第七話 出会いの波紋
タイムカードを打刻する音と、『お疲れ様です』の声がして、その子が入ってきた。
身長は今のボク――楓――より少し高く、ストレートな黒髪を腰まで伸ばした女の子だった。名札には『安藤梓』とある。
容姿も名前も、見覚えがある気がする……けれど、どうしても思い出せないな。一学年に三百人くらいいるけど、学校ですれ違ったことがあるはずなのに……。
同じ学年だと聞いたし、帰ったら紗希に確認してみよう。
そう考えながら彼女を見ていると、ふと視線が交わった。
瞳は暗いブラウンで、どこか冷静な印象を与える。彼女はじっとボクを見つめてくる。その目はまるで、目の前の何かを分析しようとしているようだった。
視線を返しているうちに、だんだんと顔が熱くなり、心臓の音が耳に響いて息が少し詰まる。
「えっと、北条……楓さん……?」
ボクの名札を見て、彼女が問いかけてきた。
ちょうどそのとき、山下さんが戻ってきて、ボクと安藤さんの間に入り、ボクを紹介する。
「安藤さん、こちらは君の先輩の北条さん。夏休みの間、手伝ってもらっていたけど、今日から復帰したんだ」
「初めまして。安藤梓です。先輩、よろしくお願いします」
「こちらこそ、安藤さん。北条楓です。同じ学校なんですって?」
「はい、北条紗希さんと同じクラスです……」
「……!」
えっ、紗希と同じクラス? じゃあ、ボクのことも何かで知ってるのか?
ボクが楓太だってバレるのは時間の問題なのか?
機転を利かせた山下さん、「じゃあ、安藤さんはこっちに来て。楓さんはデータ整理の続きを頼むよ」と言って、安藤さんを実験室に連れて行った。
ふぅ〜助かったのかな? いや、待てよ。紗希と同じクラスだって? あのブラコン妹が、ボクのことを自慢するのを止めるわけないけど、もしも止めていたとしたら、逆に休学している理由を怪しまれるんじゃないか?
家族や研究所以外の見知った人には見られていなかったから、今までは警戒する必要はなかったけど、さか同じ学校で同学年とは……今回はどうにも逃げられそうにないぞ。頭が急速に回り始める――
うん、今日はもう帰ろう。
山下さんが実験室から戻ってくるのを待って、声をかけた。
「山下さん、やばいです。今日はもう上がりますので、安藤さんにはボクのことを気にさせないようにお願いできますか?」
「あ、うん。そうだね。今日のところは、もうこれ以上顔を合わせない方がいいね」
「はい、ではお先に失礼します」
タイムカードを打刻し、更衣室に向かって速攻で帰宅の準備を始めた。
帰宅したらすぐに、紗希に安藤さんのことを聞かなきゃな。
そう思うと、電車を待っている間も落ち着かず、足踏みしたくなった。焦りと不安が頭の中をぐるぐる回り、「早く帰らなくちゃ」と繰り返し思っていた。
結局、帰りは朝調べた少し安い料金のJR京浜東北・根岸線で桜木町から石川町で降りるのをやめ、いつも通りみなとみらい線で帰ることにした。
*
「ただいま! 紗希、いる?」玄関を開けるとすぐに、紗希を呼んだ。
「あ、おかえり〜お兄ちゃん! バイトどうだった〜?」リビングのソファでくつろいでいる紗希。
「いや、それがさ、やばいんだよ! 安藤梓って子、知ってる?」
「うん、クラスメイトだよ」
「そうそうその子。その安藤さんが研究室でバイトしてるんだよ! 最初、新しい子が九月から入ったって聞いて、同じ学校で高一って、やばいな〜って思ってたら、紗希の同級生だってわかってさ!」
「お、お兄ちゃん、深呼吸して落ち着こう」
「うん、ありがと」
紗希が持ってきてくれた冷えた麦茶を飲んで、少し落ち着いた。
妹に冷静になるよう言われたのは、ちょっと情けなかったけど、まあ仕方ない。
紗希は、いつも明るくておおらかだ。少しおっとりしているけど、いざというときは頼りになる。
この間だって、何かでボクが迷っているときに何気なく背中を押してくれたのを思い出す。
人の気持ちをよく察して、さりげなく周囲を気遣う優しさ――本当に頭が上がらないよな。
「安藤さん、ボクが元男だったって知ったら、紗希の兄の楓太ってバレちゃうよな」
「大丈夫だよ。安藤さんはきっと、そんなこと気にしないよ」
「え……?」
「だって、安藤さんって女の子の方が好きみたいだよ? いくらお兄ちゃんの自慢をしても話に乗ってこなかったし、あたしがお兄ちゃん大好きって知ってるから、あたしには興味ないみたいだし」
「え、そうなの?」
少しだけ安心したけど、なんだかまだ引っかかるものがあった。
「どこかで見たことがある気がして見てたら、安藤さんが逆にボクの顔をじっと観察するように見つめ返してきたんだよ」
「そ、それって……安藤さんが、その子に興味を持ってるときの仕草だよ! お兄ちゃんのこと、女の子認定したんだぁ〜!」
そのあと、研究所では『楓太』ではなく『楓』と呼ばれることになったと紗希に言うと、「なにそれ受ける! ね、誰が考えたの?」と笑っていた。
父さんだと言うと、まあまあのセンスね、と少し意外そうだった。




