1話
春の気配もまだ遠い、冷たい朝だった。
窓から差し込む光は、冬の名残を残したまま教室を照らしていた。
そんな中、教室の空気はいつもと違う期待と好奇心に満ちたざわめきを含んでいた。
「なあ、知ってるか。今日、転校生来るんだってよ」
席に着いた途端、隣の圭が小声で話しかけてきた。
興味がないわけではないが、俺はあくびをかみ殺しながら答える。
「この時期に転校? 珍しいな」
「しかも女の子。で、社長令嬢でめちゃくちゃ美人。成績トップ、だけど超冷たいらしい。氷姫って呼ばれてんだと」
「マンガかよ」
噂話ってのはだいたい盛られてるもんだ。そう思っていたが、周囲の会話を聞いていると、どうやら今日の話題はそれ一色らしい。
やがてチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。
「みんな座れー。今日は転校生が来てるから、紹介するぞ」
黒に近い青銀の髪が、光を反射して揺れる。
整った制服、まっすぐな姿勢。肌は雪のように白く、瞳はまるで凍てつく湖のようだった。
まさに、“氷姫”というあだ名がぴったりだった。
「霧氷 雫です。よろしくお願いします」
その声は、小さいけれどよく通る。
落ち着いていて、どこか冷たさすら含んでいた。
教室の空気が一瞬で張り詰める。
それに乗じて、俺も背筋を伸ばした。
ガラリ、と教室の扉が開いた。
そして彼女は、静かに一歩を踏み出した。
彼女の言葉が終わっても、誰も口を開けなかった。
ただ空気だけが、ひんやりと張りつめていた。
担任が慌てて口を開く。
「えーと、席は・・・月島の前、空いてるからそこな」
「はい」
短く返事をして、彼女はこちらへと歩いてくる。
そのすれ違いざま、ふと視線がぶつかった。
澄んだ水面のようなその瞳が、わずかに揺れた気がした。
いや、気のせいかもしれない。けれど、たしかに胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
雫は机に座り、何事もなかったかのように教科書を広げた。
まるで、この世界に興味がないかのように。
*
昼休み。
俺は弁当を広げながら、ちらりと前の席に目をやった。
雫は相変わらず静かにノートを開き、黙々と何かを書き込んでいた。
誰にも話しかけられず、話しかけるそぶりもない。
――いや、ちがう。
誰も話しかけられないのだ。
俺の前の席には、誰も踏み込めない冷たい壁が立っているようだった。
「なあ、あれ絶対近づけねえだろ」
圭が苦笑混じりに言った。
「というか、あの空気で話しかけるやつがいたら、逆にすごいって」
「・・・そうかもな」
でも、俺の中にはずっと引っかかっていた。
――朝、目が合ったときの、あの一瞬の揺らぎ。
完璧なはずの静寂の中に、確かに何かノイズのようなものが混じっていた。
それは、冷たい湖面に落ちた、小さな雫のように。
気づけば、俺は立ち上がっていた。自分でも理由はわからない。ただ、彼女の中にある何かに惹かれていた。
「ちょ、お前・・・マジで行くの?」
圭の声を背に、俺は雫の隣に立った。
「・・・あのさ」
雫が顔を上げる。
その瞳が、また俺をとらえた。
「なに?」
「それ・・・今日の数学の予習?」
「ええ。少し変則的な出題があると思って」
「・・・そうなんだ。俺、あのパターン苦手でさ。よかったら、あとで教えてくれない?」
一瞬、雫の目元がかすかに動いた。
「・・・いいわよ。でも」
そこで言葉を切って、まっすぐ俺を見た。
「私の時間を無駄にしないで」
口調は変わらず冷たい。だけど、拒絶のそれではなかった。
その奥に、ほんのわずかに――揺らぎがある。
やっぱり、あの目には確かに何かがある。
俺は、そう確信した。