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1話:小さな看板と大きな鍋

——朝一番の塩は、海よりも軽い。


扉を開ける。潮の匂いが胸に落ちた。港通りの小さな食堂の(ひさし)を撫で、看板を返す。

『本日開店』の文字が朝日に透ける。


カイが黒板にチョークを走らせた。まだ少し幼い丸い字。


「きょうの実験——“塩が匂いを連れて帰る”」


「お題がちょっと難しいよ、姉ちゃん」

「難しくないわよ。塩が美味しく匂い連れ帰るってことだもの」


眉間に皺を寄せたカイの茶色に金の混じった頭の上にモヤモヤと黒い物が見えるようだ。

「......よけい、わかんなくなった」


カイは、エプロンから“匂い帳”を出し、厨房からの匂いに鼻を鳴らして記す。


きらっ塩/ふわっ海風/すこし柑皮(かんぴ)


寸胴からは骨と香味野菜の澄んだ香り。私は、塩壺を開け、粗塩・中粒・粉塩を手に並べる。粒で役割が違う。

「始めようか、カイ。初日はまず“店の匂い”を覚えてもらおう」


この港町に店を出す準備を始めて1か月。

余所者を受け入れにくい、この辺鄙な港町で、地元の住民や近隣の店に受け入れてもらえるように、なかなかに苦労してきた。

田舎の人間関係は緊密で繊細だ。これも一つの化学反応だろう。

「ま、本番は、今日からだからね」

自分に言い聞かせるように呟くと、隣に立つ金茶の頭がコクコクと頭を振った。


太く三つあみにした黒髪を肩から前に垂らすと、窓辺から離れ厨房に向かう。

心地よい海風の入る店のしつらえ。この店を借りようと決めたのはこの風の向きだ。


入り口の鈴が鳴る。背の高い男が入ってきた。靴底はしっかりしたブーツ、そして、袖口には魚の匂い。

ここへ来てから見たことのない男だ。


「衛兵さん?」

「港の見回り前に腹ごしらえだ。ウワサの新店の下調べもな」


男は席に腰をおろし、壁の『味の地図』を眺める。甘・酸・塩・苦・旨・香……重なる円に、今日の印が薄く付いている。


店の壁には『味の地図』がかかれた大きな黒板がある。

この地図は私の頭の中の味の設計図を描いた物。


「へぇ......おもしれえな」

それを眺めて男が小さく声を漏らす。


「おすすめは?」

「今日は塩と甘みの真ん中がいいわ。おススメは“海塩キャラメル豚”よ」

「海と豚、いいな。それをもらおう」


笑わない口元なのに、声にはわずかな愉快。名を尋ねると「ヨナ」とだけ。指先で胡椒瓶を転がしている。


最初の一皿は、軽く燻した青菜の温サラダと骨湯の澄まし。ヨナは一口ごとに間を置き、静かに頷く。カイが遠くで親指を立てる。


——そのとき、外から甲高い声。


「ちょっと! 朝から肉の焦げた匂い、通りに充満させないでくれる?」


扉が勢いよく開く。薄紫の外套の奥方が鼻の下を押さえて入ってくる。店の裏に住む雑貨屋のリーザだ。

「うちの子は匂いに敏感で、すぐに食欲無くしちゃうのよ。勘弁してよ」

彼女は、この店を借りて開店準備を始めた頃から、何かと神経質に声をかけてくる


続いて、隣の乾物屋の主人ボルグが、腕を組んで入り口に仁王立ちになっている。


「港通りで煙仕事はご法度だ。ギルドに睨まれるからな。これだから他所もんは——」

「煙は出してませんよ。湯気だけです。それに、塩で“匂いの向き”を変えてるんです。リーザさん、もう外に匂いは出ませんから」


リーザは眉をひそめ、寸胴をのぞく。

「うちの子、肉の匂いが苦手なの。朝からは無理なの」

「それは、実に失礼しました。これは肉の焦げた匂いではないのですが.....」

彼女を宥めるように声をかけながら、私は火を絞り、蓋を少しずらす。

湯面の泡が寄る。

「塩は匂いを引き寄せも留めも離しもするのです。今日は“離し”をお見せしますね」


この店は、食堂でありながら、私の趣味と実益を兼ねた実験室。

王宮の国家錬金術師という職を捨て、ここに移り住んだのは、自分の『好き』を追求するためだ。


ボルグが鼻で笑う。

「ふん。食い物に講釈は結構。客が逃げない匂いにしな」


視線が奥へ集まる。開店初日の朝は肝心だ。息を吸う。


「——なら、一皿で確かめてください」


