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第十四話 葛藤の中

 帰宅してリビングに入ると、紗希がすぐに声をかけてきた。

「おかえり、お兄ちゃん。お疲れ様。バイトどうだった?」

 鞄をソファの横に置き、軽く息をつく。

「うん、まぁ大丈夫……」


 短い返事をすると、紗希はわたしの顔をじっと見つめてきた。

「疲れてる? 無理しないでね」

 少し心配そうな声に、小さくうなずいた。

「うん、大丈夫だよ。少し休めば元気になるから」


 そう言ってソファに腰を下ろすと、やっと体がリラックスするのを感じた。頭の中では、今日の出来事やこれからのことが渦を巻いているけれど、それをすべて整理するにはまだ時間が必要だった。


 紗希がぽつりと口を開いた。

「ねぇ、お兄ちゃん、どうしてその決断をしたの……女の子として生きるって」

 その言葉に、ボクは少しだけ驚いた。

 紗希はこれまで直接的なことはあまり聞いてこなかった。それでも、きっと察していたんだろう。だからこそ、ボクの気持ちを確認したかったのかもしれない。


 視線を少し落として、考えるように息を吸い込む。

「……紗希には隠せないね」

「当たり前じゃん。お兄ちゃんのこと、いつも見てるんだもん……」

「そうだよね……。うん、最初は悩んだよ。正直、戻れるなら戻りたいって思ったこともある。でも、身体が変わってしまった以上、どうにもならないってわかったとき、自分に何ができるのかをずっと考えてたんだ。男としての自分が完全に消えたわけじゃないけれど、それを追い求めるより、今の自分を受け入れる方が自然だと思った。だから、女の子として生きることを選んだんだ」


 紗希はボクの言葉を静かに聞いていた。そして、小さく息を吐くと、少し微笑んでこう言った。

「そうなんだ……でも、焦らなくていいんだよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんのままで」

 その言葉が、ボクにはすごく嬉しかった。無理に励まそうとするんじゃなくて、ただそのままのわたしを受け入れてくれる感じがした。


「ありがとう、紗希」

 思わずそう呟くと、紗希は「うん」と小さく返事をして、隣に座った。



 次のアルバイトの日、仕事がひと段落ついた頃、安藤さんが「お疲れさまです」と研究室に入ってきた。


「あ、お疲れ様、楓さん」

「お疲れ様、梓さん」

 いつものようにちょっとした雑談をしているとき、ふと気になっていたことを尋ねた。

「ねぇ、梓さん。あのとき、ボ……あ、わたしは少し不安だったけど、梓さんはどうしてあんなに冷静だったの?」


 それはボクが『女の子として生きていくしかないんだ』って安藤さんに話したときのことだ。あの瞬間、わたしは自分の気持ちを伝えることで精一杯で、相手の反応を気にする余裕もなかった。でも今になって、あの落ち着いた態度が妙に気になってしまったのだ。


 安藤さんは一瞬考え込むような仕草を見せた後、ふっと笑みを浮かべた。


「冷静だったのは、楓さんがあまりに一生懸命でかわいかったから……なんて、冗談です」

「……本当に冗談?」

 少し眉を上げて見せると、安藤さんはくすっと笑った。


「本当のところを言うと、楓さんがどう思っているのかを大事にしたかったんです。だから、あえて何も言わずに、楓さんが自分のペースで向き合えるように見守るのが一番だと思ったんです」

 その言葉に少し驚いたけれど、ほっと息をついた。

「ですから、無理に心配したりはしなかったんです。楓さんがこれからどうやって自分らしく生きていくのか、それを楽しみにしてます」


 安藤さんの言葉には、何の押しつけがましさもなく、ただわたしを信じてくれている優しさがあった。そんな風に見守られていると思うと、少しだけ肩の力が抜けた気がする。


「ありがとう、梓さん。これから少しずつ、自分らしく生きていこうと思う……でも、人前ではボクっていうの、やめてみるよ」

「その調子ですね。応援してますよ」


 その言葉が、不思議と心にしっくりと馴染むのを感じた。応援されるって、こんなに心強いものだったんだな……。少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、小さく「ありがとう」ともう一度繰り返した。



