第十八話 揺れる想い
そのころから、紗希の態度に少し違和感を感じるようになった。
前よりもどこかぎこちない様子を見せることが増えて、あれ? と思うことが何度かあった。紗希の不安定な気持ちが悪化してきているんじゃないか……そんな疑問が頭をよぎることが増えてきた。
一方で、安藤さんにはどうしても頼ってしまう自分がいた。最初はただの同僚だと思っていたけれど、今はその優しさに引かれている自分がいることに気づいた。安藤さんが見せる無邪気な笑顔や、何気ない気遣いに、自然と頼りにしていたけれど、そう思う一方で、紗希のことを無視できない自分もいる。兄妹として、やっぱり気になる。
リビングでわたしが安藤さんと電話しているのを見て、紗希が我慢できずに言ってきた。
「お兄ちゃん、安藤さんばかり見てるよね。あたしの気持ちなんてどうでもいいの?」
紗希の声は震えてて、目は涙で潤んでいた。嫉妬心と混乱が痛いほど伝わってきた。
その言葉に、驚いてしまい言葉が詰まった。気づけば胸がざわついて、頭の中が混乱していた。わたしの中で何かが揺れ動いている。どう答えればいいのか、全く分からなかった。
「そんな……」と口にしかけたけれど、言葉が続かなかった。だって、安藤さんに対しては確かに惹かれているし、でも紗希の気持ちも考えると、簡単に答えを出すことなんてできなかった。どちらも大切で、どうしていいのか分からない。わたしはただ黙っていた。
そのまま黙っていると、紗希は少しだけ顔を背けて、ぎこちない笑顔を浮かべた。深呼吸して、「なんでもないよ、別に」と言ったが、その声はまだ震えていた。
その笑顔に、胸が締めつけられるような気がした。紗希の言葉と笑顔が、なんだか痛かった。どうしてこんなに苦しいんだろう?
そのあとも、安藤さんに対する気持ちを自覚していたけれど、紗希との関係も無視できずにいた。安藤さんの優しさに触れるたびに、少しずつ心が温かくなっていくのが分かったけれど、その温かさが、同時に紗希への思いとぶつかっているような気がして、どこか切なさが残った。もし安藤さんが自分の気持ちを伝えてくれる日が来たら、紗希の気持ちはどうなるんだろう? そのことを考えると、胸の奥に罪悪感が広がる。
最近、紗希は学校から帰るとすぐに部屋に閉じこもることが多くなった。
部屋のドアの前を通るたび、彼女が何かを書き留めている気配を感じる。
きっと、わたしの変化や安藤さんとの関係について考えているんだろう……。
顔が見えないけど、悩んでいるのが分かる。
*
アルバイトがない日の放課後、安藤さんに声をかけられた。
「楓さん、少しお話したいことがあります」
そう言われて向かったのは、学校近くの三春台第二公園だった。ベンチに座ると、安藤さんは少し緊張した様子でこちらを見つめていた。
「楓さん、紗希さんの気持ちは見ていればわかります。でも……」
一瞬、言葉を切った安藤さんの声は、どこか真剣だった。
「私だって負けたくないです。楓さんのこと、好きです。ずっと隣に居てください……。どうしても、この気持ちを伝えたくて……。
私、楓さんの頑張ってる姿を見てからずっと惹かれてたんです。女の子として生きる楓さんが、優しくて強くて、すごく素敵で……その気持ちが恋だって気づいたんです。」
その言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。まさかこんな風に直接言われるなんて思っていなかったからだ。安藤さんの言葉を聞いて、心の奥が温かくなって、ドキドキが止まらなかった。それは紗希への気持ちとは違う、特別な何かだ。わたし、安藤さんのことが恋愛として好きなんだって、やっと気づけた気がした。
「梓さん……」
名前を呼ぶだけで、他に何を言えばいいのか分からなかった。
安藤さんは少しだけ目を伏せた後、もう一度まっすぐこちらを見つめてきた。