冷蔵棚から下処理した豚肩。前夜、粗塩で揉み、余分を抜いてある。

鍋に砂糖。触らずに火。薄琥珀になった瞬間、粉塩をひとつまみ。

嬉しげなカイが小声で実況する。


「きらっ塩、入った」

「ここで塩?」とヨナ。

「ええ。塩が甘さの輪郭を作る。“甘い”をただ甘いにしない。香りの向きを、手前へやるんです」


琥珀が濃くなったところで豚を入れる。表面が色づき、キャラメルが凹凸に絡む。

焦がさない。香りの高さが落ちる手前で海藻出汁を差す。

じゅっ、と短い音。湯気が甘く、軽い潮を運ぶ。カイが匂い帳に書く。


しゃらり甘→すぐ塩の背骨/ぶわっと旨み


私は柑橘の皮を裂き、細く削ぐ。ひとつまみだけ煮汁へ。残りは仕上げの“最後の香り”に。


「塩の再結晶を狙います」

小さな乳鉢で粉塩+海藻粉+柑皮粉を合わせる。

「最後に振る塩は、鍵。小さな結晶が口でほどけ、甘さの膜を割って香りを解放する」


店内はさながら静かな実験鑑賞になる。

隣の主人は腕を組んだまま。リーザは半歩引き、しかし目は皿へ。


火を弱め、肉がやわらいだら取り出す。煮汁は少し詰め、苦みは布で濾す。

皿に麦の素揚げを薄く散らし、切り分けた肉。表面に“鍵の塩”をひとつまみ、柑皮を一片。湯気が落ち着いた瞬間、温かなキャラメルソースを細く引く。


「どうぞ。海塩キャラメル豚です。——匂いの向きを変えてあります」


皿を二枚出す。ひとつはヨナへ。もうひとつはボルグとリーザの前へ。

「ご不安なら、まずは味見のひと口を。料金は要りません」


リーザは口に入れるのを少しばかりためらう。先にヨナが一切れ。噛む。塩の微結晶が先にほどけ、甘さに輪郭。旨みは重くならず、柑橘が座標を描く。短く息を吐く。


「……軽い」

「これだけ味を入れても、肉が軽いの?」とリーザ。

「匂いが先に落ちる。重さは舌に残らず、鼻の前に抜ける」


通りの子どもが背伸びして覗きこんでいる。


ボルグがその舌触りに目を丸くし、リーザは小さく一切れ。口元に手をあて、慎重に、噛む。

やわらかな沈黙が落ちる。リーザが口元から手を離した。

「……これなら朝でも平気.....かも」

「よかった」

やはり最初の評価は緊張する。ほぅ、と息を吐いた。

緊張がほどける。


次第に入り口に列が生まれる。私はカイへ目で合図。彼が黒板の下に小さな札を掛けた。


きょうの実験 成功


ボルグが咳払い。

「講釈に弱い客もいる。……が、味は嘘をつかないらしいな」

「ありがとうございます。煙は北壁へ逃がす設えです。ご迷惑はかけません」

「ふん」


ボルグが去ると、ヨナが低く言う。

「港で“正味しょうみが伝わるのは難しい」

「助けられました。最初の一口は、怖いから」


彼は銀貨を一枚置く。

「腹は正直だ。明日も寄るよ。いい店だ。名は——」

「リリア・ノース。彼はカイよ」

「じゃあ、リリア。常連一号は俺でいいか?」


カイがカウンターの向こうでガッツポーズ。私は笑って頷いた。


昼前、鍋は静かに減り、骨湯はさらに透明に。風は少し暖かく、海の匂いは甘くも塩辛くもない、ただの“港の匂い”になった。

私は黒板に白い線を一本引き、味の地図の甘と塩の間に日付を小さく書く。


今日は“軽い甘塩”。

明日は、また別の向きを連れて帰ろう。


◇◇◇実験メモ◇◇◇


海塩キャラメル豚(塩析→糖化固定)


豚肩:1

粗塩(下処理用):豚の1.5%(前夜に揉み、30分後に表面を拭う)

砂糖:豚の8%(鍋で琥珀色まで加熱、かき混ぜない)

粉塩(仕上げ用):ひとつまみ×人数分(細粒にし、干し海藻粉・柑皮粉を“爪先で”混ぜる)

海藻出汁:砂糖量の3倍(キャラメル温度を落とし、香りを抱かせる)

柑橘皮:ごく少量(煮汁へ1、仕上げに1)

火加減:

キャラメル化…中火(色づいたら即出汁)

煮含め…弱火20〜30分(肉が指で押して返す程度)


ポイント:

塩析で臭みのたんぱく質を先に外へ

キャラメルで“甘の膜”を作り、出汁で温度落とし

鍵の塩で膜を割り、香りの向きを“前に”抜く

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