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第十三話 現実の選択

「楓太、ちょっと話がある」


 父さんに呼ばれたのは、十二月の寒さが身に染みる夕方だった。


 研究所の所長室に入ると、父さんのデスクの前の応接セットには成瀬先生も座っている。

 父さんと先生だけ……胸騒ぎを覚えた。


 父さんがデスクから立ち上がり、真剣な表情でこちらを見た。その顔を見ただけで、嫌な予感が胸をよぎる。何かを言い出すのは分かっていたけれど、どんな内容なのか予想もつかない。椅子に腰掛け、無意識に背筋を伸ばした。


「楓太、今の技術では……成長途中の身体を元に戻す、つまり女子化を止めて、もう一度性分化させられる薬は作れないんだ」


 父さんの静かな声が部屋に響いた。その言葉が耳に届いた瞬間、頭が一瞬真っ白になった。意味を理解しようと必死になったけれど、どうしても整理できない。その言葉を自分が必死に拒絶しているかのようだった。


 成瀬先生が穏やかな声で続けた。

「楓太くん、君の身体は現在成長途中で、ホルモンの影響により女性的な特徴が強く現れています。性染色体は依然としてXYですが、身体的には女性としての発達をたどっており、今後もその傾向が進むと予測されます。たとえば、これから生理が始まる可能性も十分に考えられるんです」


「生理――」


 その言葉が、胸に突き刺さったような感覚に変わった。頭の中で反響し、他の音がすべて遠くに感じられる。どうしてこんなことになったのか、混乱の中でその問いが心を占めていた。元に戻る方法は本当にないのか。その思いが胸の中で繰り返されるけれど、どう言葉にすればいいのか分からない。


「……そうなんだ」 やっと口を開いたけれど、それ以上は何も言えなかった。心の中で整理できていないことを、どうしても言葉にできなかった。


 父さんが再び口を開く。

「研究を続けたが、今の技術では成長途中の身体を元に戻すことはできない。それが現実だ」


 その声には、父さん自身の深い悔しさと、無力感がにじんでいた。科学者としての誇り、そして父親としての心情が交錯しているのが伝わってきた。どうにかしてやれなかった自分を悔いているように感じた。


「これからどう生きるかは、楓太、お前が決めることだ。ただ、その決断を私たちは全力で支えるつもりだ」


 父さんの言葉は冷静だったけれど、その奥に温かな思いが込められていた。どうしようもない現実に直面している自分を、何とか支えようとしてくれているのが伝わってきた。


 成瀬先生も穏やかな口調で続ける。

「君がどんな道を選んでも、一緒に考えるし、応援するよ。だから、焦らなくていいんだ。まずは、今の自分を受け入れることから始めよう」

 その言葉は、心にそっと寄り添ってくれるようだった。でも、迷いの霧は晴れない。自分がどうしたいのか、どんな選択をすべきなのか、その答えはまだ見つからない。

 部屋を出るとき、足元がふらつき、外の冷たい空気を深く吸い込んでみても、心の中の重さは消えなかった。それでも、どこかで誰かが手を差し伸べてくれるような、そんな気がしていた。



 家に帰ると、紗希がテーブルに広げたノートに何かを書いているのが見えた。宿題をしているのか、それとも絵でも描いているのだろうか。


 ドアを閉めた音に気づいたのか、紗希が顔を上げる。

「お兄ちゃん、おかえり〜 遅かったね」と、にっこり笑うその顔に、ほんの少しだけ心が軽くなった。


「うん、ちょっといろいろあって……」

 曖昧に答えて、ボクはそのまま紗希の隣に腰を下ろす。


 ノートに目を向けると、きれいな文字が並んでいる。おそらく学校の課題だろう。その真面目さが紗希らしいと思い、なんだか遠い世界のことのように感じてしまう。テーブルに肘をつき、深いため息をついた。


