幕末からある青函トンネル
青函トンネルが江戸時代末期に転移した世界の架空戦記です。
青函トンネル。
北海道と本州を結ぶ海底トンネルは皆さんご存知ですね。
このトンネルは江戸時代末期からあります。
しかし、当時の日本はもちろん、世界のどこの国にも青函トンネルを建設する技術はありませんでした。
青函トンネルは、パラレルワールドの未来からこの世界の江戸時代末期にタイムスリップしたと現在では推測されています。
1853年、アメリカ合衆国からのペリー提督の黒船が日本に来航した少し後、松前藩の渡島半島と弘前藩の津軽半島の地元民から「奇妙な洞窟が発見された」とほぼ同時期に藩に報告がありました。
地元民によると、以前はそこに洞窟はなかったのは間違いなく、洞窟の地面には鉄の棒が数本敷いてあり、洞窟の壁は塗り固めたようになっており、見たことのない明かりで洞窟内部が照らされているということでした。
松前藩と弘前藩は、情報共有することはなく、それぞれ同時に、藩士・山師・猟師から成る調査隊を洞窟に派遣しました。
そして、洞窟の中で二つの調査隊は出会ったのです。
洞窟は津軽海峡の海底を通り、渡島半島と津軽半島を結んでいることが分かりました。
洞窟の中央には、鉄の棒の上に車輪が付いた大きな鉄の箱がいくつもありましたが、調査隊にはそれが何か分かりませんでした。
松前藩・弘前藩は江戸幕府に報告し、幕府は現地に調査団を派遣しました。
その調査団の一員に、ジョン万次郎こと中浜万次郎がいました。
調査団に中浜万次郎が参加していたのは、アメリカで生活していた経験から、「洞窟の地面に敷かれた鉄の棒」に心当たりがあったからでした。
万次郎の予想通り、それは「鉄道」でした。
万次郎がアメリカで乗ったのは、蒸気機関車でしたが、知識としては「電車」は知っていました。
洞窟の中には電気機関車と客車・貨車があったのでした。
洞窟の天井には架線があり、どこから来るのか分かりませんが、電気が通っていました。
電気機関車のマニュアルなどはありませんでしたが、試行錯誤の結果、運転方法は分かりました。
この海底トンネルが何故あるのかは、誰も解明できませんでしたが、北海道と本州の交通には便利なので使うことにしました。
江戸幕府は「津軽海底隧道」と名づけ、それが今でも正式名称ですが、現在では「青函トンネル」あるいは「津軽海峡トンネル」と呼ぶのが一般的です。
明治時代となり、北海道側と青森県側のトンネル出口に線路を敷設しました。
トンネルにもともとあった電気機関車・客車・貨車は何故かトンネルからは出られませんでした。
青函トンネルで列車を運行した当初は、トンネルまで蒸気機関車が列車を牽引し、トンネルの中で電気機関車に付け替えていましたが、列車本数が増えると、トンネルの中にもともとあった電気機関車一両だけではさばけなくなりました。
もともとトンネルの中にあった車両は解体すると、トンネルの外に出せると客車・貨車で分かったので、電気機関車も解体しました。
性能的には劣りますが、外国から多数の電気機関車を輸入しました。
解体した電気機関車を研究し、後には国産電気機関車を製造するようになりました。
さて、船舶を使わずに北海道・本州を鉄道一本で結べる青函トンネルが存在したことで、東北本線の建設が進みました。
青函トンネルの中のもともとある架線を通っている電気は、トンネルの外には通電しませんでした。
新しく架線を張り、火力発電所を建設すると、トンネルと地上を通して通電するようになりました。
北海道の豊富な石炭による火力発電所が多数建設され、北海道の鉄道の電化は日本で一番早く進みました。
日本陸軍は「発電所や変電所が敵軍に破壊されたら鉄道が使えなくなる」と、電化に反対でしたが、青函トンネルにもともとあった電気機関車が、蒸気機関車よりはるかに速度もパワーもあり、エネルギー効率も良いということが分かっていたので、鉄道側が押し切りました。
東北本線は、北海道の発電所からの電力により、北の方から電化されました。
