第二話 飲みに行かない?
【序章】 再会
「では、右手首を見せてください。」
「はーい」
そう言うと、彼は手首の袖をまくり私に腕を突き出した。救急措置として巻かれているハンカチには血が滲んでおり、傷の深さを想像する。慎重にハンカチを取り、傷口をしっかりと診る。右手に彼の手をのせたまま、左手で淡々とパソコンに情報を入れていく。
「これ、ナイフで切られたの?」
「そうなんだよ。」
「やっぱり。でもどうしてそんな怪我したの?」
そう聞くと、綾川くん少し戸惑いつつもことの顛末を話してくれた。
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今日、珍しく外に出て買い物しようかなって思って街をふらふら歩いてたんだよ。俺フリーのライターやってて、普段は家に引きこもってるからさ。そしたら、突然後ろから子供の悲鳴が聞こえてきたから、振り返ったら男がナイフを持った手を振り回しながら子供に向かって走って行ったんだよ。だから、咄嗟に前に出て子供を庇ったのは良いものの、手首をざっくりやられちゃって。でも、怯まずに相手の腹に蹴りを入れてみたら動きが鈍くなったんだ。
だから、警察呼んで現行犯逮捕してもらったよ。傷はそんなに深くないから大丈夫だとは思ったんだけど、警察の人が病院に行けってうるさいから、こうしてやってきたんだ。
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「へえ。それは大変だったね」
彼の傷をみながらなんとなく聞きいた私は、生返事をした。彼は少し不満そうだったが、諦めたようだ。
「よし。傷口は浅いから一週間もすれば塞がるわ。一応消毒しておくわね。」
そういって机の上にある消毒に手を伸ばした。
(あれ?消毒液がほとんどなくなってる。)
「森山さーん。消毒液持ってきてくれませんかー?」
しばらく待ったが返事はない。時間を見ると、いつも彼女が昼休憩に入る時間になっていた。仕方なく自分で取りに行くことにした。
「ちょっと待っててね。消毒液持ってくるから。」
一言綾川くんに声をかけ、診察室を後にしようとした。診察室から薬の備品庫に繋がる廊下の扉を開こうとドアノブを手を伸ばした時、外側からドアノブが捻られ、扉の奥から出て来た男と思いっきりぶつかった。体勢を崩した相手は床に尻もちをついた。
「いててっ……。あぁ涼風くんか。」
「あ、堀山先生。すみません。大丈夫ですか?」
「ははっ大丈夫大丈夫。どうしたの?今診察中じゃないのかい?」
「消毒液が切れていたので追加を取りに行くところです。」
そう言いながら、尻もちをついた堀山先生に手を伸ばした。堀山先生はその手を見つめた後、そっと自身の手を乗せたので、私はギュッと握り一気に引き上げた。少しふらつきながら立ち上がった堀山先生に、すみません。周りを見れてませんでした。と謝ると、堀山先生は、私も周りを見れていなかったよ。すまない。と言ってにっこりと笑った。そして、私と入れ違いに綾川くんがいる診察室に入った。おそらく私がいない間のちょっとした話し相手をする気なのだろう。
最近、私が診察中に席を立つ時は、こうして話し相手を買って出てくれる。そう思いながら、私は足早に目的のものを取りに向かった。
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「やあ。こんにちは」
「……こんにちは。さっき涼風とぶつかっていましたけど大丈夫ですか?」
「ははっ。大丈夫さ。驚かせてしまってすまない。私は彼女、涼風くんの上司の堀山という。彼女は今消毒液を取りに行っているから、僕が話し相手になってあげよう。」
よっこいしょと言いながら堀山先生は涼風が座っていた席に座った。手にしていた付箋付きのメモと紙パックのコーヒーを机の上に置いたのを見て、涼風への差し入れだと察する。
そして、彼は机にある残り少ない消毒液を何回か押して、手に塗った。普段から診察の時に消毒しているからだろうか、手が酷く荒れていた。
「さて。早速なんだが君、涼風くんが好きなのかい?」
「……いきなり踏み込んだ質問ですね。」
「ははっ。いざ何か話そうと思ったら特に内容が出てこなくてね。」
「とりあえずノーコメントで。」
