第二十話 受け入れる心
アルバイトがある日。
放課後、学校の裏手にある階段を下っている途中、紗希にわたしと安藤さんが話しながら歩いているところを見られた。
最初は彼女の表情が曇ったけど、少しずつその表情が和らいでいった。
「お兄ちゃんが笑ってる……」と、彼女は小さな声で呟いた。
そう言う彼女の表情は、以前のような苦しみではなく、どこか安心したように見えた。
その日くらいから、少しずつ紗希の態度が変わり始めたように感じた。以前は、安藤さんと一緒にいると、どうしても目をそらしていたり、あまり近づこうとしなかった紗希。でも最近は、わたしたちに対して少しずつ違う反応を見せることが増えてきた。
そして、昼休み。山崎さん、太田さん、安藤さんたちと一緒にお弁当を食べていると、紗希が教室に顔を出した。
「お兄ちゃん、今日も一緒に食べてるの?」と、少し遠慮がちに言う紗希。
「うん、みんなと一緒にね。どうしたの?」軽く笑って答える。
紗希は一瞬迷ったように見えたけれど、
「じゃあ、わたしも混ぜてもらっていい?」と、普段よりも少し自然な感じで言ってきた。
「もちろん」と答えると、紗希はちょっと照れくさそうに席に座った。
山崎さんが「今日は一緒に食べる?」とニコニコしながら尋ねる。
「うん、気分転換にね」紗希は軽く笑って答えた。
太田さんも「お兄ちゃんと一緒に食べるの珍しいね」と言って、微笑んだ。
「うん、少し慣れてきたから」紗希は軽く笑って答える。
それはたぶん、わたしと安藤さんのことなんだろうな……少し驚いたけれど内心でほっとした気持ちが広がった。
紗希は少し照れくさそうにお弁当を広げると、急に「お兄ちゃん、安藤さんがいると楽しそうだね」と言ってきた。
その言葉にちょっと驚いたけれど「うん、楽しいよ。安藤さんと一緒にいると、いろんなこと話せるし」と答える。
安藤さんは無言でわたしの方をチラッと見る。
「お兄ちゃんが梓さんと恋人同士で楽しそうだと、あたしもなんだか嬉しくなるよ」と紗希が言った。その言葉に、わたしと安藤さんが確かに恋人なんだって実感が湧いた。
「そうなんだ……なんか、嬉しいよ。お兄ちゃんが楽しそうで」と、紗希は小さな声で言った。その言葉には、以前感じたような複雑さはもう感じられなかった。
山崎さんが「それなら、またみんなでお昼食べよ?」と言い、太田さんも「うん、楓さんが保健室にいた時みたいにね!」と賛成する。紗希は少しだけ考え込んでから、「うん、じゃあ明日から毎日わたしも参加していいの?」と、やや控えめに提案してきた。
「もちろん!」そう答えると、紗希は嬉しそうにうなずいた。
紗希が前のようにぎこちなくなくなったことに、少しホッとした。
*
立春を過ぎ、バレンタインデーが近づいてきた。
毎年、紗希はチョコをくれるけれど、今年はどうだろうか。そんなことを考えソファで雑誌を眺めている紗希を見ると、案の定、話しかけられた。
「お兄ちゃん、今年はちょっと違うチョコを作ろうかな?」
顔を上げると、紗希がテーブルに広げたレシピ本を真剣に眺めている。その姿に少しドキドキして、何気なく聞いた。
「どんなチョコ?」
「うーん、まだ考え中だけど……」
紗希はページをめくりながら、楽しそうに笑った。
「ちょっと工夫してみるつもりだから、楽しみにしててね」
その言葉に、思わず胸が少し高鳴る。けれど、同時に不安も湧いてきた。今年はどんな気持ちを込めてくれるのだろう。紗希の気持ちは分かっているけれど、わたしには安藤さんがいる。そのことが、どこか心の中で引っかかっていた。
*
翌日、研究所のバイトを終え、安藤さんと一緒にみなとみらい駅まで歩きながら話していた。安藤さんもバレンタインデーを気にしているようだった。
「バレンタイン、楽しみですね。何か計画はありますか?」
「いや、もらう専門だよ」
軽く笑って答えると、安藤さんは少し考え込んだように首をかしげた。
「紗希さんもきっと素敵なチョコを用意されるんでしょうね」
「たぶん、今年はちょっと違うのを作るって言ってた」
安藤さんはふんわりと笑みを浮かべた。
「仲が良いんですね。妹さんがそうしてくれるの、羨ましいです」
「そうかな。まぁ、紗希なりに気を使ってくれてるのかも」
帰宅すると、リビングから紗希の鼻歌が聞こえてきた。キッチンには材料が並べられていて、どうやら試作中のようだった。
「お兄ちゃん、ちょっと味見してくれる?」
キッチンに顔を出すと、紗希が小さなスプーンを差し出してきた。
「これ、まだ試作だけど」
「どれどれ〜」
一口食べてみると、少しビターな味が広がる。
「あ、意外と大人っぽい味だね」
「やっぱり? もう少し甘さを足そうかな」
そんな話をしながら紗希の真剣な横顔を見ていると、少しだけ胸が詰まった。
それと同時に、安藤さんのことを考える。気持ちを伝えなければならないと思うのに、どうしても紗希のことが頭を離れなかった。今年のバレンタインは、どちらの気持ちも受け止めなければならない。そんな心の葛藤を抱えたまま、ふと胸の中で息をついた。




