第十一話 つながる絆
翌朝、キッチンに行くと、制服姿の紗希が「おはよう、お兄ちゃん」と小さな笑顔を浮かべてきた。
その笑顔は、何かを気遣うような優しさが混じっている気がしたけれど、昨夜のことについては一言も触れない。
「じゃ、行ってきます」と手を振って学校に向かった。
そのあと、学校から帰ってきた午後も、次の日曜日も、紗希は特に何も言っては来なかった。
紗希は紗希で安藤さんの言葉を考えているようだったし、ボクの方からもふれることはなかった。
そして、ボクも自分なりにある程度の答えを考えだしていた。
きっと安藤さんはボクが楓太だと気づいている。でも、あの『楓さんのことをもっと知りたい』という言葉――それはただの興味本位に違いない。
安藤さんが女の子が好きなのは知っているし、ボクの中身が男だと知った上で、そんな感情を抱くはずがない。
絶対に、そんなわけないよな……。
そう結論づけることで、なんとか気持ちを落ち着けようとした。
けれど、その言葉を自分に言い聞かせるたびに、なぜか胸の奥がざわついてしまうのは、どうしてなんだろう。
*
月曜日、アルバイトの日。
安藤さんとは「お疲れ様です」の挨拶ぐらいしか交わさず、金曜日の話の続きもなかった。
このまま有耶無耶になればいいな……なんて思いながら、そろそろ帰ろうと片付けをしていると、安藤さんがふいに近づいてきて、小さな声で聞いてきた。
「楓さんって……北条楓太くんで合ってますよね?」
その言葉に、一瞬固まってしまった。視線を上げるのも怖くて、手に持ったファイルをぎゅっと握りしめる。心臓がどくどくと音を立て、呼吸が浅くなるのが自分でも分かった。
それでも、なんとか平静を装おうと苦笑いを浮かべた。
「……やっぱり気づいてたんだね」
ボクの返事に、安藤さんは一瞬驚いたように目を見開いた後、申し訳なさそうに眉を下げた。
「最初は気のせいかなって思ったんですが、話しているうちに、どうしても気になってしまって……つい、生徒名簿を調べてしまいました。本当にごめんなさい」
「……どうしてそこまで?」
戸惑って尋ねると、安藤さんは視線を少し落とし、冷静に言葉を続けた。
「女の子として頑張っている楓さんが、とても素敵だなって思って……だから楓さんのこと、もっと知りたいと思ったんです」
その言葉に驚いたけれど、不思議と嫌な気持ちは抱かなかった。むしろ、心のどこかでほっとしたような気がした。
「そっか……ありがと。でも、ちょっと恥ずかしいかも」
そう言うと、安藤さんは一瞬きょとんとした後、控えめに微笑んだ。
「ごめんなさい。でも、これから何かあれば、気軽に頼ってくださいね」
その笑顔と言葉に、ボクの胸の奥の緊張が少しずつ解けていくような気がした。安藤さんの優しさが、少しだけ肩の力を抜かせてくれたような気がする。
その日、ボクと安藤さんはスマホの連絡先を交換し、安藤さんは自分のことを『梓』って呼んでほしいと言ってきた。
「あの……その方が、親しみやすいかなって」
安藤さんの目は、どこか少し照れくさいようで、でもどこか温かさを感じさせてくれるものだった。
*
アルバイトから帰ると、いつものようにリビングに紗希がいた。
「おかえり、お兄ちゃん」
その言葉に、ほんの少しだけ安心する。でも、心の中ではどうしても安藤さんのことが離れない。『頼ってください』と、『梓』って呼んでほしいって言われたことが、頭の中でぐるぐる回っている。
「ただいま、紗希」
軽く返事をしながら冷蔵庫を開けて、何気なく飲み物を取り出した。そのとき、ふと紗希がじっと見ていることに気づき、少し驚く。
「お兄ちゃん、今日は元気なさそうだね」
その言葉に、思わず焦ってしまった。隠していた気持ちがバレそうで、胸の中がザワザワする。
「うん、ちょっと考え事してた」
無理に笑顔を作って答えたけれど、ぎこちなくて、自分でも気づいてしまう。心の中では、安藤さんのことがどうしても引っかかっている。
安藤さんが『梓』って呼んでほしいと言ったとき、何か特別な意味があるのか、どう反応すべきか分からなかった。
『頼ってください』と言われたことは分かる。たしかに安藤さんの方が先輩だ、女の子として。
『女の子として頑張っている楓さん』とも言われた。ボクが「女の子」として認められている――これはもしかしたら、安藤さんはボクのことを女の子として好きになりかけているってことなのか?
安藤さんといると、なんだか……と、思考を途中で止める。研究所でのやり取りが頭を巡り、彼女が何気なく話す声や、自分を見つめるあの瞳が気になって仕方がない。
安藤さんの目が……と考えながら、ぼーっとリビングのテレビを眺める。これから自分がどうなるのか、どんな決断を下すべきか、不安と戸惑いが胸を締め付ける。
どうしてこんなに気になるんだろう……? と、自問する。彼女の笑顔や、今日の何気ない会話を思い出すたび、安藤さんへの気持ちと、これから自分が直面すべき現実との間で揺れ動く自分に気づく。
どうしてこんなに苦しいんだろう……と、言葉に出そうになる。
その時、ボクのスマホが震えた。心臓が止まるかと思った。画面に映ったのは『安藤梓』――少し迷ったけれど、電話を取った。
「もしもし?」
『楓さん、今話せますか?』
安藤さんの声はいつもより柔らかく、どこか優しさがにじんでいて、胸が少しだけ高鳴った。けれど、目の前にいる紗希が気になって、すぐに返事をした。
「今、ちょっと忙しいんだ。後でかけ直してもいい?」
『はい、わかりました。では後ほど……』
電話を切ると、無意識に紗希にちらっと目を向けた。
「誰からだったの?」
紗希の問いに、少しためらったけれど、
「安藤……梓さん。普通に友達になっただけだよ」と答える。
紗希はその言葉に、一瞬口元を引き結び、何か言いたそうな様子を見せた。でも、すぐにいつもの柔らかな表情に戻り、それ以上何も言わなかった。ただ、じっとボクを見つめるその視線には、探るような気配がわずかに残っていた。
安藤さんからの電話を受けて、少し心がざわついた。まだ、何も特別なことは起きていないけれど、電話の安藤さんの声が気になって仕方なかった。どうしてこんなに胸が高鳴るのか、自分でも分からないままだった。
自室に行き、ドアを静かに閉めてから、安藤さんに電話をかけ直した。隣の部屋に紗希がいるかもしれないと思うと、少しだけ胸がざわついたけれど、それでも声が聞きたくなった。
『もしもし、楓さん?』
「うん、さっきはごめん。紗希もいたし」
安藤さんの声はどこか心地よく、自然と緊張がほぐれていくのを感じた。話は仕事のことや他愛のないことだったけれど、話すうちに安藤さんがボクのことを気にかけてくれているのが伝わってきて、少しだけ気持ちが軽くなった。
電話を切ると、ふと紗希のことを思い出した。隣の部屋にいるのかは分からないけれど、あの視線の意味が気になって仕方なかった。安藤さんとのやり取りが紗希にどう映ったのか――そのことが、ボクの胸に静かに波紋を広げていた。