 その日のアルバイト後、ボクはリビングでぼんやりと座っていた。

『女の子として、自分らしく生きていく』と決めたけれど、心の中は迷いだらけ。どんなに考えても、明確な答えは見つからない。


 ふと顔を上げると、紗希がリビングに入ってきた。

「お兄ちゃん、ちょっと話せる?」

 普段の紗希とは少し違う声色に、軽くうなずいた。真剣な目つきに、何か大事な話なんだと察する。


「どうしたの?」

「最近、安藤さんとよく電話したり、メールしてるでしょ? 安藤さんと話してるとき、なんか楽しそうだし」


 意外な言葉に、思わず息を飲んだ。紗希がそんなことを気にしているなんて、考えたこともなかった。


「え?」

「……あたし、それがどうしても気になっちゃうの」

「それが、どうして気になるの?」


 紗希は少し間をおいて、ためらうように言葉を続けた。

「お兄ちゃんが安藤さんと話してるのを見ると、胸がギュッと締めつけられるみたいで……」


 その一言に、ボクはどう答えればいいのか分からなかった。紗希の顔は赤く染まり、目を伏せている。

「でも、安藤さんとは研究室でのことを話してただけだよ。そんなに気にすることじゃないと思うけど……」

 自分の視線を紗希から逸らしていた。


「そうだとしても……あたしは、やっぱり気になっちゃうの」

 その言葉が、妙に胸に引っかかった。


 その夜、ボクは一人で考え込んでいた。

 紗希がボクと安藤さんに嫉妬している――そのことが、思いのほかボクの心をかき乱していた。


 大切な妹である紗希。その紗希が抱える複雑な感情に、どう向き合えばいいのか分からない。

 そして、安藤さんのことも気になる。彼女は仕事を通じて、ボクを支えてくれる大切な存在だ。彼女がボクに対して抱いている感情――それが単なる仲間以上のものだと感じたけれど、自分の気持ちを整理することすら難しかった。


 ボクは静かに目を閉じた。紗希の気持ち、そして安藤さんへの揺れる感情――これからの道を考えるには、少し時間が必要だと思った。



 翌日、午後五時少し前。

 研究室で安藤さんと顔を合わせる。

「お疲れ様、楓さん」

 安藤さんはいつも通り、穏やかな笑顔を向けてきた。

「お疲れ様」

 ボクも微笑み返したけれど、どこか上の空だった。


 仕事がひと段落したタイミングで、ずっと気になっていたことを思い切って尋ねた。

「……梓さん、わたしにとって、キミは……どういう存在?」

 その問いに、安藤さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。

「楓さんにとっては、支えになれる存在でいたい。そう思ってます。仕事だけじゃなくて、楓さんが迷っている時に少しでも力になれたら嬉しいなって」

 その言葉が、ボクの心にじんわりと響いた。安藤さんは本当に、ボクを思いやってくれている。それだけで少し安心した。


「ありがとう、梓さん。これからも、よろしくね」

 ボクはその言葉を心から伝えた。



 紗希と安藤さんの気持ちの両方に応えることは、ボクにとってとても難しい。

 どちらも大切な存在であり、その気持ちをどう扱えばいいのか、分からないままだ。

 ボクと安藤さんのやり取りを見ている紗希は、心が乱れているように見える。たまに見せる、あからさまな不安げな表情が、ボクの胸に重くのしかかる。

 それがどうしても気になって、ますます答えを出せなくなっていく。


 安藤さんはボクに寄り添い、少しでも支えになりたいと感じてくれているのが分かる。その優しさが、ボクを困らせる。

 その気持ちに応えるべきなのか、それとも妹としての紗希を大切にすべきなのか。


 どちらにしても、自分らしく生きていくことだけは変わらない。

 誰かに流されるのではなく、自分の心に正直に、前を向いて進んでいこう。

『これからどうするべきか、まだ分からないけれど……少しずつ、自分の気持ちに向き合っていこう』

 そう心に決め、前を向くことができた。


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