関東の方が電化が遅れたため、札幌発上野行きの直通列車に乗った乗客は、関東に列車が入ると蒸気機関車の煙に悩まされることになりました。
北海道では蒸気機関車は、入れ換え用か一部の軽便鉄道でしか見なくなっていたので、「東京モンはオラたちを田舎モンと言うが、蒸気機関車がまだ走っているなんて、東京の方が田舎だ」というのが当時の定番ジョークでした。
さて、日露戦争後、南樺太が日本の領土になると、上野から樺太の豊原まで直通列車が走るようになりました。
北海道と南樺太の間には海底トンネルは無いので、鉄道連絡船で結びました。
連絡船の中にはレールが敷いてあり、乗客は列車に乗ったまま、連絡船から乗り降りできました。
南樺太は、ロシア帝国、後にはソビエト連邦と直接国境が接しているため、陸軍が鉄道の電化に強く反対しました。
南樺太は蒸気機関車が走り続けることになりました。
日本は、1910年に朝鮮半島を併合しました。
朝鮮半島には、国防のために必要な鉄道などの最低限なインフラ整備をしただけで、日本政府は、北海道と東北地方に開発予算を投入しました。
「新たに得た別宅よりも、まず本宅に金をかけるべきである」
と、ある政治家が語ったのが日本政府の方針でした。
青函トンネルが存在しなかったら、北海道・東北地方の発展は遅れたことでしょう。
上野と札幌・豊原の直通列車は、最初は列車番号だけで、愛称はありませんでしたが、寝台急行に格上げになると、列車愛称が付けられるようになりました。
上野・豊原間の寝台急行は「樺太」、上野・札幌間の寝台急行は「北海」と名づけられました。
上野・青森間の寝台急行には「みちのく」と名づけられました。
どれも、一等寝台車・食堂車が連結された編成でしたが、太平洋戦争末期になると、寝台車・食堂車が廃止され、列車愛称も廃止されました。
太平洋戦争末期、日本の敗色は濃厚になっていました。
沖縄はすでにアメリカ軍に陥落し、北海道にはソ連の魔の手が伸びようとしていました。
日本とソ連は不可侵条約を結んでいましたが、スターリンはそれを破棄するつもりだったのです。
ソ連は、北海道を占領し、青函トンネルを使っての本州への侵攻を計画していました。
そのため、ソ連は青函トンネルへの破壊工作は厳禁としていました。
そのため、太平洋戦争末期になっても北海道と本州の間の鉄道輸送は順調でした。
日本近海では、アメリカ軍の潜水艦と機雷により、海上輸送が困難になっていました。
青函トンネルがなければ、北海道・南樺太防衛のための兵力移動は不可能だったと言われています。
ソ連は南樺太への侵攻作戦と北海道への上陸作戦を同時に実行しました。
日本は、地続きの南樺太の防衛のために、現地の民間人はソ連の侵攻前に北海道に疎開させていました。
鉄道連絡船で可能な限り、三式中戦車などの兵力を南樺太に送りました。
ソ連は北海道上陸作戦に主力を送り込んだため、南樺太のソ連軍は比較的少数で、南樺太の日本陸軍は押し込まれながらも逆襲に成功し、終戦時には戦前の国境線まで回復していました。
北海道上陸作戦のために、ソ連は大船団を用意しましたが、アメリカ海軍との死闘を繰り広げた日本軍から見ればあまりにも貧弱な海上兵力のため、多数の船舶が撃沈されました。
それでも、上陸に成功したソ連軍は、北海道に配置した日本軍からはあまりにも強大でした。
日本軍は激しく抵抗しましたが、ソ連軍は函館を目指しました。
青函トンネルを占領して、本州への侵攻ルートを確保しようとしたのです。
ここで、アメリカ軍が介入しました。
アメリカ政府は、青函トンネルがソ連の手に渡ると、戦後の日本の占領統治に支障が出ると考えたのでした。
函館をめぐって交戦中だった日本陸軍とソ連軍の頭上から史上初の原子爆弾を投下したのでした。
両軍に壊滅的な被害が出て交戦は停止しました。
ソ連政府はアメリカ政府に抗議しましたが、その回答は、洋上のソ連第二次上陸船団に向けての原爆投下でした。
スターリンは満州・朝鮮半島の解放を大々的に宣伝し、北海道・南樺太のことは触れなくなりました。