「大丈夫? お兄ちゃん」

 紗希の声が柔らかく耳に届く。その優しさが胸に染み込むようで、顔を上げると、いつもの笑顔がそこにあった。でも、今日はどこか遠く感じる。


「大丈夫だよ」

 そう答えたけれど、自分でもその言葉が嘘だと分かっていた。


「本当に?」

 紗希の声が少し低くなり、心の奥にまで響く。その問いにどう答えればいいのか、しばらく黙ってしまう。


「……何かあったの?」

 その声に、視線を落とす。


「……うん」

 震える声で、ようやく言葉を出す。


「身体を元に戻す方法がないって……言われたんだ」


 紗希は驚いたように目を見開いたが、すぐにその瞳に優しさが宿った。


「そっか……でも、お兄ちゃんがどうしたいかが一番大事だよ」


 紗希の言葉は静かで、真剣にボクを見つめている。その瞳に逃げ場なんてない気がして、胸が少し苦しくなる。


「あたしは、どんな選択でも応援するから」

 その言葉に、どれだけ自分が支えられているのか、改めて気づかされる。


「ありがとう……ボクは女の子として……生きるしかないってわかったんだ。だけど、正直まだ不安で……」

 小さな声でそう言うと、紗希はいつもの笑顔を浮かべて「うん、いいんだよ」とうなずいた。その瞬間、心の中にほんの少し光が差し込んだ気がした。



 翌日、安藤さんにも話そうと思った。

 頼れる安藤さんだからこそ、この胸の内を伝えたくて。


「安藤さん、ボク……女の子として生きていくしかないんだって」

 声に出すと、少し震えたけれど、どうしても伝えなきゃいけない。その言葉を聞いた安藤さんは、ほんの一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、すぐに柔らかな笑顔を浮かべてくれた。その笑顔には、安心感と温かさがにじんでいた。


「楓さんは、楓さんらしく生きていけばいいんですよ」と安藤さんが言ったとき、その言葉の重みを胸に感じた。

 昨日まで当たり前だったボクの存在が、今は全く違う形で立っていることに戸惑い、混乱していた。

 男として築き上げてきた自信やプライドは、今では手探りで新しい自分を探す旅へと変わっていた。

「ボクらしくって……どうしたらいいのか、まだわからない」と思わず呟いた。

 心の中では男である自分が存在し続けているのに、外見は完全に女の子として受け入れられる必要がある。そんな葛藤と不安が、ボクの心を揺さぶっていた。

 それでも、安藤さんの優しい言葉がボクを支え、少しずつ自分を受け入れる勇気を与えてくれた。


 正直にそう伝えると、安藤さんは優しくうなずいてくれた。

「焦らなくて大丈夫ですよ。女の子としてなんて考えないで、自分らしく生きられるように、ゆっくり考えればいいんです」

 その言葉に、少し気が楽になった気がした。でも、どうして安藤さんはこんなにも冷静でいられるんだろう? その理由が気になった。


「ねぇ、梓さん……なんでそんなに普通に受け入れられるの? ボクが楓太だって知ってたから?」

 言葉にするのは少し怖かった。でも、安藤さんならちゃんと答えてくれる気がして、思わず名前で呼んだ。


 安藤さんは少し考えてから、静かに答えた。

「はい、初めて会ったときからどこか違和感があったんです。でも、気づいてしまって」


「……」

「でも、どうして? って、なぜか不思議に感じませんでした。むしろ、楓さんがこんなに頑張っているのを見て、すごいなと思いました」


 その言葉は、驚くほど優しくて、「頑張っている」と認められたことが、ボクの心に少しだけ温かさをもたらした。安藤さんの鋭さに驚くと同時に、その温かさに救われる気がした。


「ありがとう……梓さん」

 自分の中で安藤さんを名前で呼ぶことが自然になり、小さな声でそう呟くと、また柔らかく微笑んでくれた。


「楓さんが、女の子として生きるのを見守っていたいんです。そんな楓さんが本当に素敵だなって、思うんです」

 その言葉に少し驚いたけれど、心が温かくなるのを感じた。


「いつでも話してくださいね、楓さん。私、ずっと応援していますから」

 その瞬間、ボクの中にあった不安が少しずつ和らいでいくような気がした。


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