「急にこんなことを言って驚かせてしまったかもしれません。でも、ずっと楓さんのそばにいて、もっと支えたいと思うようになったんです」
その言葉は、どこか温かくて、真っ直ぐにわたしの心に響いた。
「……ありがとう、梓さん」
絞り出すようにそう言った。しかし、その先の言葉がどうしても出てこなかった。
「正直、今は答えを出すのが難しいよ。紗希のこともあるし、わたし自身、どうしたらいいのかわからないんだ」
安藤さんは静かにうなずいた。
「大丈夫です。急いで答えを出さなくてもいいんです。ただ、私の気持ちだけは知っていてほしくて」
その穏やかな表情に、少しだけほっとした。けれど、心の中には複雑な思いが渦巻いている。紗希のこと、安藤さんのこと、自分の気持ち――どれも簡単に割り切れるものではない。
「梓さん、気持ちを伝えてくれて嬉しいよ。でも……少しだけ時間をもらえるかな?」
わたしの言葉に、安藤さんは柔らかく微笑んだ。
「もちろんです。待っていますから」
そう言って立ち上がると、安藤さんは軽く頭を下げ、学校の方へ歩いて行った。その背中を見送り、胸の奥にある答えを探そうとしていた。
*
その夜、わたしはリビングで紗希と向き合っていた。これまで避けてきたけれど、今はきちんと話をしなければならない。煮え切らない態度を続けることが、どうしてもずるく思えたからだ。
「紗希、ちゃんと聞いてほしいんだ」
そう切り出すと、紗希は少し目を伏せたまま、声を絞り出すように答えた。
「……わかってる。安藤さんなんでしょ?」
その言葉に、胸が締め付けられる。紗希の声には、必死に涙を堪えようとする気持ちが滲んでいた。紗希がどれだけわたしのことを大切に思ってくれているのか、ちゃんと分かっているつもりだった。
「梓が好きなんだ。でも、紗希がわたしのことを大切に思ってくれてるのも、わかってるよ。紗希は家族としてずっと大切……でも、梓への気持ちはそれとは違って、胸がドキドキして、彼女のそばにいたいって思うんだ」
紗希の目を見ながら、わたしは言った。それが恋なんだって改めて感じた。
紗希は小さくうなずいた後、少しだけ顔を上げてわたしを見た。
「……でも?」
その問いには、期待と不安が入り混じっているように感じられた。紗希は、わたしが何か言ってくれることを期待しているようだったけれど、その声は震えていて、すぐにでも崩れそうだった。
その問いに、わたしは一瞬言葉を詰まらせたけれど、覚悟を決めて続けた。
「でも、紗希はわたしにとって大切な妹なんだ。それは変わらない」
紗希はその言葉を聞いて、静かに目を伏せた。そして、小さく笑うように呟いた。
「……わかってるよ。お兄ちゃんが誰かを選ぶなら、あたしじゃないって。でも……それでも、気持ちは消せないの。ずっと、お兄ちゃんのそばにいたかった。男の子だった頃も、女の子になった今も……あたしにとって、お兄ちゃんは大切な人だから。
でもね、最近、なんだか前とは違う気がして……その、妹としてじゃなくて……好き、なのかもって。だから、ちゃんと伝えなきゃって思ったんだ。……でも、もう大丈夫。これで最後にするね」
その言葉を口にした紗希の目は、赤く腫れていた。紗希が抱えてきた気持ちの重さが滲んでいて、わたしはどうすることもできずに手を伸ばした。
「紗希……」
けれど、紗希はそっと首を振った。
「大丈夫。これ以上泣いたら、もっとみっともなくなっちゃうから」
そう言って紗希は立ち上がり、背中を向けて少しだけ振り返った。
「お兄ちゃん、自分の気持ちを大事にしてね」
その一言は、紗希の精一杯の強がりだったのかもしれない。何も言えず、ただその背中を見つめることしかできなかった。紗希は「じゃ、おやすみ」とだけ告げると、自室へと戻っていった。わたしはリビングに一人残され、しばらくその場から動けなかった。紗希が涙をこらえて見せた笑顔が、わたしの頭から離れなかった。