ソ連軍は、北海道から撤退し、北海道・南樺太は戦前からの領土を日本は維持しました。
戦後、日本はアメリカ軍による占領統治が始まりました。
アメリカは最初は日本に軍備を放棄させるつもりでしたが、ソ連の脅威が存在するため、制限付きで軍事力の保持を許しました。
日本海軍は、戦艦・空母の建造・保有の禁止、一万トン以上の軍艦を建造する時には、アメリカとの協議が必要となりました。
新設される日本空軍は、戦闘機・輸送機のみで、大型爆撃機の保有は禁止されました。
日本陸軍は、兵員数の上限を十八万人とされましたが、戦闘車両については何も制限はされませんでした。
アメリカは、日本軍をソ連の脅威からの「盾」にするつもりだったのです。
日本はそれを受け入れました。
さて、戦後、上野からの札幌・豊原への直通列車は復活しました。
車両不足により、寝台車・食堂車はなく、寝台急行は復活できませんでした。
南樺太は、激戦地となったため、インフラは破壊され、元の住民もなかなか戻らず、日本政府は税金の優遇措置などで住民を増やそうとしました。
しかし、住民は少ないままだったため、国鉄は南樺太の鉄道を電化するのは採算に合わないと判断しました。
本州・九州の路線が電化・ディーゼル化したため、余剰となった蒸気機関車が行く場所が南樺太となりました。
南樺太が、日本の現役蒸気機関車終焉の地となりました。
現役蒸気機関車が全廃される前のSLブームの時には、全国から鉄道ファンが南樺太に集まりました。
現在でも、イベント用に蒸気機関車C62を年に一度は走らせているため、全国から観光客が集まります。
鉄道ファンにとっては、ディーゼル機関車DD51が最後に定期運用されている地として、南樺太は知られています。
昭和20年代後半には、札幌・豊原直接の寝台急行が復活し、「樺太」「北海」の列車愛称も復活しました。
昭和30年代には、寝台特急に昇格し、東京・博多間の寝台特急「あさかぜ」に続いて、当時「走るホテル」と呼ばれた20系客車が投入されました。
1988年に新幹線専用の「第二青函トンネル」が開通し、東京・札幌間を新幹線で結びました。
上野・青森間の寝台特急「みちのく」、上野・札幌間の寝台特急「北海」は新幹線札幌開業にともない廃止されましたが、寝台特急「樺太」は、2025年現在も上野・豊原間を結ぶ列車として健在です。
寝台特急「樺太」は、ゆったりとした旅を楽しむための列車になっています。
国鉄は昭和の終わり頃に、国鉄が「分割民営化」される案もありましたが、「民営化されれば利益優先で赤字路線が廃止になり、地元民が不便になる」との考えから、分割民営化はされませんでした。
ソ連と直接国境を接している南樺太は、冷戦時代、防衛の最前線になりました。
北樺太との鉄道は分断され、国境は日本もソ連も厳重な警戒をしました。
ソ連の崩壊後、ロシア連邦との関係が比較的良好だった時期は、北樺太と南樺太の鉄道が繋がり、直通列車が運転されたこともありました。
イベントのための数回ですが、寝台特急「樺太」が北樺太に乗り入れたこともあります。
ロシアの鉄道は、軌幅は1520ミリですが、北樺太は日本の在来線と同じ1067ミリです。
北樺太の鉄道も1520ミリに改軌する計画がありましたが、「南樺太との車両の往来ができなくなる」という理由で中止になりました。
このまま友好的な関係が続くかと思われましたが、2022年2月24日に発生したロシアのウクライナ侵攻により、日本は北樺太への列車をすべて運休、北樺太からの列車受け入れも中止しました。
一時は、寝台特急「樺太」も稚内止まりになりました。
現在では、寝台特急「樺太」の豊原終着が再開しましたが、南樺太への観光客は減少しています。
2025年現在、北樺太と南樺太の鉄道のレールは繋がったままですが、列車が走ることはなくなりました。
次に北樺太と南樺太の間に列車が走るのは、「軍事輸送のためなのか?」「友好のためなのか?」
後者であることを願います。
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