた欠片を見せた。
「道標。カイが落として行ったの」
ヨナは、自分の長筒を肩に下げると、周囲の同僚に声をかけた後、すぐさま一緒にカイの残した道標を追ってくれた。
角、もう一つの角。今度は草の息——ミントとうっすらローズマリーの香り。
三つ目の角は、潮の香り。
匂いの矢印を追って、港の裏路地へ入る。人の流れから外れ、一気に寂しくなる。
細い路地の奥で、フードをまとった男たちがカイを囲んでいた。
肩を掴みすごむ男に、カイは足をばたつかせて抵抗している。
私は思わず、声を張った。
「カイ!」
私の声に反応して、こちらに意識を向けた男の向う脛を蹴って、カイがこっちへ走って来る。
ヨナが間に入り、肩から長筒を下ろすと、ガチンと銃身を整えた。
「子どもに触るな。おまえら何者だ」
男たちは舌打ちし、反対の通りの出口へと走り去ろうとする。
路地の出口には、別の影が見えた。
ヨナがあとを追いかけたが、突然現れた荷車が通路をふさぐ。
「どいてくれ!」
ヨナの叫びに、荷車を曳く男は濁った声で「すまないな、すぐには動かせないよ」と言い放ち、ヨナが乗り越えようと飛び乗った時には、荷車を曳いていた男を含め、彼らの姿は消え去っていた。
カイを抱きしめると、小さな手がギュッとエプロンを掴む。
そして、エプロンに金茶の頭を埋めたまま、モゴモゴと言う。
「——トマスのとこから戻ってきたら、あいつらがウチの倉庫から出てきたんだ。それで、後をつけて」
その言葉に、体を離し顔を覗き込む。
「なんて危ないことを——」
「でも、ちゃんと道標は置いて行っただろ? だから、来てくれたんだろ?」
グッと唇を引き結んで、潤むカイの視線が探るように私の視線に絡まる。
ふぅ、と息を吐いて、再びカイを抱きしめた。
そして、頭を撫でる。
「よくできました。でも、もうこんな危ないことはしちゃダメ」
戻って来たヨナが、悔しそうに言う。
「逃げられちまった」
「あの男たち、オルド商会の鎖時計をつけてた。間違いないよ」
エプロンにしがみついたまま、カイがヨナにそう告げる。彼の顔がさらに苦みばしる。
店へ戻る途中、エトワールが現れた。
「衛兵隊から報告を受けた。どうやら取り逃がしたようだが」チラリとヨナを見る。
その視線に、ヨナの眉間の皺がますます深まる。
「子どもへの接触+誘拐未遂の事件として記録しておく。後で他の奴が坊主に人相を聞きに来るから。ところで——」
エトワールがカイの持っている小さな袋を見る。
「見せてくれないか、その道標」
カイが、エトワールに手元の袋を開いて中を見せる。三種類の小さな丸いクッキー。
〈柑〉は柑皮の粉と細粒の鍵塩、〈草〉はミント&ローズマリーの香り砂糖、〈潮〉はほんのり香る海藻と海塩の微粒塩。
エトワールは三種類を少しずつ割って、その香りを嗅ぐと感心したように言った。
「ふむ。香りが重ならない順番か——匂いでたどる道標。面白いアイデアだ」
「だろ? 遊ぶときに友達にも配ってんだ。腹も膨れるし」
カイが自慢げに鼻を鳴らす。
店に戻ると、エトワールの後から、監察局の人間がやってきて、カイに男たちの話を聞く。
深くフードを被っていたので、人相ははっきりとしないようだが、ちらりと見えた懐中時計の紋章については力説をしている。
それを厨房の奥から眺めながら、ようやく一息つくことができた。
黒板に書き足す。
柑→草→潮=帰る矢印
道標は大事。
いつの間にか、ヨナが倉庫の鍵を直してくれていた。
「ついでに、ここの2階にあがる扉にも鍵つけといたから。寝る時はちゃんと閉めておけよ」
どうやら、ずっとこの店の防犯を気にしていたらしい。
しばらくは、倉庫の食材に何かされていないか、小瓶のチェックをしてから使用する。
不穏な風はまた吹くに違いない。
でも、海は荒れてもいつかは凪ぐ。
警戒はしても、あまり気にしすぎない。
(とはいえ、カイを連れ去ろうとしたのは看過できないが)
次にエトワールに会った時に、捜査の行方を聞いておこう。
◇◇◇実験メモ◇◇◇
【A】甘麹チーズクリーム(砂糖ひかえめ)
味の軸:やさしい甘み+ほんのり乳酸。重くならない。
使いどころ:灰海パンのロール/サンド
かんたん比率メモ
クリームチーズ :40(室温)
甘麹 :35(即席甘麹でも良し)
生クリーム:15(七分立て)
レモン果汁:2
はちみつ :5(季節で0〜5調整)
香塩:0.05
作り方
固定:チーズをなめらかに→甘麹を三回に分けて混ぜる。
転移:生クリームをふんわり合流→果汁と香塩を“点”。
保存:2〜3℃で72時間。後詰め・サンド向き。
一個あたり目安:ロール35g/巻、サンド25g/枚。
【B】道標クッキー
三種の“香りピン”で前に抜ける合図を作る。小さめ・割りやすい。
ベース生地(共通)
小麦粉:10
無塩バター:5
砂糖:4(半分は香り砂糖に)
アーモンド粉:2
卵(溶き):1
塩:0.1
焼成:160℃/15〜18分(直径3cmの小丸)
ポイント:薄め(厚さ5〜6mm)。パキッと割れる硬さに。
【1】〈柑〉
鍵の塩(作り置き少量):細粒塩:乾燥柑皮粉:海藻粉=10:1:0.5
配合:ベース生地100に対し、鍵の塩 0.5を練り込み。
仕上げ:焼き上がりに柑皮ひとかけを表面に軽く押す。
効果:割ると前へ抜ける柑の匂い。
【2】 〈草〉
香り砂糖:
グラニュー糖:10
乾燥ミント粉:0.3
ローズマリー粉:0.1
→袋でしゃかしゃか1分、半日置けば理想(即席でもOK)
配合:ベースの砂糖の半分を香り砂糖に置換。
効果:砕くとひんやりした草の息。
【3】〈潮〉
微粒塩:0.2(生地に均一に)
仕上げ:表面に点で塩をひとつまみ(1枚あたり5〜6粒)。
効果:舌を刺す潮の香りが進行方向を示す。味で方向を覚えやすい。
使い方
合図の順:〈柑〉→〈草〉→〈潮〉(強→弱→刺)
落とし方:
足元に1/4枚をパキッと置く(目立たないけど香る)。
人混みなら腰の高さの縁にこすりつける 香り〈柑〉だけ
→これを起点にする。
合図の読み:
柑=進む/草=曲がる/潮=止め・合流・注意
→これの繰り返し
注意:子どもは一人で危険に飛び込まない。合図は大人に知らせるためのもの。
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