「えぇ。良いじゃないかちょっとくらい。
恋バナなんて全世界共通の面白いエピソードじゃないか!」
堀山先生は不満そうな声をあげて、俺、綾川大犀を見つめたが、知らんぷりを決め込んだ。
でもそれ以外特に思いつかないんだよなー、と一人で呟きながら、顎を触りながら上を見上げる。
「涼風くんがたまに診察中にその場を離れるときはなるべく私が話し相手をしているんだよ。最近は若い女性が多かったから、恋バナとかしてみたんだけど……」
「俺にそんな話されましてもねえ。最近は仕事が忙しくてそんな暇がないんですよ……。」
「仕事が忙しい……。あ!職業は?」
良い話題思いついたとでも言いたげにポンと手を叩いて俺の方を見た。話題を見つけれたのが嬉しかったのか、少し目がキラキラしていた。良い大人がそんな目で見なんなよ、と思いながらも顔に出さず、俺は答えた。
「フリーのライターです。今はネットで小説を投稿しているのですが、なかなか伸びなくて……」
俺は苦笑いしながら頭をかいた。
「フリーのライターね……。」
堀山先生は目を細め、少し剃り残した髭をいじりながら俺をじっと眺めた。
「まさか、それだけで食っているのかい?」
「いやいや。まさか!いろんなバイトしながらなんとか一日食っていけるくらいですよ。」
「その割に、身につけてある服や装飾品は上質な物だね……。それにさっき仕事が忙しいと言っていたのに、小説の伸びは良くないと言っていた。
本職を隠したかったのか、気が動転していたのか。」
堀山先生の目つきが鋭くなる。
「本当にやっている仕事はそれだけかい?」
二人の中で不穏な空気が流れてはじめ、俺が口を開きかけた瞬間、涼風が勢いよく帰ってきた。
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「ごめん、ごめん!お待たせっ」
走って来たせいで、少し息が切れ切れだった。私は深呼吸をして息を整える。
「ありがとうございます。堀山先生。」
ペコリと頭を下げると、
「そうか、頑張れよ」
と言い、にっこり笑って手を振りながら立ち去って行った。その背中をしばらく見つめたあと、私は綾川くんの方に体を向けた。
「じゃあ、治療するから手首出してね」
綾川くんと堀山先生、何を話していたんだろう、と思いつつ、私は持って来た消毒液を容器に入れた。そしてものの数十秒で、彼の右手首に綺麗に包帯を巻いてあげた。
彼はそれを興味深そうにぼーっと見つめた。そして、ニコッと笑い、「ありがとう」と言った。
「そうだ!せっかく会えたんだし、今晩ちょっと飲まないか?時間が空いているならだけど。」
「まあ、今日の夜は予定はないけど……。」
私の返事に、綾川くんは嬉しそうにニコッと嬉しそうに笑った。
「そうだなあ、せっかくだし神酒も呼ぼう。あいつは今でも連絡とってるからさ」
名案だとでも言いたげな顔で見つめられた。神酒くんも、綾川くんと同じで六年間同じクラスだった同級生である。彼も高校卒業後から会う機会がなかったので久しぶりに会いたいなあ、と思った。
「よし!そうと決まれば早速今晩行くぞー!」
「はいはい。どこのお店?」
「“おいしい居酒屋”だよ。昔から駅前にあるお店で、この前行ったらつまみがびっくりするくらい美味しくてさ。そこでも良いか?」
「あぁ、あそこか。そこなら知ってるよ。通勤する時に前を通るから。じゃあ夜九時くらにそこに集合ね。」
「はいよー」
その後、お互い高校時代と携帯電話が代わっていたので、せっかくだからと電話番号を交換した。
診察が終わり、飲み会の約束もした綾川くんは満足気に診察室を後にした。私はその後ろ姿を見て、相変わらずだなぁと思った。
綾川くんが去った後、ようやく机の上に置いてあるコーヒーに気がついた。メモには“差し入れ”という一言が添えてあった。筆跡からして堀山先生からだろう。差し入れはありがたいが、今朝ペットボトルの水を購入したところだ。開けてしまっているのでそちらを先に飲まなければならない。コーヒーの賞味期限を見てみると、不運なことに明日まで。夕方にでも飲もうと思い鞄にしまう。
時間を見ると、午前の患者さんの受付時間が終わっていた。私だけしかいない診察室は静寂に包まれており、さっきまで騒がしかったこともあって、少し寂しさを感じた。